熱情
ピアノの調べが変わった。
鋭い打鍵。
敢えて防音にはしていないのだろうか。
鍵盤を打ち付けて鳴らし、悲鳴を上げるように歌う。空間を染め抜く音色がピアノ室から溢れ出す。
(「熱情」かな。ベートーヴェン)
技巧的にも難しそうな曲だと思うのだが、弾きこなしている。伊久磨が来たときに聞こえた生徒の演奏とは、段違いの腕だ。
「おっと。急に巧い弾き手に代わったな。先生か?」
ウィスキーのグラスを手にした聖が聞くと、由春が「違う」と即答してから、続けた。
「夕方、高校生のレッスンがあると言っていた。音大狙えるけど、親が反対しているとか。そうだ、そのままうちでメシ食ってけって声かけてあるって。後で来ると思う」
高校生。
由春はしらっとしているが、知り合いなのだろうか。まったく縁もゆかりもない大人たちの間に迷い込むのは大丈夫かな、と伊久磨は一瞬考えた。
特に誰かが意地悪をするわけでもないし、心配はいらないはず。
(意地悪……)
自然と、目の前を通り過ぎていく聖の端正な横顔を、綺麗に伸びた背中を追ってしまう。
岩清水邸の居間は建物の外観を裏切らず、広い。上部は吹き抜けで天井も高い。
キッチンはペニンシュラ型の開放的な作りで、すでに出来上がったオードブルの皿がステンレス台に並んでいる。ゲストが揃ってから、由春と聖、オリオンでメインに取り掛かるらしい。普段の営業よりも豪華な布陣だ。
部屋の中央には木製の長テーブルが出してあり、ビュッフェスタイルですでに取り皿やグラスは配置している。
席は、キッチンのカウンターや、部屋の一角にあるダイニングテーブルやソファなど、各自好きなところで、という。
さらには、隅に完璧なアイリッシュパブ風のバーカウンターまで。バーテンダーの立ち位置から背にする奥の棚には、ずらりとボトルが並んで間接照明でライトアップされている。
なお、今はバーチェアにオリオンが座ってグラスを傾けていて、聖もそこへ向かって歩いていた。
ちょうど、赤々と燃えている暖炉の前を横切ったところ。横に薪が積んである。炎は本物。「焼き芋でもするか?」と由春に言われたが、丁重に却下しておいた。
「伊久磨」
ワイングラスを片手にした伊久磨に、適当に着崩したネルシャツにダメージジーンズという、ラフな姿の由春がワインボトルを手にして声をかける。
グラスを差し出して、おとなしく注がれながら伊久磨はオードブルに目を落とした。
「美味しそう。食事が始まったら、案外忙しくて食べる暇ないかも」
空いた皿から洗った方がいいよな、とついついオペレーションを思い浮かべた伊久磨に「食っていいぞ。あと、今日は給料出ないぞ」と由春が苦々しく言った。
「エプロンも持って来ていますよ。藤崎さんに当日の動きをイメージしてもらう必要もあるわけだし」
「うるせーな。ただの新年会だ。食って飲んでろ」
仕事の話はやめろとばかりに打ち消される。
「そういえば、皆さんそろそろかな。湛さんは仕事上がってから、一度自宅に帰って和嘉那さん迎えてくるって聞きました。少し遅いですかね。『帰りに車二台になりたくないから』らしいですけど、和嘉那さんに雪道運転させたくないだけですよ」
話している間に玄関チャイムが鳴って「行きます」と伊久磨が普段の仕事通りに動いてしまう。
由春が、呼び止めようとしてから、不満そうに口をつぐんだのを見て、伊久磨は笑って言った。
「万が一ゲストではなく、町内会の集金だったら、シェフお願いします」
自分は屋敷の住人ではないので、と。
行け行け、とばかりに目で追い払われて、そのまま玄関に向かう。
廊下に続くドアをあけたところで、ピアノの音が雪崩のようにごうっと迫って来た。
胸が掻きむしられる、重い熱を孕んだ音色。空気を圧し潰し、歪ませるほどの迫力。
息が苦しい。
――何もかも壊してしまいたい。
(高校生か……)
暗がりから畳みかけてくるような調べだ。生き急いで止まれない危うさ。怖い。
それでいて、惹きつけられる。ともすると引きずられそうになる。闇の中へ、嵐の中へ。
息ができない。
――この声を聞いて。誰か。早く。壊してしまうから。
音が、泣き叫んでいるような気がした。
誰の声も聞こえない。
不意に音が止まった。
妙にほっとしながら、たどり着いたエントランスにいた人影に声をかける。
「いらっしゃいませ」
男女二人。
男の方と目が合う。にこりと微笑まれた。
「早かった? 大丈夫?」
声を聞いて、ようやく確信を得るも、問うように名を呼んでしまう。
「香織?」
「そっか。髪切ってから会うの初か」
すらりとした立ち姿はそのままなのに。目を凝らしてみても、以前の面影はわずかだ。
染めたばかりらしく、緑なす黒髪が色白の首筋にやわらかく沿っている。長さはない。
連れ立ってきたのはエレナ。同じ家から同じ目的地に向かうわけなので、それなら一緒に、ということだろうか。
二人の間には依然としてよそよそしい空気があり、微妙な間隔をあけて立っていた。
伊久磨と目が合ったエレナは「おじゃまします」と会釈してから、すぐに「皆さんは」と伊久磨が歩いてきた方の廊下へと顔を向ける。
「そのまままっすぐ。みんな好きにやってる」
「わかりました」
先に行きます、とエレナは背を向けてさっさと廊下を歩き出した。
目だけで軽く見送ってから、香織と向き直る。
「全然ちがう」
「みんな言う」
予期していたように答えてから、香織はふっと息を漏らした。笑っていた。
以前までの香織には嫋やかな印象があったが、今はそれがほぼ感じられない。
とはいえ、美貌はさらに研ぎ澄まされたように見える。伏せた目元などは、むしろ憂いを含んで艶めいていた。
(何か見ている?)
視線を追いかけて、自分の左手だと気付いた。
「順調そうで」
何が、ということなく香織が呟く。指輪のことを言っているのはさすがにわかる。
「おかげさまで?」
なのかな? と首を傾げつつ伊久磨が言うと、距離を詰めてきて、触れ合うほどに間近で伊久磨を見上げながら香織が言った。
「こうなるの、わかっていた気がする。伊久磨、俺のこと好きでしょ。静香なんか、半分俺だからね。好きになるに決まっていたんだ」
半分。
(……「兄妹」……父親違いの)
静香から、聞いてはいる。まだ香織とは直接話してはいない。だけど、伊久磨が知っていることを、香織は間違いなく気付いている。
「静香は全部静香だし、香織は全部香織だろ。香織の半分が静香なら、香織の子どもは静香の」
「おい。混乱する。やめろ」
確かに。
香織は噴き出して、伊久磨の腕を掴んだ。
「あとさ、あんまり俺のこと色っぽい目で見ないでくれる。俺は静香じゃない」
「知ってる」
ほんと?
と、囁き声で聞かれた。
ふざけているのか、ぎゅっと指が食い込むほどに腕を掴む手に力をこめられる。
「……香織」
直感的に。考えるより先に名前を口にしていた。伏せた睫毛がかすかに震えている。
(元気ない? ……落ち込んでいる?)
何かあったのか。喉がつかえて、聞けない。
何かはあったのだ。たとえば髪を切りたくなるようなことが。
顔を上げた香織は、淡く微笑んでいた。
「結婚するならさっさとしろよ。その時が来たら、誰にも遠慮するな」
まっすぐに、目が合う。
香織と静香が兄妹だとして。静香と結婚したら、香織は義兄になるのだろうか。
(一緒に暮らしている間は「家族」にはなれなかった。これから一緒に暮らすことも、おそらく無い)
それでも、静香を介して途切れることなく縁が結ばれるのなら。例え言葉にして確かめ合うことはないとしても。
これからは家族。秘密の。
「いや~、良い匂いがしてるわねえ。お腹すいちゃったわ~」
居間とは反対側の廊下でドアが開き、明るい声とともに岩清水母が出て来る。
その後から、黒いパーカーにジーンズ姿の細身の少年が続いてきた。
高校生と聞いていて漠然と子どものように思っていたが、背は高い。それはそうだ、大人とほとんど変わらないんだ、と思い直す。
(「熱情」の)
ちらり、と視線を向けられた。
涼やかな顔立ちに、アンバランスなほど大きな目。
どこかで会ったことがある、と錯覚した。おそらく錯覚だ。ただ、似ているひとを知っているのだ。
似て非なる。
彼の瞳は暗すぎる。空気を黒く塗りつぶし、徹底的に塗りこめていく音のイメージそのままの。
視線の先で、少年は軽く頭を下げる。ひとまず伊久磨も同じようにしてみた。
「うちの生徒さんの、光樹くん。今日のご飯に誘ってるの。こちらは『海の星』の伊久磨くんと」
目を向けられた香織が、にこりと愛想よく微笑んだ。
「お邪魔してます。立ち話は寒いですから、移動しましょう」
さっと二人に道を開ける。
「そうね。冷えちゃう」
伊久磨と香織の間を、先生と生徒が通り過ぎて行く。
続くと見せかけて、香織は足を止めた。伊久磨も止めた。
「香織、岩清水さんとは」
「何回も店に来てるから、顔見知りだ。髪切ってからも会ってる」
だからいま名乗らなかったのかな? とは思ったものの、空気が一瞬凍っていた。
肩を並べたまま、香織が視線を流して来た。
「いまの。聞いてる? 弟」
声は、意外なほどに軽やかだった。
「……似てる気はしたけど」
髪の色や男女の違いがあるが、似ている。伊久磨もよく知る人物に。
「十歳以上年が離れていて、ほとんど一緒に暮らしてないからよくわからないって。静香、家族の話あんまりしないでしょ」
「両親が自分に関心がないような話はしていた」
(弟?)
交際相手である齋勝静香の弟ということは。義弟になる可能性が高く(というか、する)。
それだけでなく。
蜷川伊久磨 → 義弟
椿香織 → (半分)実の弟
ちらりと顔ごと横に向けると、香織に奇妙に歪んだ笑みを向けられた。
低めた声で念押しのように囁かれる。
うん、気付いた? と。