予感
今まで生で聞いたピアノ演奏の中では一番印象的だったけど、めっちゃくちゃ怖かった……
呟き、両手で顔を覆ったオリオン。
伊久磨もまた、天井を見上げ、目をしばたいて涙をやり過ごしながら、「凄かった……。じご……天国が見えた」と呟いた。
「地獄って言った」
光樹に聞き咎められたが、伊久磨はゆるく首を振り、鼻を啜る。
「言ってない言ってない」
誤魔化した伊久磨を睨みつけてから、光樹はオリオンに向き直る。
「泣くほど」
「演奏は最高だったよ……」
ぷるぷると震えながら、オリオンが答えた。
むう、と光樹の横顔がふくれっ面になる。
(こんな顔するんだ。表情がどんどん鮮やかになる。ピアノの話題だから?)
ふっと風を感じた気がして、伊久磨は首をめぐらせた。
キッチンとホールの境目。壁に片手をかけて、由春が見ていた。
「シェフ」
逃がすまいと声をかけると、由春はゆっくりと歩いて来る。
「寝ようかと思ったけど、寝られなかった。相変わらず、すげーピアノ」
光樹の顔が、ややひるむ。
指から闇が沁み出し、嵐の只中に引きずり込まれる。張りつめた音。
途切れない緊張。挑んでくる強さ。
(嫌な音じゃない。心が震える。揺さぶられる。凄いんだ……)
闇の彼方でずっと叫んでる。独りで。
「先生の息子さん」
「それ、長いな。由春だ」
名乗られても、もぞもぞ居心地悪そうにするだけで、名前を呼ぶことはない。
(……やっぱり、俺に対してだけ当たりがきついよな?)
気のせいじゃないよな、と伊久磨はその横顔に目を向ける。
由春は光樹の浮かない様子を気にする素振りもなく、ピアノのそばまで来ると、椅子に座ったままの光樹を見下ろして「『エリーゼのために』は?」と言った。
ひ、とオリオンが息を飲む。
(気持ちはわかる。そのエリーゼはきっと死んでしまう。それならいっそ「亡き王女のためのパヴァーヌ」とか「勿忘草」とか、すでに死……)
勿忘草。
胸に変な痛みがはしった。少し前、ここでその曲を聞いて涙を流したひとがいた。
「何を弾いても、音が」
光樹の目から光が失せていき、茫洋とした表情になる。
じっと見つめたまま、由春が穏やかな声で「音が、お前の音になるんだろ」と言った。
「気が滅入るとか。聞きたくないって言われる」
切実に訴えるでもなく、下を向いてしまう。
手は鍵盤を離れて膝の上に。あれほど自在に動いていたのが嘘みたいに、がちがちに固まっているように見える。
身動き一つせず、呼吸すらしない「石」に戻ってしまう。
否定。諦め。荒れ狂う音を内側に押し込んで、蓋を閉ざすように。
「『パリは燃えているか』」
曲名を言いながら、伊久磨は光樹の右隣に腰を下ろした。肩や腕がぶつかって、光樹が顔をしかめながら伊久磨を見上げる。
「またそういう……。跡形もなく燃やし尽くすぞ」
自分のピアノをよくわかりすぎた憎まれ口に、伊久磨は堪えきれずに噴き出す。
「『Lemon』」
光樹の左隣に、由春も座る。挟まれた光樹が、「狭っ」と抗議するが、気にした様子もなく、由春は両腕を伸ばして指を鍵盤に乗せる。
触れた瞬間、いきなり打鍵する。
少し早い。急ぎ足で、瞬く間に自由に、音が走り出す。
(いつもの)
伸びやかな声がその喉から迸っているようだ。
眩しいほどの光。いつも追いかけている背中。どんなに嫌なことがあっても、キッチンに由春がいるのを見るだけで落ち着く。心が凪ぐ。揺るがずに、そこにいてくれるだけで、存在そのものが希望。
光をまとって、風の中で歌っている。
「弾いてみて。連弾」
伊久磨が言うと、光樹は伊久磨の袖を掴んで引き寄せ、噛みつくように激しい口調で言った。
「音が違い過ぎる」
(耳齧られるかと思った)
由春の演奏を邪魔したくなくて、怒りながらも小声で耳に直接注ぎ込まれた声。激しい動揺が滲んでいた。伊久磨を掴んでいる指が、微かに震えている。
鍵盤を、叩きたいんだ。
音に誘われている。
伊久磨は光樹の目をのぞきこんで、笑ってみせた。
「壊れるわけないよ、岩清水さんの音が。そんなに自分の方が、強いと思ってる?」
黒瞳に怒りが灯る。言い返せないで渦巻く苛立ち。挑発を受け流しきれずに、顔つきが変わっていく。
(ほら。いろんな表情がある)
ピアノのことになると黙っていられない。負けられない。理屈じゃない。
誘うようにピアノは歌い続けている。本当はいても立ってもいられないくせに。
掴まれていた指に手を添えて、大切なもののように一本ずつ剥がし終えて、伊久磨は席を立つ。
肩に軽く触れて、囁いた。
「壊されるのはお前の方だよ」
むかつく。
空気の震えだけでわかる。歯を食いしばって怒りながらも、光樹は鍵盤に指をのせた。そのタイミングで、由春が肩をぶつけながら言った。
「歌おうか? むかつくくらい、上手いぞ」
伊久磨は噴き出して「上手そう」と呟く。
聞いたことはなかったが、由春はきっと歌える。むかつくほどに。
いいだけ煽られた光樹が椅子に座り直して、指を鍵盤に叩き付けた。
音が絡む。
(メロディーに沿っているけど、違う曲……!?)
由春の演奏を潰さないように合流しながら、弾いているのは明らかに別の曲。
一瞬、由春が両手を浮かせた。
響く、光樹の音だけが。
重いのに速い。
仄暗い夜明け、炎に沈む都市の黒々とした影。折り重なって倒れ伏していくひとびと。
(「パリは燃えているか」だ。リクエストしたから?)
再び、由春が鍵盤の上に指を走らせる。迷いなく。
「っ」
ぎりっと歯を食いしばった顔で、光樹が由春を横から睨みつけた。
視線に気づいているだろうに、由春は悪そうな笑みを浮かべたままがつんと鍵盤を指で叩く。
光樹の音を引きずりながら、違う曲に持って行こうとしている。低音が身体の芯まで響く。
曲がまた変わった。つなぎ目すら即興とは思えないほどに溶け合っていた。
(……「千本桜」だ。耳コピ? よく弾けるな)
あれほど自由に弾けたら、楽しいだろうなと。しぜんと笑えてしまう。
由春の器用な指が打鍵を続け、しまいに光樹もかわしきれずにその流れに乗った。
二人で。
光樹の叫ぶような演奏が、ことごとく由春に阻害されて書き換えられていく。立ち止まるのを許さない強引さ。打ち鳴らされる音色が弾ける。
(染まらないんだ、そのひと)
いつも真っ白のコックコートを着て働いているところ、見ればわかる。
光樹の横顔からは苛立ちが消えて、ただただ弾くことに集中しているのが見て取れた。
由春が少しずつ音を減らしてすっと手を引き、立ち上がる。
気づいてはいるだろうが、止められないまま光樹は弾き続ける。
「冷めてるぞ。さっさと食え」
伊久磨の横に来た由春はそう声をかけてから、オリオンのいるテーブルに向かって椅子に腰を下ろした。
まだピアノを聞いているつもりらしい。
伊久磨もそちらに向かい、オリオンにシルバーまでセットしてもらっていた昼食を確認する。レモンと温野菜が添えられた揚げ物。
「ヒューナーシュニッツェルだよ。鶏肉の薄切りカツレツ。ウィーン料理。美味しい」
先に食べ始めていたオリオンが、にこりと笑って言う。
「鶏肉? あ、からあげ。岩清水さん、まだ鶏肉あるならからあげを」
「いいからまず食え。……ま、あのピアノなら演奏料払ってもいいな」
からあげ? と言いながら由春が笑った。
ナイフとフォークを手にしていた伊久磨は、顔を上げて向かい側に座った由春の顔をまじまじと見てしまった。
(認めてる)
「生演奏、入れませんか。営業中に」
「あいつか?」
由春の目の奥に、面白そうな光が閃いた。
独特なピアノ。食事のときに聞くには向かない。
由春に導かれるままに弾いている今はこれまでと少し違うけれど、染みついたものがすぐに変わるとは思えない。
(どうすれば……)
何かきっかけがあれば、きっと変われる。
叫ぶようなピアノもうつくしいけれど。
個性を殺すのではなく、演奏に幅を。
「音もなんだが……。あいつの場合、親がピアノに反対しているらしいからな。『ピアノでレストランでバイト』って二重三重に壁が」
ぼそりと由春が呟く。
(親)
すっかり忘れていた事実に伊久磨が真顔になると、由春が重々しく頷いた。
その親御さんはもしかして、自分にも無関係ではない相手ではないだろうか。