暗黒大陸
「スタインウェイのピアノでもあるのかと思った。ふつーのピアノじゃん」
そわそわした様子でホールを足早に過ぎ、ピアノを見つけた光樹は落胆した様子で言い放った。
古ぼけたアップライトのピアノ。周りには観葉植物が置かれ、今は蓋を閉ざしたまま静まり返っている。
「アンティークがいっぱいの高級レストランって聞いたから、てっきりピアノも凄いのかと思っていた。ディナータイムに生演奏したりして……」
しょぼくれた様子で肩を落とし、早口で呟く。すぐに、後に続いた伊久磨を思い出したように振り返り、むっとして唇を引き結んだ。
ややして、険のあるまなざしで、唸るように言った。
「……ピアノ弾きに来いって」
恐ろしく嫌そうな口調。伊久磨は思わずふふっと息を吐く。声を立てずに噴き出してしまった。
「な……に笑って」
「ごめん」
可愛い。毛を逆撫でた猫みたい。
(堪えた。言わなかった)
本物の猫なら言っていたが、さすがに男子高校生相手に、しかも本人を前にして言ったら絶対に怒られる。
「せっかく来たんだから、何か弾いてみて。あと一時間はお客さんも入ってこないし。俺は今から昼メシ。そうだ、お腹空いてる? から揚げ作ろうか?」
思いついたままに喋っていたら、大いに機嫌を損ねたらしい。光樹はくっきりとした形の良い眉をぎりぎりと強めにしかめて伊久磨を睨みつけていた。歯を食いしばっているような、力の入った顔。目を合わせた伊久磨は、唇に笑みを浮かべた。
「何? ぺらぺらしゃべる男が嫌いなんだっけ。とりあえずコートと荷物預かる。クロークに入れておくから。学校帰りかな。俺地元じゃないから制服見ても高校よくわからないんだよね。この近く?」
ピアノを弾くのに邪魔そうだと思って提案したのだが、光樹は険しい表情のまま呆れ顔になった。
「『しゃべる男嫌いなんだっけ?』って言いながら、さらにしゃべるのかよ……」
素直過ぎる感想に、伊久磨はついに噴き出した。
そのまま、笑いが止まらなくなってしまう。
「ごめん……。ちょっと面白過ぎる……っ。光樹くんっていつもそういう感じ?」
馬鹿にしたつもりはなかったが、馬鹿にされた気になったらしい光樹が、目を大きく見開いた。
「笑い過ぎ」
猫が怒ってる。
「よく言われ……る」
伊久磨は必死に笑いを堪えながらなんとかそれだけ口にした。
ふと周囲を見回すと、客席に二人分の食事を運んでいたオリオンがふにゃっと相好を崩して視線をくれていた。明らかに、ほっとした様子だった。
(笑ってる。笑ってた、いま。全然意識してなかったのに)
朝から、笑えていないと周りに心配かけていたはずが。
「音は良いんだ。うちのシェフがときどき弾いている。調律もきちんとしている。これもアンティークなのかな……。ずっとこの建物にあったんだと思う。このピアノが鳴ると、建物が聞いているんだ。昔、誰かが大切に弾いていたピアノだよ」
光樹の目が「よく言う」と呆れている。
その目を覗き込んで、伊久磨は続けた。
「このピアノは普段からもっと弾いてもらいたがってる。弾いてみて。昨日少し聞いたけど、光樹くんの音を、もっと聞きたい。そうだな……今から俺とオリオンが食事だから、『生演奏』のイメージで。このレストランで、お客様が食事をしながら耳を傾けるなら、光樹くんはどんな曲が合っていると思う?」
目を逸らさないまま、話す伊久磨を見上げていた光樹が、ふっとノーゲストのホールを見渡す。
その視線を追いかけて、伊久磨もまた客席のひとつひとつに目を向けながら話し始めた。
「昼は大体予約で満席。生演奏を入れるとしたら土日かな。窓から光が差し込んで、今よりもう少し明るい。ホール中、話し声がして賑やかだ。キッチンの音も少し聞こえる。ピークの時間帯に、五曲くらい弾いて、15分休んで、三セットってとこかな。夜は大体各テーブルの上のペンダントライトがメイン。そこまで明るいわけじゃない。記念日の御夫婦とか、少人数の接待の利用で平日も席は埋まっている。土日だと家族連れが増える。七五三とか入学祝いとか発表会の後とか……」
はっ、と伊久磨は小さく息をのんだ。
いま、物凄く素で話していた。仕事として。
この店で、働いているときにピアノの生演奏があったら、すごく良いのにと思ってしまったせいで。
(家族の話をしてしまった。大丈夫だろうか)
光樹の横顔を素早く確認したが、特に大きな変化はない。思いがけないほど、真剣な顔をしていた。
伊久磨の話が途絶えたのに遅れて気付いたようで、ちらりと見上げてきた。
何か悪態をつくかと思ったが、様子が違う。まなざしが揺れている。
最初は表情がない少年のように感じたが、よく見ればずいぶん細かくいろんな感情が浮かんでいる。
「俺のピアノ……。あんまり……、明るい音じゃない。自分でわかってる。食事のときに聞かせるようなものじゃない」
躊躇いながら、息苦しそうに。
「だけど、弾くのは好きだろ。ピアノがあるって聞いてすぐに見に来た。俺はピアノの良し悪しはわからないけど、このピアノの音は好きなんだ。いつも、誰か弾いてくれないかなって思っている。シェフは忙しいから……。今俺が食べている間だけでも鳴らしてみて。邪魔はしないから」
蓋を開けて、鍵盤にかかっていたフェルト布をとる。
うっすらと黄みを帯びた骨のような白鍵。黒鍵。
光樹の目が吸い寄せられる。
(ほら。好きなんだ)
身を捧げるべきものを知っている、幸せな呪いに囚われたひとの目。
何人も会ったから、知っている。由春も。湛も。仕事場に立つとき、いつもこうだ。
周囲の誰よりも早く、自分の生きる道を決めて、迷いを寄せ付けずに前を見て進んでいる。
孤高を、断絶を。力強さをその身に宿している。
光樹の背にしていた黒のリュックに手をかけると、躊躇いながらするりと腕を抜いて預けてきた。
そのまま、コートもトグルボタンを外し始めたので、肩に手をかけて脱ぐのを手伝う。
きっと頭の中で、曲が響き始めている。そのイメージを極力邪魔しないように。
「少しだけ」
言い訳のように呟き、光樹は椅子を引いて座る。
指を鍵盤にのせる。
彼の中で鳴り続けていた音が、溢れ出し瞬く間に場の空気を書き換えていく。
指が鍵盤を叩くたびに、叩かれた鍵盤が痛いと悲鳴を上げる。悲鳴を上げながら歌い出す。
喉よ、裂けてしまえと。
身体を引き千切られながら前に進んでいる旅人。酷暑の砂漠、極寒の荒野。望む場所に辿り着いたときにはもはや生きてはいないだろうと確信しているくせに、ぼろぼろの足で、止まらずに。
重苦しいのにどこまでも優雅に、指は鮮やかにオクターブを跳ね上げて自在に打鍵し続ける。
胸が痛いほどドキドキと鳴っている。一音も聞き逃したくない。目を離せない。まばたきすら。
息が出来ない。
涙がにじんでくる。
怖いくらいに澄んだ音。身を浸しているうちに、そのまま死んでもきっと気付かない。
一曲終わったときには、全身が強張っていた。
リラックスにはほど遠い。強すぎる情念。
光樹の背を見つめながら、肩で息をする。深い溜息が出た。
(うん……。巧いし、滅茶苦茶かっこいいけど、ここまで悲劇を予感させる「情熱大陸」はじめて聞いた……)
曲の途中で何人も夢半ばで倒れ伏していく、恐ろしい幻想が見えた。
ふと振り返ると、やはり目に涙を浮かべたオリオンが力なく首を振っていた。
唇の微かな動きは何語かはわからなかったが、「怖い」と言っていたような気がした。