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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
【Nirgends】
133/405

父が消えた日

 鏡の中から、父が消えた。


 毎日当たり前のように目にしてきた父は、もうどこにもいない。

「雰囲気変わりますねー。全然印象が違う男前」

 担当の男性美容師に言われて、笑いながら上の空で会話する。彼が離れたところで、一人で改めて鏡を見てみた。


 見覚えのない黒髪の男が、これで良かったんだろうか、と見返してきていた。

 誰もその答えを持っていない。


 家に帰るとき、ひとに会いたくなくて店には寄らなかった。

 静まり返った、古くて大きな椿の家。引き戸の鍵は閉まっている。

(もういない……?)

 客人である紘一郎は、二、三日中に札幌に帰ると言っていた。もちろん、引き留めたりはしない。


 西條聖には、「好かれたいんだろ」と言われたが、よくよく考えてみてもわからなかった。

 側にいると落ち着く。同時に、少し怖い。

 心の奥底を見透かされる。あの茶色く澄んだ透明な瞳。

 普段、言動に鋭さを垣間見せることはないが、察しが良すぎるのだ。もしかしたら、聖以上に。

 自分自身にも、いつもより隙があった。

(静香とのこと。母親のこと。死んだ父親。気がかりを、全部引きずり出された)

 この土地に住み続ける限り、仕方がないと、諦めていた。

 どこにも行けないのだ。仕事があり、家があるこの場から、死ぬまで離れられない。

 

 壊してしまえばいいのに。


(それを言えるあのひとは、何者にも縛られない存在なんだ)

 西條は嘘をついていた。

 振り回すのには飽きた、と。あれは嘘だ。



 台所に寄って手を洗い、居間に向かう。

 期待していなかったのに、姿を見たらほっとした。

 炬燵の天板の上に、書き散らかした図面がたくさん広がっている。本人は、座ったままうとうとと居眠りしているようだった。


 無防備なひとだ。本当に寝ているのだろうか。

 少しだけ悪戯心が湧いた。炬燵の同じ辺、触れ合うほどにすぐそばに腰を下ろして、布団に潜り込む。

 横顔を窺ってみた。

 浅く日に焼けた肌。近くで見ると年齢相応の細かな皺がある。それは、彼の男くさい容貌を何ほども損なうものではない。微かに寝息が聞こえる。

(寝てる……)

 

 炬燵は眠くなりますよね、と声に出さずに話しかける。起こすのは忍びないが、寝るなら横になればいいのにと思いながら背に腕を回す。横から体重をかけてゆっくりと上体を後ろに倒し、回した腕はそのまま腕枕にして隣に寝てみた。

 起きない。

 香織も、目を閉ざす。

 ファンヒーターの音だけが聞こえていた。

 すぐに眠りに引きずり込まれた。


 * * *


 目を覚ます。

 部屋に差し込む光の感じは、変わっていない。ほとんど時間は過ぎていないようだ。ものの数分かもしれない。

 横を向くと、目が合った。腕枕はしたままだった。


「誰かと思った。別人」

 紘一郎の反応が妙にくすぐったくって、香織は破顔した。

「この家に勝手に住みついた泥棒です。はじめまして」

 言いながら身体を起こす。紘一郎の上に身を乗り出して、お伺いを立てる。


「キスしてみていいですか」

 長めに残した前髪の毛先が、日に焼けた頬をかすめた。

「それは、好きなひととだけ」

 無感動な様子で言い返される。露程も動揺を見せない茶色の瞳。

 見つめていられずに目を閉じた。その瞬間。


 ぐいっと後頭部を大きな掌で掴まれて、引き寄せられる。

 唇と唇が重なり合っていた。

 焦って目を見開いたら、呆気ないほどすぐに手を離して解放される。


(先生……)

 触れた唇の感触が、はっきり残っている。腕枕をしているせいで、身動きが取れないまま呆然と見返した。


「子ども何人欲しいんだっけ?」

 澄んだ目に真下から見つめられて、問われる。

 いつも、家族構成で迷って、気に入った図面があっても決められないのだ。先のことはわからない。

 香織は苦笑いを漏らした。

「俺、産めない」

「僕も」

 しばらく、二人とも口をきかなかった。

 やがて、香織は腕枕にした腕を引き抜かないまま、紘一郎の隣に仰向けに寝転がった。

 産まれたときから見ていたであろう、代わり映えのしない天井を見上げる。


「そうやって、西條にも諦めさせたんですか」

 聖は嘘をついていた。振り回すのには飽きた、と。

 本当のところは、「振り回されてくれないこと」に、「絶望した」のではないだろうか。


「僕が聖を引き取ったのは、彼が小さな子どもの頃です。聖がどうにかして僕の気をひこうとしても、養育者として、ダメなものはダメです。愛情は注ぎましたが、応えられない関係には応えません」

 同性とて見惚れずにはいられない、綺麗な見た目に、触れるのを躊躇するほど純度の高い精神の持ち主である聖は。

 痛々しいまでの飾らなさで、この人にどれだけの愛を乞うたのか。


「……『死んだ妻』は」

 どんな思いで、二人を見ていたのか。

 紘一郎の声は穏やかだった。


「僕の目から見て、聖は常緑さんをとても大切にしているように見えました。愛し合っていたと思います。病気さえなければ、二人は今も幸せに暮らしていたでしょう。子どもも授かっていたかもしれません」

 実際は、引き裂かれてしまったのだ。死によって。だから西條聖は、結局のところ、ひとりだ。

(嫌だ。誰も悪くなくても、幸せになれないひとがいる)


 ――ただ一番の幸いに至る為に

 ――いろいろのかなしみも、みんなおぼしめしです。


 傷口から血が噴き出しても、その言葉を噛みしめてやり過ごさないといけないのか。

 いつか辿り着くいちばんの幸いなんていらないから、毎日に少しずつ幸せが欲しい。


「穂高先生。俺がちょろいのわかってたでしょう。優しくされたらすぐにも落ちるし、痛めつけられれば従順になる。いつも自分を傷つけてくれるひとを探しているんだ。殺してくれるならなお良い」

 死にたいんだ。もうずっと以前から。何度も誤魔化して目を逸らしてきたけど、気付いていた。

 死にたいんだ。

 静香を傷つけ、母らしき女性を傷つけるような過ちを、繰り返す日々の中で何度も犯す。そんな自分は死んでしまえばいい。


「たしかに君は、怯えているくせに逃げない。罰されるのを待っているみたいだ」

 囁きながら身を起こした紘一郎が、覆いかぶさるように上から見下ろしてくる。


「ころしてください……。死にたい。生きていたくない。何もない。俺が生きている意味が、どこにもない。どんなに頑張ってもだめなんです。みんな置いていく。誰にも必要とされない」

 伊久磨だって。真冬に雪に埋もれて、声を上げることもできずに死にかけていたのに。

 今はもう自分の足で立っている。自分の人生を生きている。

 誰かの束の間の宿り木にはなれるかもしれない。だけど、それ以上にはなれない。

 こんなにも、いらない人間。椿香織は。


「ずっと一人なんです。この先ずっと。誰も愛せない。愛されることもない」

 吸い込まれるように澄んだ瞳を見つめて、震える声で訴える。

 目が熱い。涙が溢れてきた。


「みんなの幸せのために……何回も灼かれる……、蠍になんかなれない。一回だって怖い。いっそ、その一回で死にたい。西條の『常緑さん』に、この命をあげられるものなら全部あげたい。俺はもう」

 消えてしまいたい。

 両手で両目をおさえる。指の間から涙は流れ落ちる。

 乾いた大きな掌が、手の上に被せられた。


「蠍は僕です。香織くんが幸せになるまで、何度灼かれてもいい」

 彼の掌から自分の手を逃がして、上から掴んで、顔から引き剥がす。睨みつける。

「嘘だ。そんなの嘘だ。俺の為に自分の幸せを諦めるひとなんかいない。みんな自分が大切なんだ」

 紘一郎の表情は凪いでいた。


「香織くんも、自分を大切にすればいいだけだ。それに、君はひとの幸せを願いこそすれ、諦めさせたいなんて思っていない。むしろ、みんな幸せになって欲しいクチだ。間違いない」

「全員の幸せは同時には成立しない。俺が静香を好きでも、静香が伊久磨を好きならそれまでです。『みんな幸せ』なんてあり得ない」

 丸め込まれてなるものかと言い返したら、にこにこと笑われてしまった。

「静香さんのことはべつに好きじゃないでしょう」

「……っ。それは」

 また心を見透かすつもりかと、言葉に詰まったところで。


「今はもう、僕のことを好きになってる。『好き』なんてそんなものです」

 香織は思わず目を閉ざす。目の縁に溜まっていた涙が頬を流れていくのに構わず、呻いた。

「悪い男だ……」

「ありがとう。気付くのが遅いね」

 指先で前髪を梳かれ、零れた涙を拭い取られる。


「いつもだいたい、旅の空。どこにいるかもわからない。いつ死ぬかもしれない。そういう悪い男だから、誰かのものにはなれない。君みたいに愛情の深いひとは、きちんと応えてくれるひとを見つけなさい」

「黙りませんか。失恋前提で惚れさせないでください。俺をなんだと思っているんですか。人でなし」

 優しく動き回る手を、目を瞑ったまま捕まえる。

「何と言われると……。藤崎さんとうまくいってくれたらいいなぁ、と思っていますが」

 ひどいことを言う。

 ごろんと寝返りを打って、背を向ける。手は捕まえたまま。ほとんど繋いだ状態で。


「ふざけんなよ」

 そうやって、聖も諦めさせたのかよ、と。今一度胸の裡で喚いてみる。

 そんなの、「常緑さん」にしろ「藤崎さん」にしろ、迷惑すぎる。

 ぎゅうぎゅうと手を握りしめて、いっそ握り潰したいくらいの気持ちで悪態をついた。

 されるがままになりながら、悪い男はそっけなく言った。


「自分の心がなんだかよくわからない状態って、感度が鈍いんですよ。一度、洗いざらい引きずり出されて、ボロボロに失恋でもして心を穴だらけにしておいた方が、次の恋は早いですよ。年長者として保証します」

「おい、ふざけんなよ。マジで」

 ドSかよ。


 紘一郎は、くすりと笑い声をたてて、実に楽しそうに言った。


「僕との関係性は、僕が強制的に作り出した疑似的なものですけど、香織くん、恋をしているように見えました。人を愛せないとか、愛されないとか、そういう妄想は捨ててください。君はきちんとひとを好きになれるひとです。この先、これはと思う相手がいたら、逃がさないで」

(疑似的なもの……ってなんだよ。ていうか、これが嘘でも本当でも、失恋したばっかだよ。痛ぇよ)


 保護者面した年上の男に、恋の手ほどきをされるなんて。信じられない。

 踏ん切りがつかなかった髪型まで、すっかり変えてしまった。


 ――蠍は僕です。


 悪い男だ。

 その悪い男の手を握りしめたまま、背を向けて、長いこと顔を見ることができなかった。

 胸の痛みを紛らわせるために、とりあえず怒りを持続させようと決意し、ここ数日のことを思い出す。


 湧き上がってきたのは、ただただ甘く優しい記憶。

 これはいけない。

(忘れよう)

 即座に追い払う。だけど、なかなか手を離せない。離せないまま、ごろごろと転がる。悔しがっている(てい)で。ふざけんなよと悪態をつきながら。


 背後で紘一郎がどんな顔をして背を見つめていたか。

 もちろん、背中に目のない香織には見えていない。知ることは無い。

 この先も、ずっと。

 

番外編的位置づけ「Nirgends」(ニルゲンツ:どこにもない場所、という意味で使っています)はこれにて終了です。





香織が出て来ると。

読者の皆様が「え……」と静まり返る気配を感じます。ごめんなさい!!

特に今回はすっきりしないといいますか、この段階ではまだまだ「大丈夫なの??」という不穏さを残したままですが。

本編で色々拾っていけたら良いなと思っています。



そしてそして、最近「エブリスタ」という投稿サイトも併用していますが、こちら「スター特典」というのがありまして。作品に評価を送ってくれた方限定で見られるSSを公開する仕組みがあるみたいです。

おそらく、近日中に特典分の★がたまるので、何かしらのSS(たぶん、伊久磨と静香の電話内容とかそういう内容です)をそちらで公開予定ですが……

「小説家になろう」派の皆さまにも不義理にならないよう、少し時間を置いてから活動報告などに転載するつもりです。何卒。


以上


いつもブクマや評価・感想本当にありがとうございます!!喜んでいます!!まだまだたくさん書けそうです!!

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― 新着の感想 ―
[一言] Nirgends、読了です。 香織が少し外に引っ張り出されてきましたね。まだまだかもしれませんが、わたしにはとても前向きな一歩に思えました。なんでもかんでも、抱えていて動けないんだろうなと…
[一言] そもそも、私たちが今生きている現実世界は、人間の事など考えずに作られた気がします。 私の本職はゲームデザイナーですが、ゲームを作っていると、それを実感します。 どんなに注意しても防げない災…
[良い点] 穂高先生は最初からそういう意図だったんでしょうか? 香織さんにも人を愛することが出来ることを教えるために、わざと疑似恋愛に陥れた。 自分が惚れたわけでもないのに、香織さんのためだけに。 途…
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