家族の気配
つまずくピアノの音を背に聞きながら、騒ぎ声の方へと足を向ける。
岩清水邸は、玄関を入って正面にゆるい螺旋階段があり、奥の壁は一階から二階へと連なる大窓。上部は吹き抜け。
冬の冴えた光をうまく取り込んで、灯りがついていなくても十分に明るかった。空気は冷たく、静かであれば教会のような荘厳な気配を感じたかもしれないが、とにかくそこかしこに人の気配がある。
廊下は左右に伸びているものの、迷いようもない。広間は右。
聖の張りのある美声。由春の低い声が何か言い返している。オリオンの楽しそうな笑い声がそこにかぶさって、とにかく賑やかだ。
廊下は床板も壁紙も外国の屋敷のようで、映画の中にいるみたいだった。普段「海の星」に来たお客様が感じていることかもしれない。
壁には、絵画のように家族の写真が額縁に収められ、飾られている。ちらっと見ると、今より十歳は若い由春の写真があって、頬が緩んだ。高校生くらいのはずだが、目つきがやたらに鋭い。尖ってそうだな、と笑いながら何枚か続けて目で追っているうちに、思わず声が出た。
「あ……」
新しい。
撮影したのは自分だ。「海の星」での、水沢家・岩清水家のお顔合わせのときの集合写真。六人のものと、由春が加わったものの二枚がランダム配置で飾られていた。
「あら! 伊久磨くんじゃない!!」
場が華やぐ明るい声に呼ばれて、振り返る。
ピアノのレッスンが終わったのか、玄関に向かう女性の姿。見送るように出て来たのは由春の母だ。笑顔が眩しい。
「先生、これで」
「はい! お疲れ様でした!! 道滑ると思うから、気を付けて帰ってね!!」
生徒さんは由春の母と同じくらいの年代に見える女性だった。慣れた様子で玄関の扉を開けて出て行く。
とはいえ、由春の母は年齢不詳。若く見えるが、娘と息子の年齢を考えるとそこまで若いはずはないんだが……という。
「写真見てたの? あ、これね。あの時はお世話になりました。ありがとう、すっごく楽しかった」
伊久磨の目の前の写真に気付き、満面の笑みで近づいてくる。笑顔の印象で存在が大きく見えていたが、近くで見ると意外なほどに小柄だった。
「とても素晴らしいお席でした。関わらせて頂いて、こちらこそお礼を申し上げたいです」
両家の会食。
まだそんなに前のことでもないのに、思い出して感傷的になり、伊久磨は控えめに言って見下ろす。
にっ、と悪戯っぽく笑い返された。
「ここに和嘉那の結婚式の写真も飾りたいの。先に赤ちゃんの写真だけどね。本当に、あわてんぼうなんだから。ウェディングドレス着る前に一仕事よ。そうそう、結婚も早かったしね! お母さんちょっとびっくりしちゃった。彼氏ができたから一緒に暮らす、って。そこから、両家の両親のお顔合わせをしてから籍を入れるっていうけど、赤ちゃんもいるって言うんだもん」
たしかに。二人の出会いから見て来た伊久磨としても「早ッ」という感覚はあった。
(結婚前の妊娠、湛さんその辺気にしそうだと思っていたけど。意外とこだわりないんだよな)
あの二人の場合、付き合って一ヶ月くらいの時期にはすでに同居だろうか。もっと早い……?
揺るぎない、絶対にこのひとと結婚すると、二人とも初めから心に決めていたような関係。
「結婚式も由春のお店でやりたいって、あそこは夫婦ともに言っているけど。いつになるのかなぁ。年内は難しいかもね」
「少し時間が欲しいのはスタッフもです。店としても、まだウェディングの経験がないんです。勉強はしていますが、一生に一回のことです。終わったあとに『良かったのか、もっと良くできたのか』ご本人もスタッフもわからないというのは避けたいです」
請け負うからには、最高の式を、との思いから伊久磨は言ったが、目の前の相手にはにこにこと言い返されてしまう。
「べつに、一回限りじゃなくてもいいんじゃない? 『海の星』の規模を考えれば、収容人数に限りがあるわよね。二回目、三回目は違う方を招待すればいいのよ。ドレスも料理も三パターン。いいわあ。どうせなら季節も変えてね。あっ、だとすると、春夏秋冬で四回ね。挙式のたびに子ども増えていたりして」
ふふふ。
とても楽しそうに笑われて、伊久磨も噴き出してしまった。
「あのお二人なら、ありですね。……ありなのかな。四回目には上の子は結構大きくなってて『お父さんとお母さん、また結婚式するの?』とか……」
何か思い出したように、突然、由春母は伊久磨の腕をぱしっと軽く叩いた。
「だといいんだけど。私の知り合いでね、しょっちゅう離婚する夫婦がいるのよ。離婚するたびに同じ相手と再婚するんだけど。それは勘弁だわ」
「手続き面倒そうですね」
「ほんとよ。ま、別れないまま、結婚式は何回もやりたいって言うなら全然いいわ。そう考えたら、あなた方も気が楽になるわよ。一回目、二回目は失敗しても次があるから」
結婚式にあるまじきことを言われている気がする。しかも、自分の娘の式なのに。
(とはいえ「海の星」は息子の店だからな……。結婚式に不満で姉弟に確執が出来るよりは、親としてはこのくらい大らかに構えていた方がいいのだろうか)
大らかすぎる気がしなくもない。
「俺の周りもまだ全然結婚していなくて、招待されることもなくて。そういう意味では、イメージがないのが不安ではあるんですが……。あの、失敗はしません。大切なお式ですから。もし次があるとしても、振り返ったときに、すべての回で甲乙つけがたいくらいに最高の式にしたいです」
経験はないが、任せてもらうからには、プロとしてそこは妥協しないと主張する。
……ある日突然、家族を喪った。当たり前のように「明日」「明後日」「数年先」を語ることに、抵抗がある。
まさかこの話題の最中に、そんな個人的なこと、口に出して言うことはないけれど。
「頼もしいっ。それはそうよね。うーん……。まあ、一番良いのは誰かさっさと結婚することよね。由春……由春はどうなのかなぁ。お母さんよくわからないのよね。あっ……伊久磨くんは? 伊久磨くんは?」
視線が、左手の薬指に向けられている。
その目ざとさに、伊久磨は声も立てずに笑った。
(お母さん、って自分のこと言うんだ)
お店で会ったときは迷わず「(和嘉那さんの)(シェフの)お母さま」とは呼んでいたけれど。
今日はなんて呼べばいいのだろう。名前を聞くべきなんだろうか。
それとも、お母さん、と呼ぶんだろうか。
それを口にするのは、結構、久しぶりだ。