マダムのいたずら
「Quando il gatto non c’è i topi ballano!!」
三切れ切り取られて、完全体ではなくなった(元)ホール型のザッハトルテを見て、寝起きの聖が何か叫んでいた。
身振り手振り、動作はひたすら過剰。役者みたいだ。何か怒っているのは伝わって来る。
「あれ、なんて言っているかわかります?」
なまじ発音が美しいので、オペラでも見ているようようだと感心しつつ伊久磨はオリオンに尋ねた。
「ええと……『gatto』は猫かな。『猫がいない間にネズミが踊ってた』みたいな感じだと思う」
「へえ。ねずみに食べられたってことですか」
ザッハトルテの試食に呼んでもらえなかった「猫」が怒っているらしい。
思わず、伊久磨はくすっと噴き出してしまう。
「西條シェフは黒猫って感じですね。ちょっと可愛いな」
オリオンに呆れたような視線を向けられ、言い訳を添えた。
「チョコレートを食べたくて騒いでいる猫なんて、想像したら可愛いなって。あ、きっと本物の猫はチョコはダメだと思うんですけど」
そのへんは、大丈夫です、気を付けます。そう告げると、ふにゃっと苦笑したオリオンが呟いた。
「ドイツ語にはNaschkatze、『甘党』とか……『つまみぐいする猫』という言葉が」
聖のことを言いたいらしい。
「『つまみぐいし損ねた猫』ですね。よっぽど完成形で見たかったのかな」
のどかに話している間に、由春ものんびりと事務室から起きてきた。
ザッハトルテを見つけて、どこからともなくフォークを取り出すと、切り分けもせずさくっと突き立てる。
「ちょ、お前。どこにフォークを隠し持ってた!?」
いきなり横からかっさらわれた聖が文句をつける。
「ん、うまい」
至近距離でぎゃーぎゃー言われても気にすることもなく、由春は一口食べて呟いた。
「今食べるならコーヒー淹れますよ。紅茶の方がいいですか? あと、生クリームは絶対にあった方がいいです」
声をかけながら、伊久磨が近づく。
そのとき、電話が鳴った。習慣で伊久磨はエプロンのポケットに入れていた子機を手にしたが、通話を押す前に呼び出し音が止まる。
エントランスで、顧客情報をパソコンで見ていたエレナが取ったらしい。
(藤崎さんの職歴を考えれば、あのくらいの注意を受けるのはそこまで珍しいことじゃない、よな。海の星とは違うだろうけど、電話マナーは細かく叩き込まれているみたいだし)
怒られて嫌になって電話を敬遠するということはないらしい。その逞しさは素直に嬉しい。
様子を見に行ったら、監視されているようで緊張するだろうか。少し迷ったが、何かあったときにすぐに答えられるようにそばに行こうと、ホールに足を向ける。
ちょうど、手にしていた子機の保留マークが点滅し始めた。
エントランスに着く前に、ぱたぱたと足音を立てて、エレナが走りこんでくる。
目が合うと、ほっとしたように表情を緩めた。
「良かった、蜷川さん。いまお客様からのお問合せがあって。ケータリングはしているんですかって聞かれています。どうすればいいですか」
「ケータリング?」
これまで、ときどき問い合わせを受けていた。店に余裕がある日なら、オードブルを作って配達したこともある。
「日にちや人数、状況次第ですね。作ったものを届けて欲しい、くらいの依頼なら受けられる可能性が高いです。サービスの人間もつけてくれるとなると、店の営業に響くので……」
貸し切り程度の売り上げが見込めないなら、受けるのは慎重にならざるを得ない。
とはいえ、いまの人員ならどうだろう。
シェフのどちらかを店に残し、サービスが一人ついていくこともできそうだ。
(予約数次第だけど、細かい仕事があることも考えれば俺が店に残って、出るとすれば藤崎さんか。だとすると組み合わせ的には店に残るのは西條シェフ、出るのが店の顔として岩清水さんかな)
由春であれば、サービス面も含めてエレナのフォローはもちろん問題ない。
一方、聖と由春はいまレシピを共有しているので、聖がキッチンに立っても店の味に大きな影響はない。イレギュラーな事態に備えて、各種書類や緊急連絡先等全部を把握している伊久磨がそこに残った方が、営業に支障はないはず。
そう考えると、出先で調理やサービスまでして欲しい、という依頼も受けられる可能性が高い。
「細かい話を聞いて、折り返しにします。俺が代わります。他に何か聞いてますか」
「明るい感じの女性の声でした。ピアノ教室をしていて、内輪の発表会の後に家でパーティーをしたいそうです。生徒さんは、大人になってからピアノを始めた御婦人方が中心で、子どもの出席はない、大人の集まりという話でした。人数は十人程度ということです」
「わかりました」
かなり具体的だ。普段、こういったサービスを使い慣れているのかもしれない。過去に「海の星」を利用している可能性も高い。
知っているお客様だろうか、と思いながら手にしていた子機を通話にする。
「お電話代わりました。担当の蜷川と申します。ケータリングのお問合せということですが、詳しいお話をお伺いしたいのですが」
――えーっと、伊久磨くんね?
(おっと。確実に知り合いだ)
誰だこの声は、と記憶を辿る。
その間に、電話口から明るい声が続いた。
――由春がね、お店に行くのはだめっていつも言うから。だけど、休みの日に私のお友達にサービスしてって言うのもさすがに悪いかなって思って。それで考えたんだけど、仕事の依頼にしたら受けてくれるかしら。
「……シェフの」
お母さまですね。
――うん。あ、まだ言ってなかった。岩清水でーす!!
(フレンドリーだなー。もう、電話口でどんな笑顔をしているのか目に浮かぶ)
和嘉那や由春によく似た美人。
思いついた悪戯に顔をキラッキラに輝かせているに違いない。
――お店の方はいま西條くんがいるっていうし。今しかないかなって。
「わかりました。シェフと相談します。折り返しのご連絡となりますが、少しお待ち頂けますでしょうか」
――ありがとう!! よろしくね!!
電話が、可愛らしい余韻を残して切れた。
(岩清水さん、家で結構店の話してる……? 内情筒抜けだし、もう依頼受けた感じになってるんだけど……)
まるで、「岩清水×藤崎」と「西條×蜷川」でチーム分けすれば受けられそうだな、オリオンもいるし。と、伊久磨が考えたことまで読み取られているかのようだった。
「あの……、お得意様ですか? 電話受けたときに、ディスプレイに表示された番号を予約画面に入れても過去の情報がヒットしなかったので、新規のお客様かと思ったんですが……」
ほぼ会話らしい会話がなかったのをいぶかしむように、エレナに問われる。
伊久磨は笑みをこぼしながら「お得意様というのともちょっと違うんですが」と言ってから、エレナについてくるように目で促した。
キッチンに戻り、由春に向かって声を張り上げて言う。
「岩清水さん、ケータリングの依頼が来ています。おそらく、出先での調理やサービスを含むかなり本格的な内容で希望のお客様です。予算も結構ありそうなのかな。お金をどこまで頂くのかはお任せしますが」
「ん。受けるつもりか」
「西條シェフがお店にいる間なら、人員的には受けられると思います。むしろ受けた方がいいですし、受けない理由がないですし、そもそも断れません」
畳みかけられた由春は、眉を寄せて「なんだそれ」と言う。
伊久磨はできうる限りの笑みを浮かべて、慎重に告げた。
「岩清水家からの御依頼ですよ。もちろん岩清水シェフご指名です。覚悟決めてくださいね」
第21話「款冬華 (ふきのはなさく)」はこれにて終了です。
章タイトルが決まらず。
「海の星に関わるエトセトラ」でもいいかなと思っていたんですが、最近は1月のカレンダー(2021年)を見ながら一日ずつ書いている状態なので、七十二候でいうとこのへん、という意味で款冬華 (ふきのはなさく)を持って来てみました。
ここから、バレンタイン準備とケータリング対応……店の人員も落ち着かないしと「海の星」はふつうに忙しい日常です。
そんな中、香織との恋愛が暗礁に乗り上げたエレナさんだったり、依然として(もちろん)静香とは遠恋の伊久磨であったり。
まだまだお付き合い頂ければ幸いです。
いつもブクマや評価、感想ありがとうございます!!
もう少しで(あえてもう少しと言おう……)1000Pも見えてきました。
感想件数はなんと200件突破!!ブクマも追いついてほしいな!!(口にしていくスタイル)
最近はTwitterでもたくさん感想を頂いてまして、本当にありがたいです。
また、ほぼ同時掲載のエブリスタの方では、応援してくださった方限定の「スター特典SS」現在は「Bouquet romantique」1作品公開中です。
次回スター特典SS(★が100個たまったら、かな?)を書く際に、なろうでは本編の途中に挟むか、活動報告に転載の形をとる予定です。
【2020.9.30追記】
「Bouquet romantique」はレーティング無しの作品ですが、本編に組み込みにくかったので、ムーンライトノベルズのss集に追加しました。
たくさん支えて頂き感謝です、どうもありがとうございます!!