光、少しだけ
伊久磨、と名前を呼ばれてすぐに声の方へと足を向けた。
「鶏肉のかぼちゃ包み生ハム巻き」
オーブンから焼きあがったばかりの肉料理を軽く切り分けて、皿にのせて由春が差し出してくる。
キッチンに回り込んで横に並んで立ち、手元をのぞきこんで、伊久磨は唇に笑みを浮かべた。
「匂いがもう美味しい。女の人が特に好きそう。妊婦さんは生・半生肉NGらしいですから、ステーキは焼き加減難しいですけど。生ハム使っていてもこのくらいしっかり火が通っているなら安心して食べられると思います」
試食をすすめるようにフォークも添えられている。
手にしていたワイングラスを台に置き、皿を受け取って一口。
「うん。美味しい。塩コショウとチーズとバターと香草だけで味は十分。かぼちゃの甘さが良いです」
素直な感想を言うと、食事が始まってからもキッチンに立ち続けていた由春は、眼鏡の奥の目を和ませた。
「美味そうに食うよな、お前」
「微妙なときは微妙って言いますよ。たまたま人生でこれまで食べた岩清水さんの料理が美味しかっただけです。全部」
真面目な顔で返した伊久磨に対し、由春は「よく言う」と笑った。
それから、不意に視線だけを、すばやく遠くに投げた。暖炉の前。
「何度か顔を合わせたことはあったんだが、弟とは知らなかった。言われてみれば、似てる」
光樹のことだ。オリオンと立ち話している。
背を向けられているので、表情はわからない。
「俺も全然聞いてなかったので、今日はじめて知りました。まだ静香のことは話していませんが」
しぜんと声を低めて言う。音量を下げただけのつもりだったが、思った以上に暗い声になった。
(静香が家族の話をしないのは気にはなっていたけど、俺に家族がいないから気を遣っているんだと思っていた)
自分の方から近いうちに話す機会を作るつもりではあったが、予想外の事態になった。
「ピアノ……。重い演奏するよな。話しかけると笑ってるんだけど、腹の底を見せない感じ。うちの母親も気にしてる。あれ、手強いぞ」
珍しく、歯切れの悪い様子で由春が言う。
家の中であの音色が聞こえたら気になるだろう。
高校生と聞いて、伊久磨も奏者が気になったくらいだ。
泣き叫ぶような音色に、胸を貫かれた。
幻の痛みはまだ残っていて、思い出すと鼓動が早くなる。
(誰に向けて弾いているんだろう。聞かせたい相手にその音は届いているんだろうか)
内にこもった熱。暗いまなざし。指先から紡ぎ出される、黒い情念。たぶん、ピアノにだけは素直。
「重い音でしたけど、力があるのは素人の俺にもわかりました。耳の奥でまだ鳴っている。もっと違う曲も聞いてみたいです」
「何弾いてもああなる。あいつが弾いているとすぐにわかる。それを才能と呼んで良いなら、あるんだろうな」
苦笑した由春が、作業台に置いてあったペットボトルを手にする。ミネラルウォーター。
「そろそろ飲みませんか。今日はまだ座ったところを見ていません」
飲み干したところで、横から手を出して空の容器を奪った。「ん?」と目を向けてきた由春は「それを言うならお前もだ」と言い返してきた。
指摘されたことをかわすように、伊久磨はワイングラスを持ち上げる。
「飲んでます。シェフは何にしますか。いいや、とりあえず行きましょう。キッチンから離さないとだめだな」
さっさとしないと引きずりますよ、と言うと「うるせえ」と言いながら由春も歩き出す。
温かく明るい部屋では、それぞれ、楽しそうに歓談している。
エレナはソファで心愛と並んで座っていた。その向かいには和嘉那。女性三人で話し込んでいる。普段の心愛やエレナには見られない笑みが浮かんでいた。意外なほどに打ち解けているようだ。
由春の母は湛と並んで立ち、テーブルのそばで聖と香織と話していた。笑い声が聞こえる。
「あとは星名先生ですか」
「そう。もっと声かけても良かったけど、急だったからな。先生は来るって言っていたけど」
話しているそばから玄関チャイムが響き渡る。「俺が行く。先生だから」と由春が向かったので、伊久磨はひとまずとどまった。
ふと暖炉の方を振り返る。
ほとんど同時に、光樹が視線を向けてきた。
何度か顔を合わせていながら、由春が静香との関係に気付かなかったのもわかる。伊久磨でさえ、香織の妙な反応がなければ見逃していたかもしれない。
全体的に整った顔をしているし、笑っているようにも見えるのに、目の印象がない。
記憶に残らない。すれ違ったそばから、忘れてしまいそうだ。彼がいたことを。
引き寄せられるように歩み寄る。光樹が見ている。さきほど本性を垣間見せたせいだろうか、伊久磨にはもう、偽物の笑みを向けることすらないようだ。
(それでいいよ。見たいのはそういう表情じゃない)
「食べてる? 飲み物は大丈夫?」
声をかけると、光樹はゆっくりと笑みを広げた。嘲りながら、隙を狙っているような顔をしている。
「気にするの、そればっかりですね。頭使わなくてもできそう。先生の息子さんは海外で修業してきたって聞いたけど。ホールはバイトですか。俺はそういうのやだな。ちゃんとした仕事に就きたい」
横で聞いていたオリオンが、微かに眉をひそめた。
伊久磨は頷いてみせてから、口を開いた。
「今度レストランにおいで。仕事に興味ありそうだから招待する。好きなもの食べていけば良いよ」
明らかに険のある表情になった光樹は、伊久磨を睨みつけながら吐き捨てるように言った。
「興味なんかない」
構わず、伊久磨は気負わない調子で続ける。
「親御さんの許可が必要なら、俺から話しても良い。家族で来てくれても」
今にも噛みつきそうな顔をしながらも、光樹は口を閉ざした。
苛立ちが渦巻いているのが伝わって来る。
「……許可は必要ない。家族でなんか行かない。そんなレストランなんか」
オリオンが、穏やかに遮った。
「ハルの店だ。知りもしないのに、悪く言うのはどうして」
声はしずかであったが、厳然とした響きがある。
怒りの気配を感じたのか、光樹の勢いが削がれた。
「悪くは……。べつに。そいつが変なことを言うから」
「いくまが君に何かした? 変なことなんか言ってないよ。ここで聞いていた」
譲らず、オリオンが問い詰める。
伊久磨は、ひとまず光樹の目を見てゆっくりと言った。
「招待するといったのは、嘘や冗談じゃない。いま予定を詰められなくても、店に電話してくれて構わないから。蜷川だ。たいてい俺が電話に出る。お金も気にしないで、招待だから」
「なんでだよ」
当然の疑問。
(なんでだろ)
伊久磨もまた自問してしまう。「未来の義弟だから」という言葉は出てこなかった。たぶん、その背景がなくても、自分は同じことを言っただろう。
ハルの店だ、とオリオンは即座に言ったが、たとえばそういうこと。
「店に来て、満足しないで帰ったお客様が『こんな三流店』と言うのは、止められない。だけど、まだ来たこともないひとにいわれたら、『まずは一度来てみて』と言いたくなる。いま君が言っているのは、全部イメージなのかなと。今日の料理はどう? 『先生の息子さん』が作ってるのは見ていたよね」
少し、動揺した。
目に焦りが浮かんでいる。
冷静に観察しながら、伊久磨は今のセリフを頭の中でさらう。
(『先生の息子さん』か? 大人の中でも『先生』は尊敬する相手で、その息子のことは悪く言えない……?)
だけど何か屈折したものがあって、結果的にレストランのスタッフである伊久磨に八つ当たりが向く。そういうことだろうか。
「こういうこどもには、もっと厳しく言ってもいいのに。他人の仕事を尊敬しないひとは、ひとからも尊敬されない」
オリオンが渋い調子でぼそりと呟きをもらした。
「反抗期の子どもにそういうこと言っても『別に尊敬されたいなんて思ってない』って言い返されるだけですよ。俺がそうでした」
伊久磨は神妙な顔で言った。
全然納得していない様子のオリオンは「反抗期……」と口の中でぶつぶつ言っている。
「英語にはないんですか、反抗期。ええと……」
なんて言うんだろう、と調べようとしたところで、首を振ったオリオンが言った。
「昔過ぎて思い出せない。僕34歳だから」
「えっ」
飲み物とってくる、とひらっと手を振ってオリオンが去っていく。その後ろ姿を見ながら、伊久磨は「びっくりした……」と思わず声に出してしまった。
視線を感じて、光樹に目を向ける。
「見えないよな。年下とは思わなかったけど、シェフより年上とも思ってなかった」
言い訳のように驚きを解説したが、光樹の目はひたすら冷たい。
(あ、これまた「軽薄」って思ってる。ぺらぺらうるさいとか)
よく見ると、きちんと表情がある。しかも静香に似ている。思わず目を逸らせなくなったが、光樹には嫌そうに顔を背けられた。
「じろじろ見んなよ」
「悪い」
好みの顔だから。とは、怯えさせるわけにはいかないので、口にするわけにはいかないが。
光樹は、顔を背けたまま、「からあげ」と言った。
「ん?」
「からあげ食いたい。そんなに言うなら今度レストラン行くよ、からあげ食いに」
からあげ屋じゃないんだなぁ……。
ちらりと視線を流してきた光樹の目に、それまでなかった悪戯っぽい光が宿っている。
見ているうちに、頷いてしまった。
「それが好きな食べ物なら、覚えておく」
光樹の目に、瞬間的に苛立ちがはしる。
(そっか。こんなに、感情があるんだ。じゃなきゃあの音は出ないよな)
この光が消えないうちに。
心の中に、ふっと湧いた思い付きを口にした。
「ピアノがあるんだ。レストランに来た時に、弾いてもらえたら嬉しい。もっと光樹くんの演奏を聞いてみたい」