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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
23 星の海(前編)
148/405

予感

 今まで生で聞いたピアノ演奏の中では一番印象的だったけど、めっちゃくちゃ怖かった……


 呟き、両手で顔を覆ったオリオン。

 伊久磨もまた、天井を見上げ、目をしばたいて涙をやり過ごしながら、「凄かった……。じご……天国が見えた」と呟いた。


「地獄って言った」

 光樹に聞き咎められたが、伊久磨はゆるく首を振り、鼻を啜る。

「言ってない言ってない」

 誤魔化した伊久磨を睨みつけてから、光樹はオリオンに向き直る。

「泣くほど」

「演奏は最高だったよ……」

 ぷるぷると震えながら、オリオンが答えた。

 むう、と光樹の横顔がふくれっ面になる。

(こんな顔するんだ。表情がどんどん鮮やかになる。ピアノの話題だから?)


 ふっと風を感じた気がして、伊久磨は首をめぐらせた。

 キッチンとホールの境目。壁に片手をかけて、由春が見ていた。

「シェフ」

 逃がすまいと声をかけると、由春はゆっくりと歩いて来る。


「寝ようかと思ったけど、寝られなかった。相変わらず、すげーピアノ」

 光樹の顔が、ややひるむ。


 指から闇が沁み出し、嵐の只中に引きずり込まれる。張りつめた音。

 途切れない緊張。挑んでくる強さ。

(嫌な音じゃない。心が震える。揺さぶられる。凄いんだ……)

 闇の彼方でずっと叫んでる。独りで。 


「先生の息子さん」

「それ、長いな。由春だ」

 名乗られても、もぞもぞ居心地悪そうにするだけで、名前を呼ぶことはない。

(……やっぱり、俺に対してだけ当たりがきついよな?)

 気のせいじゃないよな、と伊久磨はその横顔に目を向ける。


 由春は光樹の浮かない様子を気にする素振りもなく、ピアノのそばまで来ると、椅子に座ったままの光樹を見下ろして「『エリーゼのために』は?」と言った。

 ひ、とオリオンが息を飲む。

(気持ちはわかる。そのエリーゼはきっと死んでしまう。それならいっそ「亡き王女のためのパヴァーヌ」とか「勿忘草」とか、すでに死……)

 勿忘草。

 胸に変な痛みがはしった。少し前、ここでその曲を聞いて涙を流したひとがいた。


「何を弾いても、音が」

 光樹の目から光が失せていき、茫洋とした表情になる。

 じっと見つめたまま、由春が穏やかな声で「音が、お前の音になるんだろ」と言った。


「気が滅入るとか。聞きたくないって言われる」

 切実に訴えるでもなく、下を向いてしまう。

 手は鍵盤を離れて膝の上に。あれほど自在に動いていたのが嘘みたいに、がちがちに固まっているように見える。

 身動き一つせず、呼吸すらしない「石」に戻ってしまう。

 否定。諦め。荒れ狂う音を内側に押し込んで、蓋を閉ざすように。


「『パリは燃えているか』」

 曲名を言いながら、伊久磨は光樹の右隣に腰を下ろした。肩や腕がぶつかって、光樹が顔をしかめながら伊久磨を見上げる。

「またそういう……。跡形もなく燃やし尽くすぞ」

 自分のピアノをよくわかりすぎた憎まれ口に、伊久磨は堪えきれずに噴き出す。


「『Lemon』」

 光樹の左隣に、由春も座る。挟まれた光樹が、「狭っ」と抗議するが、気にした様子もなく、由春は両腕を伸ばして指を鍵盤に乗せる。

 触れた瞬間、いきなり打鍵する。

 少し早い。急ぎ足で、瞬く間に自由に、音が走り出す。

(いつもの)

 伸びやかな声がその喉から迸っているようだ。

 眩しいほどの光。いつも追いかけている背中。どんなに嫌なことがあっても、キッチンに由春がいるのを見るだけで落ち着く。心が凪ぐ。揺るがずに、そこにいてくれるだけで、存在そのものが希望。

 光をまとって、風の中で歌っている。


「弾いてみて。連弾」

 伊久磨が言うと、光樹は伊久磨の袖を掴んで引き寄せ、噛みつくように激しい口調で言った。

「音が違い過ぎる」

(耳齧られるかと思った)

 由春の演奏を邪魔したくなくて、怒りながらも小声で耳に直接注ぎ込まれた声。激しい動揺が滲んでいた。伊久磨を掴んでいる指が、微かに震えている。

 鍵盤を、叩きたいんだ。

 音に誘われている。

 伊久磨は光樹の目をのぞきこんで、笑ってみせた。

「壊れるわけないよ、岩清水さんの音が。そんなに自分の方が、強いと思ってる?」

 黒瞳に怒りが灯る。言い返せないで渦巻く苛立ち。挑発を受け流しきれずに、顔つきが変わっていく。


(ほら。いろんな表情がある)

 ピアノのことになると黙っていられない。負けられない。理屈じゃない。

 誘うようにピアノは歌い続けている。本当はいても立ってもいられないくせに。

 掴まれていた指に手を添えて、大切なもののように一本ずつ剥がし終えて、伊久磨は席を立つ。

 肩に軽く触れて、囁いた。

「壊されるのはお前の方だよ」


 むかつく。


 空気の震えだけでわかる。歯を食いしばって怒りながらも、光樹は鍵盤に指をのせた。そのタイミングで、由春が肩をぶつけながら言った。

「歌おうか? むかつくくらい、上手いぞ」

 伊久磨は噴き出して「上手そう」と呟く。

 聞いたことはなかったが、由春はきっと歌える。むかつくほどに。

 いいだけ煽られた光樹が椅子に座り直して、指を鍵盤に叩き付けた。

 音が絡む。


(メロディーに沿っているけど、違う曲……!?)


 由春の演奏を潰さないように合流しながら、弾いているのは明らかに別の曲。

 一瞬、由春が両手を浮かせた。


 響く、光樹の音だけが。


 重いのに速い。

 仄暗い夜明け、炎に沈む都市の黒々とした影。折り重なって倒れ伏していくひとびと。

(「パリは燃えているか」だ。リクエストしたから?)

 再び、由春が鍵盤の上に指を走らせる。迷いなく。


「っ」

 ぎりっと歯を食いしばった顔で、光樹が由春を横から睨みつけた。

 視線に気づいているだろうに、由春は悪そうな笑みを浮かべたままがつんと鍵盤を指で叩く。

 光樹の音を引きずりながら、違う曲に持って行こうとしている。低音が身体の芯まで響く。

 曲がまた変わった。つなぎ目すら即興とは思えないほどに溶け合っていた。


(……「千本桜」だ。耳コピ? よく弾けるな)

 あれほど自由に弾けたら、楽しいだろうなと。しぜんと笑えてしまう。

 由春の器用な指が打鍵を続け、しまいに光樹もかわしきれずにその流れに乗った。

 二人で。


 光樹の叫ぶような演奏が、ことごとく由春に阻害されて書き換えられていく。立ち止まるのを許さない強引さ。打ち鳴らされる音色が弾ける。


(染まらないんだ、そのひと)

 いつも真っ白のコックコートを着て働いているところ、見ればわかる。

 光樹の横顔からは苛立ちが消えて、ただただ弾くことに集中しているのが見て取れた。

 由春が少しずつ音を減らしてすっと手を引き、立ち上がる。

 気づいてはいるだろうが、止められないまま光樹は弾き続ける。


「冷めてるぞ。さっさと食え」

 伊久磨の横に来た由春はそう声をかけてから、オリオンのいるテーブルに向かって椅子に腰を下ろした。

 まだピアノを聞いているつもりらしい。 

 伊久磨もそちらに向かい、オリオンにシルバーまでセットしてもらっていた昼食を確認する。レモンと温野菜が添えられた揚げ物。


「ヒューナーシュニッツェルだよ。鶏肉の薄切りカツレツ。ウィーン料理。美味しい」

 先に食べ始めていたオリオンが、にこりと笑って言う。

「鶏肉? あ、からあげ。岩清水さん、まだ鶏肉あるならからあげを」

「いいからまず食え。……ま、あのピアノなら演奏料払ってもいいな」

 からあげ? と言いながら由春が笑った。

 ナイフとフォークを手にしていた伊久磨は、顔を上げて向かい側に座った由春の顔をまじまじと見てしまった。

(認めてる)


「生演奏、入れませんか。営業中に」

「あいつか?」

 由春の目の奥に、面白そうな光が閃いた。

 独特なピアノ。食事のときに聞くには向かない。

 由春に導かれるままに弾いている今はこれまでと少し違うけれど、染みついたものがすぐに変わるとは思えない。

(どうすれば……)

 何かきっかけがあれば、きっと変われる。

 叫ぶようなピアノもうつくしいけれど。

 個性を殺すのではなく、演奏に幅を。


「音もなんだが……。あいつの場合、親がピアノに反対しているらしいからな。『ピアノでレストランでバイト』って二重三重に壁が」

 ぼそりと由春が呟く。

(親)

 すっかり忘れていた事実に伊久磨が真顔になると、由春が重々しく頷いた。


 その親御さんはもしかして、自分にも無関係ではない相手ではないだろうか。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 連弾ーーー!!!! 百合シチュでは定番の連弾を男同士でとは……!(感謝) からの親……! 「お義父さん、娘さんと息子さんを僕にください!」(!?)
[良い点] ピアノ演奏に関して、これだけの描写が出来ることがまずすごいと思います。 (マヒロさんは、どのくらい演奏経験などあるんですか?) 光樹くんが「ステラマリス」で生演奏! どういう展開で、どう音…
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