雪の光
「いえ。そういったアディショナルチャージについては特に設けておりません」
流れるように耳を打った響き。
ランチタイムを終え、正面玄関前を軽く清掃して戻って来たところで、声が聞こえた。
伊久磨は、エントランスのカウンター奥にいるエレナに目を向ける。
電話を左手に持ち、パソコンの入力画面を見ながら、実に淀みなく予約の確認を続けていた。
(……発音が綺麗すぎるんだよな)
さて、どう言おうと思ったところで、ちょうどホールとの境目に立っていた心愛と目が合う。互いに伺い合う空気の中、エレナが電話を終えた。
伊久磨が動くより早く、心愛が頷いてから、エレナの方へ向かった。
「あのね、藤崎さん。いま何を聞かれてアディショナルチャージの説明をしていたの?」
声をかけられたエレナは、ゆっくりと心愛に顔を向ける。表情に乏しい。微妙な空気だ。
「初めてのお客様だったみたいです。価格帯から、個室があるか、あるなら個室料があるか聞かれました。現状、個室がない旨と席料の設定自体ないことをお伝えしました」
口調は丁寧だが、どこか挑むような態度である。
伊久磨にもその緊張感が伝わるくらいだ、心愛も気付いているだろう。
だが、特に怯む様子もなく心愛は淡々と続けた。
「それなら席料って言えばいいだけだよね。わざわざアディショナルチャージって言い直す必要はないと思う。お客様によっては、そういうカタカナを出されると圧迫感があるひともいると思うよ」
(わかる)
あのうつくしい発音で馴染みのない言葉を突然言われたら、相手が内容を聞き取れない恐れもある。客層は様々だ。海外経験豊富でそういった言葉に抵抗のない層もいるだろうが、そうではない相手を想定して話した方がいい。
しかし、エレナは特に話を聞き入れるそぶりもなく、きっぱりと言った。
「それはお客様に寄りそうふりして、お客様を甘く見過ぎなのでは?」
心愛の顔からも表情が消えた。
怒気が押し寄せたせいで、かえって血の気がひいている。
今まで聞いた中で、一番冷たい響きの声がその小さな唇からもれた。
「藤崎さん。本気でそれ言っているなら、この仕事向いていないと思うよ」
怒られているのはわかっているだろうが、エレナも表情を変えない。
平均を下回る身長の心愛を、カウンターの中から見下ろしている。
伊久磨は、身にまとっていたコートを脱いで腕にかけたまま、二人に歩み寄った。
「佐々木さん。代わります」
心愛の横に立ち、エレナの目をまっすぐに見る。
「今の話、藤崎さんには藤崎さんの言い分があるのはわかります。ですが、そういうこだわりは一度手放してください。ここは東京ではありませんし、電話の先にいるお客様は藤崎さんがこれまで話して来た相手とも違います。もちろん、田舎だから東京より劣るとか、扱いを落とせとかそういう話はしていません。ただ、このお店はこういう外観や内装ですし、価格帯も周辺の飲食店より明らかに高いです。日常利用というより、記念日利用の方が多い。『憧れの高級店』というのかな……」
これまで出会ったお客様の顔をざっと思い浮かべてみる。
考え、考えながら伊久磨は続けた。
「この店で働くスタッフとして、店のイメージは大切にしたいと思います。その意味では、プライベートで店の外でも、店の印象を悪くする行動はしないように心がけてもいます。一方で、匙加減が難しい部分ですが、スタッフの態度次第では『気取っている』『お高くとまっている』と思われかねない部分があります。高いお店、有名店のスタッフが『客を選んでいる』と感じるお客様はいると思います。警戒されているんです。そこで、馴れ馴れしくしたり、気安くする必要はないにせよ、親しみやすさのようなものは絶対に念頭に置いておいた方がいいと思います」
(伝わるかな)
強張った表情で見上げてくるエレナを見つめて、ダメ押しのように言ってみる。
「非日常の高級感を楽しみにくるお客様のお手伝いをする……。一方で、特に初めての方は、来るまで、もしかしたら予約電話一本入れるまでもずいぶん葛藤していると思うんです。その時に、『お高くとまった感じ』があると、相談したいことがあってもうまく言えなくなったり、心を開いてくれなくなったりするかもしれません。だから、言葉遣いを崩す必要はないんですけど、ぜひ相手に通じやすい単語選びで、威圧感を与えない話し方をして欲しいんです」
これ以上ないくらい、自分としてはわかりやすく話したつもりだった。
新人が入って来るってこういうことか、としみじみ思った。心得のようなものを真摯に語り掛ける。
自分自身を振り返る瞬間でもある。
エレナはといえば、恐ろしく真面目な顔をしたまま「発言しても良いでしょうか」と堅苦しく尋ねてきた。
「どうぞ」
促した伊久磨に対し、真剣そのものの様子で言う。
「私の話し方には威圧感がありますか」
一度軽く目を瞬いてから、エレナをまじまじと見つめてしまう。
タイミング的には、隣の心愛とほぼ同時に反応した。
「かなり」「自覚した方がいいわよ」
* * *
最近、人員的に余裕があるので、心愛はランチタイムを終えたところでまかないを食べて仕事を上がっている。
お疲れ様です、と裏口から出て行こうとしているところに出くわして、伊久磨は心愛が通りやすいようにドアを手でおさえた。心愛は、だいぶ大きくなってきたお腹を意識しながら「ありがとう」と言って出ていく。
その後ろに続いて、一緒に外に出た。
「佐々木さん、さっきの。ありがとうございました」
雪道を、ブーツで踏みしめる。伊久磨から見ると、子どものように小さな女性。
下を向いて慎重に歩を進めながら「べつに」と心愛は答えた。
「蜷川くんの話の方がわかりやすかったよ。丁寧だよね」
「くどいとも言うかと。佐々木さんはわざと傷つけるようなこと言いますけど、直球だから」
足を止めた心愛が、伊久磨を見上げる。
口元に苦笑いのようなものが浮かんでいた。
「時間ないって、ひとりで焦ってるせいだと思う。わたしが焦ってもどうしようもないし、蜷川くんがいれば、結局全部うまくいくのに」
聞き流そうと思った。
まともに反応したら、照れてうまく話せなくなってしまう。
(まだ。そんな風に言ってもらえるほどじゃない)
「『この仕事に向いていない』って。あれトラウマになると思います。それがわかっているから、俺は言えない。だけど……。本人が『二度と言われたくない』という思いで仕事に取り組んでいるうちに『わかる』瞬間が来るんじゃないかなって。その方が、もしかしたら何倍もあの人の力を引き出せるのかもしれない。賛成はしないけど、それを言えてしまう佐々木さんのことも凄いと思います」
確実に傷つく一言。
おそらく、エレナは勘の良いタイプだから、話せばわかる。少し遠回りすることになってもきちんと店のスタッフとして成長すると伊久磨は信じている。だから自分は「話す」ことを続けていくと思う。
だが、もしより深い部分での真剣勝負を考えたら、心愛のような方法もありなのかもしれない。
受け入れてはいないが、心愛なりに仕事に向き合っていること、その姿勢は理解している。
心愛は、ふわっと穏やかに笑った。
「昨日みんなで飲んだって聞いたけど。今日、帰りまで引きずっているみたいだったら、また誘ってあげて。ごめんね、わたしはフォローには回れないから、周りに頼ることになっちゃって」
本当は。
きついことを言って傷つけた後は、飲みに誘ってフォローしたり。心愛自身がそうしたいのかもしれない。
(恨まれるだけはきつい。落ち着いて話せるときに、自分の思いを伝えたり、相手の話を聞いたりしたいんだろうな……)
「佐々木さんとは、知り合ったときから、お酒を一緒に飲むということがなくて……。飲むんですか?」
「うん。お酒、嫌いじゃないよ」
べつに、飲むのだけがコミュニケーションとは思っていないけど。
職場を離れたところで、同僚として話す機会があればもっとお互いを知れたのかもしれない。
「出産して、まだしばらくは飲めないかもしれませんけど。五年後とか十年後とか。岩清水さんと、みんなで打ち上げしたり忘年会したり……。飲みましょうね」
十年は気が長いね、と心愛は声をたてて笑った。
そのまま、ひらっと手を振って先を歩いていく。
まだ明るく、雪がきらきらと眩く光を弾けさせている中を、心愛はゆっくりと帰って行った。
もっと、話してみたいな、と思った。
一緒に働いているけど、タイミングのずれで仲良くなる機会を逸した。同僚なので、友だちになる必要はないけれど。
長く働くなら、そのうち幸尚くらいには……。
(だめだ。俺、まだ幸尚ロスだなこれ)
気持ちを切り替えよう、と踵を返してドアに向かいながら、ふと思う。
忘年会はしたけど、新年会はしていない。どうにか、フルメンバーで話す機会は作れないだろうか。
心愛と。
聖が抜ける前に。
いつか容赦なくその「別れ」がくるとしても、今はまだ仲間なのだから。