恋の予感は
「そっか。それはちょっとびっくりするかも」
渦中の人物が上司なので、ほどほどに遠慮して言ったのに、聖に即座に言い直された。
「馬鹿なんだよ。本物の」
ざわめき。テーブルごとにペンダントライトが吊り下げられた店内。薄暗く、ほどよく混んだ洋風居酒屋。
話しながら、伊久磨はボトルでオーダーしたシャンパンを由春とエレナに注ぎ終え、席に着く。
まだまだ全然話し足りない雰囲気の聖も、とりあえずドイツビールを注いだピルスナーグラスに手をかけた。
伊久磨から「オーナー」と声をかけられた由春がシャンパングラスを持ち上げる。
「おう。お疲れ様。今日は藤崎さんとオリオンの新規加入を歓迎して飲むぞ」
軽くグラスを掲げて、乾杯するでもなくグラスに口を付ける。
由春の横、間隔を開けて座った藤崎エレナも「よろしくお願いします」と言ってグラスを傾けた。
向かい合う形で、聖、伊久磨、オリオンと並んで座り、それぞれ一口飲んでからグラスをテーブルに置いた。聖は、一口で飲み干している。
「俺はほんと心配だよ。由春このままじゃずっとひとりだぜ」
酒が入って口がいよいよ滑らかになった聖が、中断していた話を再開した。
前日、シェフ二人で午前一時まで「海の星」で試作を繰り返し、その足で近所のバーに向かったとのこと。
飲み始めたところで、声をかけてきたのは若い女性二人組。かねてより、由春に彼女がいないことを気にしていた聖が乗る形で、会話を繋げようとしたのだが。
――だから、海老は完全に火を通すと固くなるから、七、八分目で火をとめて、余熱で仕上げた方がいい。
一対一の状況を作って聖が自分の隣に座った相手と楽しく話していたら、横で由春が変な話をしていたと。
へ~、すご~い、と言っている相手の顔が完全にドン引き。
馬鹿……。
以外の言葉が見つからず、興ざめして解散してきた、というのが今朝の騒ぎの発端。
なお、聖はその後椿邸に帰って就寝したところで、香織に髪を切り落とされている。そこから騒いで眠れなくなり、朝ご飯作って食べて出社したとのことだった。
いつ寝ているのかよくわからないが、珍しく早目に仕事が終わった今日も今日とて、「近所の居酒屋で軽く飲む」というイベントには当然のようについてきた。頑健過ぎる。
「ったく。由春の頭の切り替えスイッチはどこにあるんだよ」
瓶で出て来たドイツビールをグラスに手酌で注ぎながら、聖が自分の向かいに座った由春にちらりと視線を向ける。
「切り替える必要があるのか?」
グラスを傾けていた由春がしらっと言い返した。
「どう思う。最近『指輪』をしている蜷川としては」
すかさず、聖は左隣に座った伊久磨に水を向ける。
巻き込まれているのを感じながら、伊久磨は慎重に答えた。
「切り替えないと付き合えない相手とは長く付き合えないかなと思います。いつかそのままの岩清水さんを愛してくれるひとが現れますよ」
可能な限りの早口で意見を述べ、向かい側に座るエレナを見る。スマホを取り出して猛烈な速さで文字を打ち込んでいるのが気になったせいだ。
「……藤崎さん?」
「ごめんなさい。いまの海老の。メモしておかないと」
下を向きながら言って、入力を終えてから顔を上げる。
しん。
静まり返った中、伊久磨と聖の視線を受けて、エレナは「あら?」と目で聞いてきた。
「メモするんですか」
「料理のコツだから。こう、今から蓄積しておかないと。調理師学校って、料理が好きである程度できるひとが来るような場所でしょ。私も入学までにできることはやらないと」
ああ~、なるほど~との思いから伊久磨はさかんに頷いてみせた。由春はシャンパンを飲み続けている。
二人を同時に視界におさめて、隣の聖に肩をぶつけるように寄せて囁いた。
「ありかも」
あの二人の組み合わせ、と。
「俺は前からそう言っている」
その割に、バーで行きずりの相手とのマッチングを試みたらしい聖だが、悪びれなく答えた。
オリオンはガス入りのミネラルウォーターをのんびり飲んでいる。
「藤崎さん、最近香織とはどうなんですか」
本来なら、会社の飲み会で個人的な男女交際の話というのも気が引けるものはあるのだが。
すべての始まりであり、「海の星」にスカウトするきっかけになったこと。若干責任も感じている伊久磨が、思い切ってストレートに尋ねた。
一度、きょとんと眼を見開いたエレナであったが、次の瞬間には非の打ちどころのない完璧な笑みを浮かべて口を開いた。
「香織さんに『私のこと、好きになれそうですか』って昨日顔を合わせたときに聞いたの」
(お。結構頑張ってる)
生活時間が全然違うので、同じ家に暮らしていても遭遇することすら難しいはずなのに、その少ないチャンスをものにすべく、行動はしているらしい。
感心した伊久磨に対し、エレナはキラキラと眩しいほどの愛想笑いで続けた。
「『藤崎さんだったら、俺の周りは納得するだろうなとは思っています』だって。すっごい笑顔だった」
ぐつぐつと音を立てるマッシュルームと海老のアヒージョがテーブルに届く。
ぐつぐつ。
誰も何も言わないせいで、いやにその音が耳についた。
「そ、そういえば。オリオン、本当にうちの店で働くってことでいいんですか? オーナーに押し切られただけじゃなくて?」
遅れて、サラミのピザが到着し、嬉しそうに手を伸ばしたオリオンは、伊久磨の問いかけに「はい」と笑顔で答えた。
優しい眉や目元、気弱な表情とあいまって頼りない印象のオリオンであるが、冷え切った身体を温めた後、営業中はごく普通にキッチンに入っていた。
たまたま客数が少ない日で、なおかつ心愛も含めてフルメンバーだったせいで「活躍」のほどはわからなかったが、由春の話によれば一緒のレストランで働いていた時期があるとのこと。一ヶ月くらい前に連絡があったから、来るつもりなのかなと思っていたとか、なんとか。
実際に、本人も、由春を追いかけて日本まで来たと言っている。
「外国人の就労ビザとかよくわからないんですけど……。その辺は社労士の星名先生に相談ですかね」
伊久磨が由春に目を向けると「そうだなー」というのんびりとした返事。店が忙しいこともあり、細かな件は大体お願いしている社労士。今回も良いように取り計らってもらうつもりなのだろう。
心愛の産前産後の件も含めて、会社全体で何かあると事案をぶん投げている相手でもある。
「住むところはどうなんでしょう。オリオン、まだ決めてないんですよね?」
由春に会えばなんとかなるとの一心で海外から来て、その足で「海の星」の前で行き倒れていたのだ。計画性があるようには思えない。
それでほいほい閉店まで働いて、居酒屋まで来て、ここからどうするつもりなんだ? とは思ったが。
料理以外は大雑把な由春に続き、さらに滅茶苦茶な聖に出会って料理人の実態をなんとなく悟った今となっては、オリオンも「いざとなったらレストランの床で寝ます」くらいのことを言うんだろうな、と予想はついていた。
「何も決めてないんですよねー」
やはり、のほほんと言っている。危機感らしきものは感じない。
ほら、と思ったところで、由春が口を挟んだ。
「さすがに椿邸をこれ以上うちの社員寮扱いするわけにもいかないからな。とりあえず俺の家で。まあその……、俺の母親が、だな」
妙に居心地悪そうに視線をさまよわせたのを見て、伊久磨がすかさず「カーチャンが?」と言い直したが、黙殺された。「シェフ、実家?」とエレナが小声で言い、「そうそう」と聖が応じる。
「なんというか……、俺の友達が大好きなので。いろいろとうざったいとは思うんだが」
声を低めて言いづらそうに言っているのだが、特に聞き落とすことなく伊久磨は頷いた。
「あのお母さまならそうでしょうね。しかもその友達が海外から息子を追いかけてきて、職場も同じとなったら、もう今度こそ絶対に『海の星』に来るって言いますよね? むしろ今まで来ないで我慢できているのが不思議なくらいで」
岩清水母。「オリオンくん、私のことは日本の母だと思ってね!」とか、「息子が二人も働いているお店に行かないなんて~。お父さんとディナーで行きたーい」とか。
目 に 浮 か ぶ。幻聴までばっちりだ。
「いや、何の為に休日家で俺が料理作ってるかって。それを阻止する為だからな。絶対いやだ」
苦々しく言っている由春を隣で伺いながら、エレナが感動したように呟く。
「シェフ、休日家で料理してくれるんですか? すごい……息子に欲しい」
ちょっと何かいまずれた? と思った伊久磨であったが、聖が素晴らしい反射神経で「そいつを息子にしたければそいつの父親と結婚するしかないぞ」と言った。
(そうなるのか)
回転の速さに、謎の感動を覚えてしまう。しかも聖は重ねて言った。
「旦那は? 旦那としてどうよ、由春」
ん? と由春が眼鏡の奥から聖に視線を投げる。
一方のエレナは「んん~~」と苦笑いを浮かべて言った。
「旦那としては別にいいかな。マザコンはきっつい」
見抜いている。
いまの会話で完全に見抜いている。
(藤崎さんも頭の回転速いよな)
感心しつつ、伊久磨は一応言い添えた。
「マザコンだけじゃなくて、シスコンもあります。あと、このあと多分甥か姪への溺愛もきますね。三重苦ですよ」
エレナはわざとらしいまでに顔を強張らせ、深刻な様子で伊久磨に目を向けた。
「ごめんなさい、フォロー、全然思いつかない……」
真に迫った一言。
苦笑いを浮かべたまま無言になった聖と、会話のテンポについていけずにぼやっとしているオリオン。
伊久磨はといえば(あ~、藤崎さんそういう感じか……)と納得して、無闇に頷いてしまう。
言われ放題の由春は、納得いかない様子でひとりで呟いていた。
「なんか俺いま言われっぱなしの上に、フラれたみたいな空気になっているけど、なんだこれ……?」
その問いかけに、答える者はいなかった。