甘くて濃くてほろ苦い
事務所を覗いたら、シェフ二人が二台のソファで死んだように寝ていた。
息をしているか確認しようかと悩むくらいに見事な死体ぶりだったが、そっとしておくことにした。
キッチンでは、こちらも新規加入のオリオンがひとりで立ち働いている。
甘く香ばしい空気が満ちていて、吸い寄せられるように伊久磨は近づいてみた。
「それ、ディナー用じゃないですよね」
「うん。最近までウィーンにいたって言ったら、セイが作れって」
つやつやとしたチョコレートが上がけされた、見るからに濃厚そうなザッハトルテ。
「そっか。オーストリアってドイツ語でしたっけ」
行き倒れを拾ったときの第一声が「Danke」で、ドイツ人かと思ったが。
「ドイツ語はうまく話せない。出身はイギリスで、祖母が日本人なんだ。おばあちゃんっ子っていうのかな。子どもの頃から日本語も学んでいたから、話せる。読み書きは苦手。わからないことは教えてね」
なめらかに言って、ステンレス台に置いた完成品のザッハトルテを手で示す。
「食べる?」
「良いんですか」
聖より先に食べたら騒ぎそうだなとちらっと頭をかすめたが、すぐにその考えを打ち消した。起こすのは忍びない。ひとまず「食べます」と告げて、エレナに声をかけるためにホールに向かった。
エレナは、客席で食べ終わって空になった器を前に、ぼんやり座っていた。
横顔に、少し疲労が見える気がする。
業務上、必要だと信じて「叱った」後だ。当事者の伊久磨もやや気まずい。今まで、怒られることはあっても、怒る側に回ることはあまりなかった。
(自分の中に確固たるものがないと……。手本になるように)
気配に気づいたエレナが視線を向けてくる。
「さっきの、まだ気にしていますか」
思い切って、自分から切り出した。
言われたエレナは表情をほとんど動かさないまま、小さく頷く。
「わかるような気もするんですけど……。これが私なんです。べつに電話の相手に上から出たつもりもないですし、苦情になるとも思いません。あの電話の何がそんなに問題なんだろうって」
(「納得いかない」か)
自分も、初対面の心愛に頭ごなしに怒られたときは、そうだった。
子連れの母親への対応を注意されたが、「言っていることはわかるけど、自分の対応もそこまで悪くはなかった」と。
多少、他のお客様より冷たくなってしまったかもしれないが、そこまで言わなくてもいいだろう、とも思った。
せめて言い方が違えばそこまで落ち込まないし、心愛に対しての苦手意識も持たないのに、と。
だけど結局、本当に嫌な思いが心の奥底に刻み込まれた分、以降「子連れのお客様」に対しては「絶対にボロを出さないように」その都度ものすごく気を付けるようになった。
相手が嘘もしくは隠し事をしていた? とか、忙しいのに面倒を言われたとか、そういうときに、「こちらも人間だから多少態度にも出る」という甘えが絶対に無いように気を付けるようになった。
心愛の言い分に、一切取り付く島が無かったからこそ、言い訳の余地などないと思い知ったのが大きい。
今となっては、あれは自分に欠けていた視点だったと飲み込んでいる。苦かったけれど。
伊久磨は、エレナに微笑みかけて穏やかに言った。
「俺が思うに、藤崎さん。もっと笑った方がいいです。俺が一番気になったのはそこです。電話の場合、お客様は目の前にいません。だけど、目の前にいるくらいの気持ちで、笑いながら話してみたら良いんじゃないですか。それだけで、相手がほっとするような親しみやすさが出ると思います」
表情が、全然動いてなかった。
もし店内であの顔で接客していたら、由春なら「下がれ」と問答無用で怒る。電話とて、表情が伴えば発声が全然違うのではないだろうか。
「予約内容によっては、打ち合わせが必要なお客様もいます。話を聞く仕事なんです。うまく相手の希望を引き出す為に、話しやすい雰囲気を作るのも大切です。藤崎さんの頭の回転の良さは、間違いなく今後武器になると思います。だけど現状……、相手に無理難題を言われまいと先回りするのに、それが使われているような気がして。そうじゃなくて、まず話を聞いて。その上で『無理だと思う』と判断する前に、俺や岩清水さんに確認して欲しいんです。俺が電話を受けたら希望が通ったけど、藤崎さんには門前払いをされたとか、そういう不均衡はなくしたいですし」
これまでであれば。誰が電話を受けてもそういうことはなかった。
幸尚が電話を受けたとしても「誕生日に特注のケーキを作って欲しい」と言われれば、予約状況を見て出来ると判断し、どういうケーキが希望か細かく打ち合わせしていた。伊久磨が受けても、幸尚ならどの程度までできるか、技量をきちんと把握していた。
エレナはまだその辺は当然わからないだろう。
わからないから、身構えているように見える。イレギュラーなことを言われないように、緊張している。そのままの表情で、話していた。その緊張は相手にも伝わるだろう。
「笑う。の、あんまり得意じゃないかも」
「だめです。笑ってください。笑いながら働くのは、不真面目なことでもなんでもないです。この仕事には必要なことです。笑わない店員を前に、不安な気持ちになるお客様はいますけど、笑っていればお客様も笑ってくださいます。接客は、そこからですよ」
つい、強く言ってしまってから、伊久磨は強張りかけた頬に笑みを浮かべた。
(大丈夫。笑える。俺でも、こうして笑いたいときに笑える。今は)
「蜷川さんは、本当に天職なんじゃないですか。まだ数日しか見てませんけど……。常連さんが、名前で呼んでますよね、蜷川さんのこと。『店員さん』とかその他大勢の、モブじゃないんだなって」
エレナに言われて、伊久磨は思わず笑みを深めた。そういうところ、よく見ているんだなと感心してしまったせいだ。
「藤崎さんも、すぐに皆さんに覚えてもらえると思います。そうはいっても、女性ですからね。気の無い相手に勘違いされるような愛想の良さは不要ですよ。佐々木さんが入ったときも少しあったんですけど、女性相手だと変な冗談を言うお客様もいます。そういうときは俺が代わりますので、遠慮せず」
当然のこととして言ったのに、エレナには目を見開かれてしまう。
「そんな、セクハラのたびにチェンジしていたら、仕事にならないんじゃないですか。私、もう良い年齢だし、ある程度は流しますよ」
新人だが、伊久磨や心愛より年上だ。そういった意味合いの発言とは思われた。
伊久磨は軽く首を傾げて一応考えてみたが、「無いな」と結論づけた。
「もともと俺一人でホール見ていたくらいなので、やってやれないことはないです。それより、女性スタッフに変な絡み方をするお客様を野放しにしておく方が、店の雰囲気を悪くするので。そこは我慢しないでください。これは、岩清水さんも同じ考えです。あ……と、そうだ。オリオンがザッハトルテ作ってるんです。お腹に余裕があったら一緒に食べましょう。ウィーン帰りってことで期待大ですね」
忘れかけていた本題を言って促すと、エレナは皿を重ねてテーブルの上に置いてあったトレーにのせて立ち上がった。
手を伸ばしてトレーを持ちそうになり、おっと、と踏みとどまる。「サービス、染みつきすぎ」とエレナに小さく笑われながら、キッチンに戻った。
すでに、ザッハトルテは皿に三人分切り分けられ、たっぷりと生クリームを添えて用意されていた。
エスプレッソマシンががりがりと豆を削る音を響かせ、蒸気とともにコーヒーを抽出している。
「待ってたよー。食べよー」
のんびりと言うオリオンにつられて、三人で立ったまま食べた。
「チョコ濃い……美味しい……! すごい、今まで食べたことない!」
エレナが惜しみない賞賛を口にしたが、伊久磨も同感だった。
「本当に美味いです。さすが。チョコ得意なんですか?」
「うん。料理も好きだけど、店を持つならレストランやパティスリーよりショコラトリーかなって思ってる」
にこにこと、実に邪気のない顔をして微笑むオリオンを前に、伊久磨は大いに頷いてみせた。
「今から動けば、バレンタイン時期に販売用のチョコを出せそうな気がします。その辺、真剣に検討しましょう」
「ほんと? やってみたい」
オリオンがぱっと顔を輝かせて伊久磨を見上げる。
「これなら俺絶対買いたいです。……チョコか。チョコなら持ち運びも問題ないだろうし」
「どこかに持って行くの?」
「はい。彼女が遠方なので」
聞かれたままに答えたが、妙に視線を感じた。
ザッハトルテを食べていたエレナがフォークを唇に挟んだまま動きを止めている。
「どうしました?」
「あ……、ううん。彼女に、蜷川さんがチョコ買うんだ、って思って」
慌ててフォークを口から離して、エレナが言った。
伊久磨は「ああ……なるほど」と納得しつつ告げた。
「彼女、あまりイベント重視型じゃないんですよね。付き合って一ヶ月記念日とか『何それ』ってタイプ。この店で働いているとそういうカップルたまにいるんですけど。まあいいや。あの調子だとバレンタインも『どうせ会えないから』でスルーしかねないので……。チョコもらえるかなって期待してもらえないくらいなら、もう俺が用意して彼女に渡してバレンタインイベント敢行した方が話が早いかなって」
当日までドキドキした挙句スルーされたら多分ダメージが大きい。
それよりは、「チョコ渡します」って口実で会いに行くなり来てもらう方が良い気がする。
そう伝えると、エレナは、ふわっと微笑んだ。
(笑えるんだよな。そうやって、笑っていればいいのに)
それが必要な仕事なのだから。
もし笑うのが不得意というのならば、自分が先輩として笑わせてあげた方がいいのだろうか。
そう考えた伊久磨に対し、エレナは笑ったままひっそりと呟いた。
「蜷川さんの彼女さん、羨ましいな……」