(and it goes on like this)
この家は、朝ごはんが美味しい。
朝起きて、身支度して台所に向かう。
家中に立ち込める冬の冷気。屋内でも吐き出す息は白い。古びた床板が、踏みしめるたびにきしきしと音を立てる。誰にも会わないのはわかっているので、出社用に着込んだ白のブラウスと黒のパンツの上に、真っ赤なニットワンピースを着ている。足元はピンクとラベンダー色のチェシャ猫みたいなボーダー柄もこもこソックス。
本当に、寒い。
家主である椿香織は、朝のまだ暗いうちから和菓子作りの工場に行ってしまっている。
同居人の西條聖も、仕入れで早朝出て行くこともあるし、通常でも仕込みがあるからと七時くらいには家を出て行っている。
七時半。誰もいない。
台所は広く、窓から光が差し込んでいるが、寒いことに変わりない。
朝ご飯は聖が作ってから出て行くので、居候のエレナはいつも温めて食べるだけだ。
香織の祖父の代から家のことをお願いしているという女性もいるのだが、何しろ高齢。料理は聖がいる間は大丈夫と休んでもらっているとのこと。いまは週三回、昼間に掃除に通っているそうだが、エレナはまだ会っていない。
台所にはダイニングセットがあり、普段はそこで各自食事をしている。灯油ファンヒーターもあるが、万が一消し忘れたら危ないとの思いからつけなかった。一人でさっとご飯を食べるだけなので不都合はない。
冷たくなった指先に息を吹きかけてから、コンロの上にあるアルミ鍋の蓋をずらすように開けてみる。具沢山のけんちん汁。カチッとつまみを回して火をつけ、温める。ステンレス台の上の炊飯器は保温のままで、中にはグリーン色の豆? ときのこの炊き込みご飯。冷蔵庫の中にも何かあるかもしれないが、これだけで十分とカップボードに向かう。
大切に使われてきたらしいカップボードは、昭和っぽいオレンジと緑のレトロな模様が側面に描かれている。
(カフェとかにあったら、普通におしゃれ。アンティークみたい。いいなこれ。安く譲ってくれないかな)
――転職してもひとりで生きていくのに困らないように、店を出せるようになりたい。
大口を叩いて勤め先のシェフや蜷川伊久磨には面倒をかけてしまったが、自分としては前向きなつもりだ。
家具や食器類を見ては(自分でお店を出すとしたら、これ使いたいな)と考えてしまう。
店で出したい料理のイメージだけが湧かない。
(何かを始めるのに、何歳からでも遅いことなんてない、とか。今日の自分がこの先の人生で一番若いとか。そういうのは、若いうちに人生かけるものが見つけられなかったひとの「言い訳」じゃないかな)
高校の同級生だった西條聖も。
「海の星」で出会った岩清水由春も。
背中が見えないくらい、ずっと先を走っている。
歩き出したばかりの自分は、ただただ離されていくだけだ。
そんなに長い時間のつもりもなかったのに、気が付いたらぼんやりしていたらしい。
すっと横に背の高いひとが現れて、カチリとガス台のつまみを回して火を止めた。
「焦げるよ?」
声をかけられて、びくっと肩を震わせてしまう。
「香織さん……っ!?」
「うん。俺の家で俺に会ってそんなに驚かなくても良くない?」
くすりと笑われる。
その笑い方も、話し方も、以前とはなんら変わらないというのに。
黒髪で、襟足は長めながらも長い髪をばっつりと切ってしまった香織の見た目は、出会った頃とは全然違う。
もともと、長身ながらもほっそりとして圧迫感がなく、女性的な柔らかい印象が強かったのだが。今は。
(かなり……、男の人、なのよね)
きりりと崩れることなく着こなした白の作務衣が、似合っている。「椿屋」で一番の職人という、水沢湛と会ったときは「いかにも」とは思ったが、香織もこうしてみるとまったくひけを取らない。
背筋の伸びた、一人前の職人に見える。
「今からなんだよね? 俺も食べてく」
さっさとカップボードから自分の茶碗とお椀を出して、香織が戻って来る。
「こっち俺がよそうから、ご飯お願い」
茶碗を渡されて「はい」と答えてから、炊飯器の元へと向かった。
二人で食事の準備をしてテーブルに並べると、いつの間にかファンヒーターもつけられていた。気付いたエレナに「一人だからって遠慮してないで使ってよ」と香織がすかさず言う。
(声だけ聞くと、前と変わらないんだけどなぁ……)
振り返って見ると、見慣れない青年がいるのだ。
「……なに?」
見ているのに気づかれた。たしかに、じろじろと見てしまった。
「髪黒いですね」
向かい合って座る。各自、いただきます、と声を合わせることなく言う。
「髪ね。出入りの人には新入りと間違われるよ。『見ないひとだねえ、新しい職人さんかい』って」
「『はい』って言って流してそう」
椀に口を付けてけんちん汁を飲む。出汁がきいていて美味しい。
香織はおっとりと笑って「うん。面倒だからね、そんな感じ。お得意さんで『ところで最近店主さん見ないね』って気付かないまま言われた場合は『死んだんじゃないですかね?』って言っているけど」
けんちん汁噴くところだった。
「それはさすがに大人げないと思う」
「大人じゃないんだな、これが。髪型変えたら、湛さんに微妙に嫌な顔されて『次は反抗期でも始まるのか』って言われた。ちょうど俺が染め始めたのが中学生からだから、その頃のこと思い出したみたい」
(中学生……)
随分早いな、と感じた。周りとの軋轢もあっただろう。しかも、ずいぶん長く続けていたのだ。
よほどの信念でもあってあの髪型だったのか。その信念を曲げてまで髪型を変えたのはなぜなのか。
踏み込んで聞けない。
側にいても、一緒に暮らしていても、越えられない線がある。
「いま、なんで髪切ったのかなって、思ったでしょ」
聞かないようにしたのに、言い当てられる。
(教えてくれるの?)
「私、そんなに顔に出ますか?」
ご飯を一口。
豆だと思って食べた緑のものが、予想外の食感で「ん?」と声に出てしまう。
「これ……」
「今日はグリーンオリーブとマッシュルームの炊き込みご飯」
思わぬ取り合わせに、聖らしい、と思ってしまった。
「西條くん、和食のアレンジも上手いんですね。けんちん汁も出汁がすごく美味しいし」
感心して呟くと、香織が困った顔をした。
それから、少し間を置いてぼそりと言った。
「今日は俺が作ってる。西條が食材揃えているから、適当に使って。出汁はそれ、昆布と椎茸。口に合う?」
まっすぐに見つめられて、動きを止めた。
髪の話に戻るつもりが、戻りそびれて、思わず言ってしまった。
「朝ご飯は、いつも西條くんが作っているんだと思っていましたが……?」
「その時々かな。今日は西條、卸売市場に行くから早いって言ってて。俺が昨日寝る前に」
淡々と言われて、エレナはただただ見返してしまった。
「香織さん、料理もできるんですね」
和菓子職人、というのは知っていたが。
そういえば、「海の星」でもまかないはパティシエの心愛が作っていることが多い。スイーツ担当だからといって「それだけ」では無いらしい。むしろ「両方」できる……。
(気が遠くなる……みんな出来るのね)
「完全に一人暮らしだったら、意外とやらなかったかもしれないけど。湛さんとか伊久磨とか同居人もいたから、何かと作ってたんだよね。ちなみに、他の二人も腕はそこそこ。伊久磨は最初結構苦戦していたけど。湛さんに食べさせるのは緊張するって。藤崎さんも、料理したいならうちで作ればいいと思うんだけど、緊張しているでしょ?」
ずばりと言われて、頷く。
「西條くんに食べさせるのは怖いですね……」
(香織さんも怖いんですけど)
何か思い出したらしい香織は、破顔して言った。
「湛さんの奥さんって、岩清水のお姉さんなんだけど、料理全然だめなんだって。今は出産も控えているし、無理はしなくてもいいって湛さんも言っているみたいだけど、気持ちはすごくあるから何かしら作ってくれるらしくて……。それがもう毎回予想外のものみたいだけど、湛さん食ってるらしいよ。愛ってすごいね」
笑って言って、ご飯を食べ始める。
愛。
(愛……。ますます難しい。香織さんも西條くんも私に対して特に「愛」ないし)
だけど、愛どころか、自分でお店を出したければ、全然知らない相手に、お金を得る目的で自分の作った料理を食べてもらわねばならないのだ。ハードル高い。知り合いでも無理なのに。
ふと、誰なら食べてくれそうかなと思い浮かべたとき、同僚の蜷川伊久磨の顔が浮かんだが、慌てて打ち消した。伊久磨は親切だが愛はないはず。友情くらいは多少あるかもしれないけど。
なんとなく話しながら食事をしていたら、食が進んでしまって、結局二人ともご飯もけんちん汁も二杯ずつおかわりした。鍋も釜も空にした。
「藤崎さん、よく食べるね」
最近、香織からは苗字で呼ばれている。慣れた。
「立ち仕事でお腹がすくみたいです。香織さんも思った以上に食べますね」
そんなに細いくせに、と言い返すと、本人も意外なくらいに戸惑ったような顔をして「今日はたまたまだよ」と言った。
「なんだろうね。藤崎さんの顔見ながら食べていたらお腹が空くっていうか。レストランの従業員顔?」
「何それ」
「いや、俺もわかんないけど。悪口じゃないから。……時間帯のせいかな。朝の仕事ひと段落したこの時間が良かったのかも。明日からもそうしようかな。俺が来ないと、藤崎さんストーブもつけないし」
少ない洗い物を香織が担当し、エレナが拭いて片づける。
用事が終わったので、後は各々の部屋に戻るのみ。出社までまだ時間はある。
「お茶でもいれようか。いま新作の試作した菓子がいくつかある。……まだ食べられる?」
不意に香織から声をかけられて、見上げた。目が合う。長い睫毛を伏せたまなざしに、優し気な光。
「食べます。食べたいです」
答えると「じゃあ持ってくるね」と香織は台所を出て行った。すぐ戻ってくるだろうから、お湯を沸かして待っていよう。
(なんだか今日は珍しく香織さんと話している気がする)
交際関係の話題を出すと、お互い変に冷たい態度になってしまうので、今は触れないようにしているが。
まずは、お友達から、くらいの空気にはなってきただろうか。
(そもそも私は香織さんともう一度本当に付き合いたい? そこからじゃない?)
朝の光に包まれた台所で、シンクに背を預けて腕を組んで考えていたところで、ワンピースのポケットにいれていたスマホが震え始めた。手にしてみると、着信は西條聖から。
「おはよう。西條くん? どうしたの?」
――藤崎、まだ椿邸だよな。椿が電話でないから。椿捕まえて、明日の夜の予定おさえておいて。由春の家に行くことになったから。
「シェフの家? なんで?」
聞き返したときには、聖らしい忙しなさで、すでに電話が切れていた。
第21話アフターSS「They lived happily ever after. (and it goes on like this)」
「(おとぎばなしの締めで使われる)そうして彼らは末永く幸せに暮らしました+そしてこんな風に続きます」
という、タイトルでした( *´艸`)
ステラマリス本筋だけを追っている方にはちょっと横道の話なのですが、もともと椿香織と藤崎エレナは「ビューティフル・ティー・タイム」という短編作品でいい感じに出会っています。これは運命の出会いかな? という。それがいまや……
(ポジティヴな表現をすると)トレンディードラマ並にこじれて恋愛迷子です。
現在の椿邸はほぼただの合宿所状態ですがこの先うまい具合に恋愛になるように私も祈ってます。誰と誰が恋愛沙汰(沙汰?)になるかは全然わかっていません( *´艸`)
つづく!