父が消えた日
鏡の中から、父が消えた。
毎日当たり前のように目にしてきた父は、もうどこにもいない。
「雰囲気変わりますねー。全然印象が違う男前」
担当の男性美容師に言われて、笑いながら上の空で会話する。彼が離れたところで、一人で改めて鏡を見てみた。
見覚えのない黒髪の男が、これで良かったんだろうか、と見返してきていた。
誰もその答えを持っていない。
家に帰るとき、ひとに会いたくなくて店には寄らなかった。
静まり返った、古くて大きな椿の家。引き戸の鍵は閉まっている。
(もういない……?)
客人である紘一郎は、二、三日中に札幌に帰ると言っていた。もちろん、引き留めたりはしない。
西條聖には、「好かれたいんだろ」と言われたが、よくよく考えてみてもわからなかった。
側にいると落ち着く。同時に、少し怖い。
心の奥底を見透かされる。あの茶色く澄んだ透明な瞳。
普段、言動に鋭さを垣間見せることはないが、察しが良すぎるのだ。もしかしたら、聖以上に。
自分自身にも、いつもより隙があった。
(静香とのこと。母親のこと。死んだ父親。気がかりを、全部引きずり出された)
この土地に住み続ける限り、仕方がないと、諦めていた。
どこにも行けないのだ。仕事があり、家があるこの場から、死ぬまで離れられない。
壊してしまえばいいのに。
(それを言えるあのひとは、何者にも縛られない存在なんだ)
西條は嘘をついていた。
振り回すのには飽きた、と。あれは嘘だ。
台所に寄って手を洗い、居間に向かう。
期待していなかったのに、姿を見たらほっとした。
炬燵の天板の上に、書き散らかした図面がたくさん広がっている。本人は、座ったままうとうとと居眠りしているようだった。
無防備なひとだ。本当に寝ているのだろうか。
少しだけ悪戯心が湧いた。炬燵の同じ辺、触れ合うほどにすぐそばに腰を下ろして、布団に潜り込む。
横顔を窺ってみた。
浅く日に焼けた肌。近くで見ると年齢相応の細かな皺がある。それは、彼の男くさい容貌を何ほども損なうものではない。微かに寝息が聞こえる。
(寝てる……)
炬燵は眠くなりますよね、と声に出さずに話しかける。起こすのは忍びないが、寝るなら横になればいいのにと思いながら背に腕を回す。横から体重をかけてゆっくりと上体を後ろに倒し、回した腕はそのまま腕枕にして隣に寝てみた。
起きない。
香織も、目を閉ざす。
ファンヒーターの音だけが聞こえていた。
すぐに眠りに引きずり込まれた。
* * *
目を覚ます。
部屋に差し込む光の感じは、変わっていない。ほとんど時間は過ぎていないようだ。ものの数分かもしれない。
横を向くと、目が合った。腕枕はしたままだった。
「誰かと思った。別人」
紘一郎の反応が妙にくすぐったくって、香織は破顔した。
「この家に勝手に住みついた泥棒です。はじめまして」
言いながら身体を起こす。紘一郎の上に身を乗り出して、お伺いを立てる。
「キスしてみていいですか」
長めに残した前髪の毛先が、日に焼けた頬をかすめた。
「それは、好きなひととだけ」
無感動な様子で言い返される。露程も動揺を見せない茶色の瞳。
見つめていられずに目を閉じた。その瞬間。
ぐいっと後頭部を大きな掌で掴まれて、引き寄せられる。
唇と唇が重なり合っていた。
焦って目を見開いたら、呆気ないほどすぐに手を離して解放される。
(先生……)
触れた唇の感触が、はっきり残っている。腕枕をしているせいで、身動きが取れないまま呆然と見返した。
「子ども何人欲しいんだっけ?」
澄んだ目に真下から見つめられて、問われる。
いつも、家族構成で迷って、気に入った図面があっても決められないのだ。先のことはわからない。
香織は苦笑いを漏らした。
「俺、産めない」
「僕も」
しばらく、二人とも口をきかなかった。
やがて、香織は腕枕にした腕を引き抜かないまま、紘一郎の隣に仰向けに寝転がった。
産まれたときから見ていたであろう、代わり映えのしない天井を見上げる。
「そうやって、西條にも諦めさせたんですか」
聖は嘘をついていた。振り回すのには飽きた、と。
本当のところは、「振り回されてくれないこと」に、「絶望した」のではないだろうか。
「僕が聖を引き取ったのは、彼が小さな子どもの頃です。聖がどうにかして僕の気をひこうとしても、養育者として、ダメなものはダメです。愛情は注ぎましたが、応えられない関係には応えません」
同性とて見惚れずにはいられない、綺麗な見た目に、触れるのを躊躇するほど純度の高い精神の持ち主である聖は。
痛々しいまでの飾らなさで、この人にどれだけの愛を乞うたのか。
「……『死んだ妻』は」
どんな思いで、二人を見ていたのか。
紘一郎の声は穏やかだった。
「僕の目から見て、聖は常緑さんをとても大切にしているように見えました。愛し合っていたと思います。病気さえなければ、二人は今も幸せに暮らしていたでしょう。子どもも授かっていたかもしれません」
実際は、引き裂かれてしまったのだ。死によって。だから西條聖は、結局のところ、ひとりだ。
(嫌だ。誰も悪くなくても、幸せになれないひとがいる)
――ただ一番の幸いに至る為に
――いろいろのかなしみも、みんなおぼしめしです。
傷口から血が噴き出しても、その言葉を噛みしめてやり過ごさないといけないのか。
いつか辿り着くいちばんの幸いなんていらないから、毎日に少しずつ幸せが欲しい。
「穂高先生。俺がちょろいのわかってたでしょう。優しくされたらすぐにも落ちるし、痛めつけられれば従順になる。いつも自分を傷つけてくれるひとを探しているんだ。殺してくれるならなお良い」
死にたいんだ。もうずっと以前から。何度も誤魔化して目を逸らしてきたけど、気付いていた。
死にたいんだ。
静香を傷つけ、母らしき女性を傷つけるような過ちを、繰り返す日々の中で何度も犯す。そんな自分は死んでしまえばいい。
「たしかに君は、怯えているくせに逃げない。罰されるのを待っているみたいだ」
囁きながら身を起こした紘一郎が、覆いかぶさるように上から見下ろしてくる。
「ころしてください……。死にたい。生きていたくない。何もない。俺が生きている意味が、どこにもない。どんなに頑張ってもだめなんです。みんな置いていく。誰にも必要とされない」
伊久磨だって。真冬に雪に埋もれて、声を上げることもできずに死にかけていたのに。
今はもう自分の足で立っている。自分の人生を生きている。
誰かの束の間の宿り木にはなれるかもしれない。だけど、それ以上にはなれない。
こんなにも、いらない人間。椿香織は。
「ずっと一人なんです。この先ずっと。誰も愛せない。愛されることもない」
吸い込まれるように澄んだ瞳を見つめて、震える声で訴える。
目が熱い。涙が溢れてきた。
「みんなの幸せのために……何回も灼かれる……、蠍になんかなれない。一回だって怖い。いっそ、その一回で死にたい。西條の『常緑さん』に、この命をあげられるものなら全部あげたい。俺はもう」
消えてしまいたい。
両手で両目をおさえる。指の間から涙は流れ落ちる。
乾いた大きな掌が、手の上に被せられた。
「蠍は僕です。香織くんが幸せになるまで、何度灼かれてもいい」
彼の掌から自分の手を逃がして、上から掴んで、顔から引き剥がす。睨みつける。
「嘘だ。そんなの嘘だ。俺の為に自分の幸せを諦めるひとなんかいない。みんな自分が大切なんだ」
紘一郎の表情は凪いでいた。
「香織くんも、自分を大切にすればいいだけだ。それに、君はひとの幸せを願いこそすれ、諦めさせたいなんて思っていない。むしろ、みんな幸せになって欲しいクチだ。間違いない」
「全員の幸せは同時には成立しない。俺が静香を好きでも、静香が伊久磨を好きならそれまでです。『みんな幸せ』なんてあり得ない」
丸め込まれてなるものかと言い返したら、にこにこと笑われてしまった。
「静香さんのことはべつに好きじゃないでしょう」
「……っ。それは」
また心を見透かすつもりかと、言葉に詰まったところで。
「今はもう、僕のことを好きになってる。『好き』なんてそんなものです」
香織は思わず目を閉ざす。目の縁に溜まっていた涙が頬を流れていくのに構わず、呻いた。
「悪い男だ……」
「ありがとう。気付くのが遅いね」
指先で前髪を梳かれ、零れた涙を拭い取られる。
「いつもだいたい、旅の空。どこにいるかもわからない。いつ死ぬかもしれない。そういう悪い男だから、誰かのものにはなれない。君みたいに愛情の深いひとは、きちんと応えてくれるひとを見つけなさい」
「黙りませんか。失恋前提で惚れさせないでください。俺をなんだと思っているんですか。人でなし」
優しく動き回る手を、目を瞑ったまま捕まえる。
「何と言われると……。藤崎さんとうまくいってくれたらいいなぁ、と思っていますが」
ひどいことを言う。
ごろんと寝返りを打って、背を向ける。手は捕まえたまま。ほとんど繋いだ状態で。
「ふざけんなよ」
そうやって、聖も諦めさせたのかよ、と。今一度胸の裡で喚いてみる。
そんなの、「常緑さん」にしろ「藤崎さん」にしろ、迷惑すぎる。
ぎゅうぎゅうと手を握りしめて、いっそ握り潰したいくらいの気持ちで悪態をついた。
されるがままになりながら、悪い男はそっけなく言った。
「自分の心がなんだかよくわからない状態って、感度が鈍いんですよ。一度、洗いざらい引きずり出されて、ボロボロに失恋でもして心を穴だらけにしておいた方が、次の恋は早いですよ。年長者として保証します」
「おい、ふざけんなよ。マジで」
ドSかよ。
紘一郎は、くすりと笑い声をたてて、実に楽しそうに言った。
「僕との関係性は、僕が強制的に作り出した疑似的なものですけど、香織くん、恋をしているように見えました。人を愛せないとか、愛されないとか、そういう妄想は捨ててください。君はきちんとひとを好きになれるひとです。この先、これはと思う相手がいたら、逃がさないで」
(疑似的なもの……ってなんだよ。ていうか、これが嘘でも本当でも、失恋したばっかだよ。痛ぇよ)
保護者面した年上の男に、恋の手ほどきをされるなんて。信じられない。
踏ん切りがつかなかった髪型まで、すっかり変えてしまった。
――蠍は僕です。
悪い男だ。
その悪い男の手を握りしめたまま、背を向けて、長いこと顔を見ることができなかった。
胸の痛みを紛らわせるために、とりあえず怒りを持続させようと決意し、ここ数日のことを思い出す。
湧き上がってきたのは、ただただ甘く優しい記憶。
これはいけない。
(忘れよう)
即座に追い払う。だけど、なかなか手を離せない。離せないまま、ごろごろと転がる。悔しがっている体で。ふざけんなよと悪態をつきながら。
背後で紘一郎がどんな顔をして背を見つめていたか。
もちろん、背中に目のない香織には見えていない。知ることは無い。
この先も、ずっと。
番外編的位置づけ「Nirgends」(ニルゲンツ:どこにもない場所、という意味で使っています)はこれにて終了です。
香織が出て来ると。
読者の皆様が「え……」と静まり返る気配を感じます。ごめんなさい!!
特に今回はすっきりしないといいますか、この段階ではまだまだ「大丈夫なの??」という不穏さを残したままですが。
本編で色々拾っていけたら良いなと思っています。
そしてそして、最近「エブリスタ」という投稿サイトも併用していますが、こちら「スター特典」というのがありまして。作品に評価を送ってくれた方限定で見られるSSを公開する仕組みがあるみたいです。
おそらく、近日中に特典分の★がたまるので、何かしらのSS(たぶん、伊久磨と静香の電話内容とかそういう内容です)をそちらで公開予定ですが……
「小説家になろう」派の皆さまにも不義理にならないよう、少し時間を置いてから活動報告などに転載するつもりです。何卒。
以上
いつもブクマや評価・感想本当にありがとうございます!!喜んでいます!!まだまだたくさん書けそうです!!