秘密
――豪邸でお食事会? 楽しそう。伊久磨くんのところ、みんな仲良さそうで良いよね。あの……かなり個性は強いと思うんだけど。西條さんとか、佐々木さんとか……。
声が途中で聞こえ辛くなった。耳をすませて聞いてはみたが、スマホの向こう側は静まり返っている。
帰宅直後。
暖まりきらない部屋の中でコートを着たままラグマットに座り、ベッドに寄りかかってスマホから流れ出す声だけを聞いていた。それが止まってしまった。
目を瞑って記憶を辿り、伊久磨は罪悪感めいたものに胸を痛めつつ、口を開いた。
「ああ。えっと……二人とも別に悪い人じゃないんだけど。静香に対しては当たりが強くて申し訳ない。本当に、悪いことをしたとは思っています。ごめん、思いださせて」
齋勝静香と佐々木心愛の出会いはおよそ最悪だし、西條聖にも静香は何やらやり込められていた。
毎日顔を合わせている伊久磨は、二人が決して悪い人間とは思っていないが、それは「愛着」があって初めて納得できるレベルであって、静香を説得できるとは一切思っていない。
――いや〜……佐々木さんはね、年末に顔合わせてるんだけど、ちゃんと謝ってくれたよ。西條さんも『悪気がない』のはわかってる。その、『癖がある』とか『誤解されやすい』って枕詞つくタイプだよね、二人とも。えーと、伊久磨くんが一緒に働いている人だから、あたしもなるべく苦手には思いたくないんだ。それに、あたしも間が悪いんだよねー……。よくあるのよ。気がつかなきゃ気がつかないで良かったことに気付いたり。こう……。巡り合わせ?
「うん。わかる。静香の場合、運が悪いというのもあるかな……。ちょっと心配になるくらい。あと、たぶん言いやすいってのもあるんだろうなと。怒って掴みかかってきたりしそうにないというか。なんだろう、結局、無差別通り魔も、実際には女性や子ども、弱い者を狙っているというし。他人を攻撃する人も、どこかで『やっても大丈夫な相手』を判断してやっているような気はしないでもない」
言い終えて、伊久磨は口をつぐむ。言葉に、じわっと実感が滲んでしまった。
それはスマホの向こう側の相手にも伝わってしまったらしい。
――何か、あった?
単刀直入に聞かれる。
(何かは、あったな)
時刻はまだ、深夜というほど遅くはない。
夕方早めに食事会を始めたこともあり、21時には水沢夫妻が心愛を送ると言って、一緒に退出。香織と聖とエレナは同じ場所に帰るので、三人で出て行った。
由春の母が、ゲストの星名と、高校生である光樹を車で送り、伊久磨はオリオンと由春と片付け作業。
ちょうど終わった頃に戻ってきた由春の母から車を出すと言われたが、断って歩いて帰宅。
それなりに、長い一日だった。
(光樹、な)
伊久磨に対してだけ、やけに当たりがきつかった。他の人には如才なく対応しているのに、伊久磨を前にすると瞳に苛立ちがはしる。理由はわからない。
‘光樹のことなんだけど’
直前まで、言うつもりだったのに、結局口から出たのは違う言葉。
「……疲れただけかな。まあその、あたりがキツいといえば最近の西條シェフ。俺にもだけど、岩清水さんにも遠慮がない。今日はさすがにどうかなと思っていたけど、奇跡的にいつもよりマシだった。たぶんシェフのお母さんがいたからかな」
――お母さん?
お母さん。
「うん。やっぱり、親の前で息子を悪く言えないよな。というか……なんだろ。西條シェフとは思えないくらい、ちょっと気持ち悪いほど気を遣っていた。あの人も親と色々あったみたいだから、『友達の親ってなんて呼べば良いんだ。おばさん、か? だけどあの人、おばさんじゃないよな』って俺に言ってきて。『知るか』って」
本当はその場には香織もいた。なんとなく、言えなかった。三人で額を突き合わせて無言になってしまったことについて。
――あの西條シェフがそんな風に神妙になるなんて。よっぽど「おばさん」じゃないんだね。わかるけど。岩清水さん、イケメンだし。お母さんも美人さんのような気はする。
伊久磨はスマホ片手に、軽く目を見開いた。
静香は由春とはほとんど顔を合わせていないはずだが、そういう認識だったのか、と。
「こういうときに、オリオンは照れがなく『マダム』って言うから良いよな、と思った。オリオンは、この間からキッチンに加わったイギリス人のパティシエ……ショコラティエ? のことね。今日年齢初めて聞いたんだけど、34歳だって。全然見えないから驚いた。あと、実家が城だとか、本国帰ると貴族だとか」
――ん? 貴族!?
「そう。マジだって。恥ずかしいから放っておいてって言うけど、恥ずかしいポイントもよくわからない……。34歳でフラフラしてることかな。実家で何か言われるのかな」
――貴族社会はちょっとわからないね……。
一般市民同士、未知の世界につき、不毛な会話はそこで切り上げた。
「とりあえず、無難に『お母さん』かなって言ったんだけど、佐々木さんと藤崎さんが微妙な感じになっちゃって。娘でもないのにそれは言えないわ、とか。藤崎さんは『奥様』って呼んでた。会社で社長の身内ならそれで良いって。ただ、シェフの奥さんではないからそれも微妙な……。あ、ごめんこっちの話」
――いや、謝らなくても。会社って色々あるんだなって思った。あたしはなんて呼ぶかなあ……。ん、豪邸の岩清水さんって、もしかしてわかるかも。ピアノの先生?
返事をする前に、伊久磨はスマホを持ち直した。
視線が部屋の中をさまよい、下を向く。目の前のローテーブルの角を見つめる。
「うん。そう。もしかして……ピアノ習ってた?」
そこから、さりげなく聞くつもりだった。光樹のこと。
ほんの少し、微妙な間を置いて「ううん」と返事があった。
――たまたま、名前を聞いたことがあっただけ。音大目指しているような子が習いに行ってた先生かなって。
(……光樹のことは)
それから少し、静香の最近の仕事の話をして、おやすみなさい、とお互いに言って通話を切った。
‘おやすみなさい’
聞き慣れた声。耳にすると落ち着く。少しだけ甘えるような響き。
いつもと変わらない。
ブラックアウトしたスマホを片手に、伊久磨は片腕を重しのように目の上にのせて、目蓋を閉じる。
「言わないんだな……」
家族のこと。
出来る限り話題を向けたつもりだったが、思った以上に自分の側の問題もあり、遠回しになってしまったのは否めなかったが。
それでも。ここまで近づいたはずなのに。
静香の心がわからない。
そのせいで、と言うとさすがに責任転嫁に過ぎるのは重々承知だが、伊久磨もまた言い出す機会を逃した。
光樹に会ったこと。
静香に対して、秘密を持ってしまった。
すぐにでもメッセージを入れた方が良いと思ったが、その晩は、どうしても指が言うことをきかなかった。
暖まりはじめた部屋で、しばらく、同じ姿勢のままで固まっていた。