あの蠍のように(4)
絶対、西條聖だと思ったのに。
レストラン「海の星」に、紘一郎と食事に赴いた。
コースの最後に出て来たのは、うっすら色づいた桃のデザートスープに、ほのかなグリーンのミントのアイス。上から、ピンク、黄色、赤、紫といったビビッドなエディブルフラワーと緑のミントの葉を散らした見た目にも華やかなデザート。
真田幸尚じゃない、というのは直感的にわかった。自然と、助っ人で入っている西條聖の手になるものだと信じたのに。
「岩清水さんだよ。西條シェフにデザートが不得意だって散々言われて、最近時々作ってる」
仕事中だが、堅苦しくしない方が寛げるとふんだらしい接客担当の蜷川伊久磨が、気さくな口調で言っていた。
桃が時期外れなので、ネクターで甘みを足していますとか。花は一応、全部花言葉も調べてますとか。
「これは?」
ピンクの花をスプーンですくって尋ねると、伊久磨は目を細めた。
「プリムラ。もしカップルに聞かれたら『あなたなしでは生きられない』で答えると思う。だけど、花言葉ってたくさんあるから……。調べるものによって少しずつ違うし」
唇に品の良い笑みを浮かべて、思い巡らせるように間を置いてから、伊久磨は低い声で呟いた。
「『運命を切り開く』」
目が合うと、笑いかけられる。
顔立ちは整っているが、決して派手さはない。それでいて、目にした相手の心をさらう笑みだ。
(笑うように、なったな)
泥沼に落ちていた頃を知っている。ひととして、自らの足で立ち、前を向いて生きていけるようになるかは、誰にもわからなかった。
実際に、長い時間がかかった。一筋縄ではいかなかった。声が出るようになり、なんとか食事もするようになって、日常に戻りつつある時期も、不安定さはずっとあった。
拾った手前、どこまでも面倒を見る覚悟を固めていたのに。
“運命を切り開く”
(それは自分のことだよ。俺に贈る言葉じゃなくて。お前自身が)
誰かに必要とされ、誰かを支え、居場所を作り出し、守っている。
いつの間にか。
「この紫の花は?」
香織と向かい合って座った紘一郎が、スプーンで花をすくいあげる。
ビオラですね、と伊久磨が落ち着いた声で答えていた。
「『私を忘れないで』とか……」
少し考え込んでから、ちらりと紘一郎に視線を向ける。
「『誠実』……、『ゆるぎない魂』というのもあります」
言葉を捧げるように。
厳かに告げる。
透明に澄んだ茶色の瞳に、面白そうな光を浮かべて紘一郎は笑みを深めた。
楽しそうに見えた。
「ごゆっくりどうぞ。お茶のおかわりもお持ちしますので、遠慮なく声をかけてください」
軽く会釈して、伊久磨は背を向けて立ち去る。
流れるような、淀みのない所作。
「『ただ一番の幸いに至るために』」
桃のスープと花を飲み込んで。
歌うように、紘一郎が静謐に満ちた声で呟いた。
香織が顔を上げると、真正面からまっすぐに見つめてくる。
――いろいろのかなしみも、みんなおぼしめしです。
ことりと、胸の中で何かが鳴る。どこかで聞いた覚えがある。なんの一節だっけ。絶対に聞いたことがあるのに、思い出せない。
――なにがしあわせかわからないのです。
――ほんとうにどんなつらいことでも
――それがただしい道を進む中でのできごとなら
子どもの頃。もう遠い昔。誰かが読んでくれた。
誰かなんて、決まっている。
――その神にそむく罪はわたしひとりでしょって
――ぜひとも助けてあげようと思いました。
心の奥底に沈めて、絶対に取り出さないように決めていた「思い出」が、閉ざしたはずの蓋の隙間から溢れ出す。
――ぼくはもうあの蠍のように
――ほんとうのみんなの幸せのためならば
――ぼくのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない
白鳥の停車場。銀河ステーション。青白く光る銀河の岸。燐光の三角標。
旅人たちは、黒のバイブルを胸に、或いは水晶の数珠をかけて祈る。
アルビレオの観測所。青宝玉と黄玉。
不完全な幻想第四次銀河鉄道。
新世界交響楽が地平線の果てから鳴り響く。
昔、父が、その本を読んでくれました。
目の前の相手に伝える意味があるのかないのか。とにかく言いたくて。
どうしても言いたくて。
紘一郎は淡く微笑んでいた。
「僕も好きですよ。銀河鉄道の夜」
聖のように直接的でも乱暴でもないのに。
声で、見えない指で、心臓に触れて来る。そっと、包み込むように。
視線を相手から外して、虚空にさまよわせて、香織は呟いた。
あなたは、まるで。
俺の父を知っているみたいだ。
口を滑らせてから(違う)と思う。それだけじゃない。何かもっと、違う。
静香を襲った場所で、同じことを再現された。
あのときも、心を暴かれたような感覚があった。
直近の、浅い記憶。沈み込む前の。
それから、一緒に過ごす時間が長くなって。自分のことを話す機会もあった。何度も思いを馳せるようになっていた。深く、遠い記憶。父親との日々。脳裏に思い浮かべて。
(知っているんじゃなくて。見られている気がする。心に描いたことを、直接)
あの澄んだ瞳に。
馬鹿なことを考えた。
おそらく偶然だ。或いは、やけに勘の良いひとなのだ。それで説明がつく。
「アイス溶けるよ。食べましょう」
香織の落ち着きのなさなど、何も気にした様子もなく声をかけられる。
目を合わせないまま、はい、と答えた。
参考(一部抜粋):「銀河鉄道の夜」(青空文庫)