笑わない君
「料理とデザートは二本柱だ。デザートを軽視しているレストランは必ず、お客様に見抜かれる。歴史に名を残す偉大な料理人の中には、パティシエを兼ねていた料理人も多い。たとえばアントナン・カレーム、ジャン・ドラヴェーヌ、ミッシェル・ゲラール。そもそも日本の料理人は、せっかく修行に出てもデザートに関心が薄いとはよく言われていることで。おい由春、お前に言ってるぞ」
聖の朗々とした美声が響いている。
真横で直撃をくらっているはずの由春は涼しい顔でフライパンを振っていた。慣れたものだ。
伊久磨もまたそれを聞き流しながら、スマホで撮影したり、画面に打ち込んでメモをとっているエレナに料理の説明を続けていた。
「これ美味しいですよ。ブーシェ・ア・ラ・オランデーズ。ブーシェはパイケースに料理を詰める温製オードブルのことです。今日はパイをパリパリで食べてもらうために、籠に見立てたパイにグラスをはめています。お客様が召し上がるときに、オランデーズ・ソースであえたスモークサーモンと牡蠣をこのグラスに注いでお渡しします。食べ方はご自由に。もし聞かれたら、パイを千切ってソースにつけて食べてもいいですし、別々に召し上がっても、とお伝えください」
ビュッフェのように台に料理を並べても、要所要所で軽くパフォーマンスをする。そのついでに、さりげなくゲストとも会話をするよう勧めてみる。
「料理の仕上げ……、ってほどでもないけど。サービスでもそういうことするのね」
すでに顔が緊張している。エレナは食材に触れることに、苦手意識が強いようだ。
「『海の星』では、今のところそういった機会は多くないです。ただ、サービスの仕事としては外せないと思います。お客様の席について、ワゴンの上で料理を取り分けるゲリドン・サービスとか……。そうですね、クレープシュゼットのフランベはイメージしやすいでしょうか」
伊久磨の説明に、エレナの顔がどんどん強張っていく。「無理」という、か細い呟きが唇からもれた。
(藤崎さんは、料理人になりたいとは言うけれど、「好き」が見えてこない……)
いつも不安そうだ。
「どの辺が無理なんですか?」
さりげなく尋ねると、エレナは難しい顔のまま呟く。
「手先が不器用なので、見られながら何かをするのに自信がないんです」
その怯えは伝わって来る。頷きながら、伊久磨は穏やかに話した。
「それは慣れだと思います。サービスだって、ワインを開けるときに、隠れてしません。『見られたくない』ではなく『見られても大丈夫』まで、意識を持って行きましょう。岩清水さんなんか、たとえオープンキッチンでも動きは変わらないですよ。何も誤魔化す必要がないひとですから」
信じている。自分の、唯一無二のシェフとして。
由春の動きは無駄がない。どんなに忙しくても、まるですべてを見通しているかのように力強くて、優雅だ。
何時間だって見ていられる。
その手が魔法のように料理を次々と作り出して行く様を。
それを見るのが、他の誰よりも自分が一番好きなのだと思う。
沈んだ顔をしているエレナを見て、さらに何か言おうかと思ったが、やめた。自分の中で様々な葛藤がせめぎあっているのだろう。
「とりあえず、レストランのスタッフとして、不器用でも未熟でもできるのは『笑う』ことです。藤崎さんが今早急に身に着けるのは、それだけです。笑ってください。普段から笑わないひとが、仕事のときだけ無理に笑っても、嘘っぽくなりますから」
伊久磨がそう言うと、エレナは苦笑ではあったが、ようやく笑った。それから「テーブルにこのお皿運んじゃいますね」とオードブルの並んだ皿を両手で持って離れていく。
エレナがいなくなったところで、妙に視線を感じた。
というか、視線自体は、ずっとうっすら感じていた。
少し離れたところで、キッチンのシェフ二人を見ている少年。
齋勝光樹。
(横顔、似ているんだよな)
静香と、姉弟なのだなと思う。それでいて、深い憂いに満ちたまなざしは、決して名乗り出ることはないもう一人の血縁の存在を意識させられる。似てる。
香織。血の繋がった、実の兄弟。
シェフの動きを見ているようで、実際はときどき視線をくれていたのは気付いていた。
目を合わせようとすると、逸らされる。横顔ばかり。
だが、伊久磨の話が終わったのは聞こえていたのだろう。目を向けると、目が合った。
「何か飲む?」
名前と仕事くらいの自己紹介はしていたものの、何から話すかは全然考えていないまま、とりあえず声をかける。
光樹はまっすぐに伊久磨を見上げてきた。それから、ふわっと花がほころぶように笑った。
(似てる)
可愛い、と反射的に思ってしまったその瞬間。静香の、女性としてはやや低めの声に似た声が、言った。
「よくしゃべるなァ、と思って」
(……ん?)
勘が。
仕事で、要注意のお客様に会ったときのように、神経がざわつく感覚。
顔が笑っているのに、目に表情がない。べたっと暗い。その目が伊久磨の顎のあたりを見ていた。
「しゃべって、笑って。口先だけで人生イージーモードって感じ。そういうのに騙される、あったま悪い女っているんだろうなァ」
視線が、手元に注がれる。指輪。
それから、再び顔を上げて伊久磨の目を見た。冷たいまなざしに、歪な笑みを浮かべた口元。
値踏みされている。
珍しいことじゃない。人に見られる仕事だ。試され、推し量られることなどいつものこと。
機転がきくか。気は利くのか。知識はあるのか。
会話のひとつひとつで、人間としての底を探られる。
(自分を、自分以上に見せることなどできない。今の自分にできる最善を)
相手が誰であれ、決して気を抜かないこと。力を出しきれず、「もっと上手く出来た」と後悔しないように。
ちらりと目を向けた先で、香織は心愛とソファ席で並んで座っていた。
その向かいには湛と和嘉那。
夫婦二組のように見えるが、話題は心愛のお腹の子の父親とのやりとり進捗のようだった。
ゆったりとソファに沈み込むように背を預け、腕を組んだ香織が時々心愛に顔を向け、何か言っている。和嘉那が眉を寄せ、心配げに質問をし、湛がそんな和嘉那を気にするように視線を流す。
オリオンは、ごく自然に由春の母に「マダム」と声をかけて、バーカウンターに誘っていた。「お酒強くないから、水でいいわよ」と言いながらマダムは誘いにのり、バーテンダー役のオリオンの前に座って、楽しそうに話している。
ふと、香織が顔を上げて伊久磨を見て来た。
大丈夫、と声に出さずに素早く口の動きだけで伝えて、光樹に向き直る。
「結構失礼なこと言っていると思う。何か理由があるのかな」
ふっ、と光樹は息を漏らした。
「べつに。接客業ってなんか好きじゃなくて。他人の顔色うかがって、媚を売って。だっせえ」
声にトゲ。
(目つきが危うい。何を見ている?)
伊久磨は目を細め、掌を軽く胸にあてた。
「少なくとも俺は今この場で君に媚を売るつもりは特にない。買えないのはわかってる」
光樹の目つきが変わった。見せかけの愛想の良さが失せて、射るような鋭さがのぞく。
「へえ。客を選ぶんだ」
「挑発には乗らない」
そこで、伊久磨はくすり、と笑みをもらした。
「そんな下手な煽りに、大人が乗るか。そもそも、図星のことが一つもない」
店のお客様が楽しく食事できるように気を配るのはもちろんだが、「媚び」を売ったことはない。そんなものを勝手に商品にしたら、オーナーシェフの雷が落ちる。
「今日は妊婦さんもいるし、運転の人もいるからノンアルコール揃えてる。炭酸が大丈夫ならアップルタイザーあたりはどうかな。あ、そうだ。オリオンが作ってたチョコミントのノンアルコールカクテルも良かった」
すらりと伊久磨が話すと、光樹は眉をぐっと寄せた。
「そういう、ぺらぺらと。なんか……。軽薄」
まだ悪態をついていたが、先程よりやや弱い。伊久磨は気にせず、親指で聖を指し示す。
「それで言ったら、一番ぺらぺらうるさいのはあっちだ。聞いていただろ」
視線を向けたらすぐに気付かれるので、敢えて振り返らなかったのに「おい蜷川。いま俺の噂話しただろ」と声が飛んできた。
「ほら。名前も呼んでないのに、もううるさい」
チョコミント、試してみなよ、と声をかけてからバーカウンターに向かう。背を向けたところで、視線が追いかけてきているのを感じた。
「蜷川。なんだ。お前悪口言っただろ。絶対言った。こら待て」
聖は視線どころか本人が追いかけてくる。本当にうるさい。
追いつかれて肩を掴まれ、軽く振り返った。
光樹はやはり見ていた。
(なんだろうな)
あの目。
「なんかお前、突っかかられてたな。あのガキ」
聖が耳元で囁いてくる。
「ですね」
心が読めるわけじゃないから、まだ何もわからない。
わからないけど、静香によく似た顔で暗い目をしているのが気にかかる。
エレナも、光樹も。
もっと笑って欲しい。
(「海の星」で働き始めた頃、いつも言われていた。「笑え」と。たぶん全然笑えていなかった。その俺がいまは)
笑わない誰かを気にしている。
香織に命を助けられて、由春に生きて行く道を示されて。
完璧にはいまだほど遠い。だけど。
人生イージーモード? 軽薄? ……そう、見えた?
上等だ。
笑えてる。お前のことも笑わせてやる。