行き倒れを拾ってしまった。
人間が落ちてる。
どう見ても落ちている。
(人間じゃない、というオチはどうかな)
現実に「オチ」がついてくれれば楽なのだが。
それこそ、その状況に直面したひとの「マネキンだと思った」という証言、気持ちはよくわかる。マネキンであって欲しい。何しろ人間は普通道端に落ちていない。落ちていてはいけない。
道端ならまだしも……。
蜷川伊久磨は瞑目して、ごめんなさい、と胸の中で謝罪した。
すぐに雪を踏みしめて、歩み寄る。
「大丈夫ですか!」
声をかけながら、その人の横にしゃがみこんだ。
レストラン「海の星」のオープン前の扉に、すがるように身を寄せて、人間が一人座り込んでいた。
冬用としてはやや頼りなさそうなカーキのトレンチコート。ふわふわの赤毛。
死体だったら下手に動かしたらまずいと思いつつ、手を差し伸べて軽く肩を揺する。
「生きてますか」
ん……と呻き声が聞こえた。伊久磨はぴたりと動きを止める。耳を澄ます。
緑色の光が差し込んだように見えた。うっすらと目を見開いている。
「Danke……」
耳を掠った響き。伊久磨は次の言葉をかけそびれる。
最近、職場内に各国の言語が飛び交っているので、英語以外にも対応できそうな気がしたが、咄嗟に何も出てこなかったのだ。聞いているからといって、身についているわけではない。
(西條シェフか、うちのシェフがいれば……)
ダメ元で英語で声をかけてみる。
「Could you stand up?」
うん、と頷いたように見えた。
足がふらついていて、実に心許無い様子ながらも、その人は立ち上がる。
ずり落ちかけた丸いフレームの眼鏡に、気弱そうに下がった眉。恥ずかしそうにふにゃっと笑った口元。
瞳の光は意外なまでに強い。すっと鼻筋が通った、欧米系の彫りの深い顔立ち。
これは西條シェフ案件、と思ったところで相手が口を開く。
「日本語で大丈夫です」
(きた。またこのパターンだ)
学習しろ、俺。落ち込みながら伊久磨は「わかりました」と答えた。
「お店、まだオープンしてないんです。何か御用でしたか」
「ハル……」
「シェフのお知り合いですか?」
シェフ、という言葉の響きに反応したように、赤毛の青年はにこりと微笑んで頷いた。
* * *
「だからさ、こいつ本当に馬鹿。もう、馬鹿。この馬鹿がシェフでこの店は大丈夫なのか! あ、佐々木さん、それ温度気をつけてね!」
裏口からキッチンに入ったら、もううるさかった。
毎日うるさいし、大体いつでもうるさいのだが、朝からうるさいのはまた格別だと思う。
騒いでいるのは、黒髪に青い瞳の美形シェフ。
ちらっと目をやってから、おはようございますの言葉を飲み込んで、二度見した。
視線に気づいた西條聖が、振り返る。
「おはよう蜷川」
「おはようございます。髪切ったんですか?」
普段、結んでいた部分がすっぱりなくなっている。前髪を切った程度の地味な変化には一切気付かない伊久磨だが、さすがに視覚的に大きな変化だったために指摘してしまった。
途端、くわっと聖が口を大きく開いた。
「切り落とされたんだよ!! 寝起きに!!」
「へえ。西條シェフでも、寝起きはさすがに隙があるんですか」
人間らしいところあるんだなと、素直に感心してみせたのだが、明らかに機嫌を損ねた。
「おかしいだろその反応! 誰にですかとか、大丈夫ですかとか、他に! 言うことはないのか!」
大きく手を広げて、詰め寄ってくる。
肺活量すげえな、と暴風めいた騒ぎをやり過ごし、伊久磨はできるだけ穏やかに聞いてみる。
「髪そのものには痛覚はないと思うので、切られても大丈夫かなと。すみません、心配どころがよくわからないんですが……。ああ、寝起きに刃物持ったひとが側にいる状況か。それはやばいですね」
伊久磨の目の前にたどり着いた聖は、噛みつきそうな勢いで言った。
「椿にやられたんだ! あいつ髪黒くして切ったんだけど、『お揃いにしよ』とか言いながら、午前三時にベッドに入ってきて髪切っていったんだぜ!?」
状況を絵として想像しないようにしつつ、伊久磨はひとまず頷く。
「香織、朝早いですからね。その時間は香織にとって朝だから」
「蜷川お前わざとか!? 遠まわしに椿の肩持ってるだろ!!」
ついに胸倉に掴みかかられてしまう。
身長差のせいで、あくまで身長差のせいで上から見下ろしながら、伊久磨は真摯な態度を心がけて言った。
「特に誰の肩も持ってません。同居、うまくいっているようで何よりです。香織の髪の件は初耳ですが」
伊久磨が知り合ってから香織はずっと、綺麗に染めた茶髪に長髪だった。それ以外の姿は、うまく想像ができない。どんな心境の変化なのだろう。
思いっきり見下ろされていることに気付いた聖は、歯噛みする勢いで悔しそうに顔を歪め、ぱっと手を離した。
「なんでいまの話で同居うまくいってるって結論になるんだよ……! おかしいだろ……!」
乱れた胸元を手で整えながら、伊久磨は後ろにいるはずの青年を振り返る。
赤毛の青年は、涙目になりながらカタカタと震えていた。
「え……?」
どうしました、と聞こうとした。
青年は口元に、震える両手の握りこぶしをあてて、何か呟いている。聞き取れない。
「西條シェフ。今のなんて言ってました?」
尋ねると、ふっと聖は目を細めて口の端を吊り上げて笑った。
その瞬間、青年はびたん、と背後のドアにぶつかった。逃げようとしたが、逃げる動作に移れなかったように見えた。
(ああ……、蛇に睨まれた蛙)
聖は、しゃべらないでいれば、見た目は天使寄り(※但し神の戦士的な意味)で、笑顔など人目を惹きつけるほどに十分魅力的なのではあるが。
良くも悪くもそんな自分の見た目を熟知しており、表情の使い分けは実に狡猾でもある。
この時は、怯える相手に対し、さらに脅す目的らしき凶悪な笑みを浮かべていた。
「岩清水さーん。朝から馬鹿馬鹿言われていてお気の毒だとは思っているんですけど、ひとまず助けてくださーい。たぶん岩清水さんの知り合いです」
伊久磨はキッチンの向こう側にいる岩清水由春に、ついに助けを願い出てみた。
「お前、その、馬鹿馬鹿のくだりは余計だろ。余計なひと手間が素材を殺すんだぞ」
朝からげんなりした様子の由春が、妙に疲れた様子で歩いて来た。
ランチのデザートの仕込みをしていた佐々木心愛は、少し離れた位置で「もうどうでもいい」と言いたげな薄ら笑いを浮かべている。
「ハル……」
ぐずっと鼻を鳴らして、赤毛の青年が呟いた。
伊久磨や聖の影になっていたせいで見えていなかったらしい由春が、初めて彼の存在に気付く。
「ん。オリオン?」
「ハルうううううう」
叫んで、青年は由春めがけて飛び出していく。
それを、聖が許さなかった。目の前に来た瞬間に、がつっとコートの襟を掴んだ。まるで猫の首根っこを摘まみ上げるように。
ひえっと声にならない悲鳴が上がった。
「西條シェフ、そういういじめはやめてください。明らかに怯えてます」
本当に人が悪いな、と言いながら伊久磨が非難すると、聖は手を離した。
解放されたはずなのに、恐怖心のせいか青年は凝固したまま。
「店の前で行き倒れかけていましたけど。どうすればいいですか。事務所で少し休ん……」
ずかずかと歩いてきた由春が、青年の両肩に両手を置いた。
あうっと痛そうな声が上がっていたが、完全無視して、にこりと微笑んで言った。
「ありがとう。働きに来たのか?」
またそれか。
伊久磨は痛む胸に手をあて、いい加減にしろよ、と声に出さずに毒づいた。