笑えてないよ?
「蜷川さん、顔が変です」
真に迫った声、真に迫った顔で。
変。
「……変ですか」
髭は剃ったよなあ、と顎を撫ぜながら、藤崎エレナを見下ろす。
「変です。表情がぼやっとしていて、別人みたい」
迫真。怖いくらいに。
「笑ってないよ、蜷川くん。今日は朝から全然」
佐々木心愛がエントランスに顔を出して、通りすがりに口を出す。すぐに、エレナが「あ」と小さく声を上げて、頷いた。
「それです。笑ってないから、顔の印象が無いの。変な感じ。蜷川さんって、いつも笑ってるイメージだから」
ちょこちょことカウンターの中に入り込んできた心愛が頬に向けて手を伸ばしてきた。
「ちょっと抓ってみようか」
「何をドSなこと言ってるんですか」
やめてくださいよとかわしたところで、反対側から手を伸ばしてきていたエレナと目が合った。気づかれちゃった、みたいな邪気のない表情をしていた。
「二人とも。本気じゃないですよね? 一応聞きますけど」
エレナは中途半端な位置で手の動きを止めたまま。
小柄な心愛は、胸を張って力強く言った。
「本気か本気じゃないかといえば、わりと本気。試してみる価値はあると思うの」
その目をじーっと見つめて、伊久磨は極めてそっけなく言った。
「ない」
* * *
笑ってない。
鏡を見なくてもわかる。たしかに、朝から頬の筋肉がおかしい。
昼の営業の間、由春とは何度か目が合った。何か言いたい時の態度。聖は休み。オリオンは、目を向けると困ったような気弱そうな顔で笑いかけてきていた。
(光樹の無表情がうつった? 見過ぎたのかも)
仕方ない。好みの顔が目の前うろちょろしていれば、見るしかない。不可抗力だ。
そう自分に言い聞かせてはみたものの、胸の中に広がっていくのは鈍い痛み。息苦しさ。
どう考えても、静香には隠し事をされた気がする。何かを誤魔化された。
自分も、そんな静香に光樹のことを言わなかった。
(俺が悪かったのかな。「光樹くんに会ったよ、弟いたの知らなかった」って真っ先に言えば良かったかも。変に隠して、試すようなことをしたから……)
きっかけだけ作って様子を見るなんて、罠みたいなものだ。心を開いて欲しかったら、自分から行けば良いだけなのに。
わかっているはずのことが出来なかった。
予期していた気がする。静香が話さないであろうことを。
恐らくそこには本人なりの考えがある。であれば、言う気になるまで待ちたい気持ちはあるのだ。変に本人のタイミングではないときに話しておかしな空気にしてしまっても、電話で話すのは限界があるし、しばらく会う予定もない。
会ったときに話せば……。
(逃げかな。都合の良い言い訳を探している)
自分には家族がいないから、家族の話はしない。
だけど、家族がいる静香が家族の話をしないのは「まだ家族に紹介するつもりはない」と言う意思表示なのではないだろうか。
その意味を考えると、目の前が暗くなる。
(今ではないなら、いつなんだ。いつまで待てば「将来」を語るのが許される?)
そばに行きたい。胸の内の思いを伝えながら、髪や肌に触れたい。
一方で、それはもう許されないのではないかと気弱になっている。将来を考えられない男との関係を、彼女にいつまでも続けさせるわけにはいかないんじゃないだろうか。
「いくま、一緒に食べよう。いま時間大丈夫なんだよね?」
夜の予約に関してプリントアウトした紙を持ったまま、長いこと一人でカウンターでぼんやりとしていた。
声をかけてきたのはオリオン。先に食事を済ませてきたエレナが一緒で、「電話とりますから、ごゆっくり」とカウンターの中に戻って、伊久磨を追いたてる。
「はい。藤崎さん、あとよろしくお願いします」
すれ違って出て行こうとしたところで、エレナに突然腕を掴まれた。何かと見下ろすと、真剣な顔で見上げられていた。
「蜷川さんが笑っていないと、変なんです。みんなが不安になっているのが伝わってきます。何があったかわかりませんけど、いつもみたいに笑ってください」
いつもみたいに。
わからない。
笑おうとしたら、頬の筋肉が抵抗してきた。
その変な間のせいで、笑えないのがバレてしまった。エレナは眉を寄せていよいよ深刻な表情になる。
「反省しています。私、普段そういう顔していたんですね。さっき、佐々木さんに言われました。『あれ、普段の藤崎さん』って。笑わないって、こんなに周りに緊張を強いるんだってよくわかりました。お客様にもプレッシャーかけていたと思います。ごめんなさい。私もこれから、笑うように努力しますから」
ものすごく真面目な顔で言い切ってから、ぐに、ぐに、と頬の筋肉を動かしている。
(笑顔?)
「すごい美人に対してこういうこと言って申し訳ないんですが。不器用な人の粘土細工みたいになってます」
「何がですか」
「顔がです。藤崎さんの。もっと自然に笑えませんか? こう……」
笑おうとした。気持ちはあったが、笑えた気がしない。
エレナが気の毒なものを見るような目になっていた。
「蜷川さんでもそこまで不調になることあるんですね。私で良かったら悩みを聞きますよ。私じゃ嫌なら佐々木さんもいますし、西條くんも」
ドS包囲網が完成してしまう。
「とりあえず今は大丈夫です。ごめんなさい、夜の営業までに持ち直します」
眉間を指で押して微かな頭痛をやり過ごし、「食事行きます」と歩き出す。掴んでいた手を離したエレナが「ごゆっくり」と言った。
大人しく待っていたオリオンは、「まかない、ハルだよ」と並んで歩きながら言った。
「珍しいですね。最近はたいてい佐々木さんだったのに」
何だろう、と思ったそのとき、そっと背に手が触れてきた。
「ハルも不器用なところがあるから、なんて声をかけて良いかわからないみたい。いくまが気にしているのは、昨日の『反抗期』かな」
光樹。暗いまなざしを思い出して、伊久磨は苦笑した。
「あれは案外、可愛かったですよ。からあげ食べたいって甘えられてしまいました。俺が作っても全然良いんですけど。いやでも、せっかくだし岩清水さんに作ってもらいたいかな。食べてみたい。俺がお願いしたら、岩清水さん作ってくれるかな」
何作っても美味しいから、きっと美味しいだろうな、と思い浮かべてみたら、自然と顔が綻んだのがわかった。
(なんだ。単純だな、俺も)
周りを心配させておいて、由春の料理を思い浮かべただけで回復してしまった。
胸の奥に居座って、呼吸を妨げている黒い塊が消えたわけではないけれど。
遠くで電話が鳴った。コール一回。エレナの電話に対する反射神経は素晴らしい。
任せてまかないを食べてしまおう、と思ったらぱたぱたと足音が追いかけてきた。
「蜷川さんあての電話です。『蜷川は?』って、若い男の人」
皆まで聞かずに差し出された子機を受け取って、保留を解除する。
「お電話替わりました。蜷川です」
思い当たるのは一人しかいない。
こんなに早く連絡取れるなら、スマホ教えておけば良かった、と思いながら足早にエントランスに戻る。私用の電話と確信していたせいか、自然と足がドアに向かった。
外に出ると、真昼でもないのに、雪が日差しを照り返してクラクラとするほど明るかった。
「……ご用件をお伺いします」
電話の向こうが無言のせいで、重ねて促す。
「ピアノ」
声が重なって聞こえた。
伊久磨は目を射る眩しさに瞬きをしながら辺りを見回す。
前庭を抜けた門に、背中を預けている人影が見えた。手にはスマホ。
「光樹くんだね」
声をかけると、人影がスマホを持ち直す。
「ピアノ弾きにきた」
背後を取られていることにはまだ気づいていないようだ。
伊久磨は無言で電話を下ろすと、早歩きで門まで急ぐ。
「蜷川?」
スマホに向かって話しかけている、紺色ダッフルコートの背中に向かって、笑みこぼしながら声をかけた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
手からスマホをぽろりと取り落としながら、齋勝光樹が振り返った。