あの蠍のように(3)
冬の、肺腑を突き刺すような冷たい空気が好きだ。
吸い込むと、ほんのり甘い。
このまま立ち尽くしてずっと呼吸を続けていたら、いつか全身が冷え切って死ぬ。そういう甘さ。
(死にたいのかな……)
薄い雲のかかった朝焼け空からは、すでに暁の名残が消え失せている。端の方から灰色と水色が混ざり合って、凍り付いた水面のように静まり返っていた。
そのぼんやりとした色合いは嫌いじゃない。真夏の青空よりも、よほどほっとする。自分は北国の人間なのだと思う。
死ぬまで縛られて生きていく土地を憎んでいないのは、幸いだ。
「香織くん?」
まだ起きるには早い朝だというのに、背後で人の声がした。しかも、名前を呼んでいる。
香織は、肩越しに振り返った。
思った以上にすぐそばに、人がいた。
「穂高先生。おはようございます」
長く口を動かしていなかったが、多少ぎこちなくも声は出た。
おはよう、と白い息をこぼしながら微笑まれて、氷のように固まりかけていた胸に鮮やかな痛みがはしる。
空恐ろしいまでに、優しく穏やかな笑み。
「出て行く音がしたけど、帰ってくる音がしなかったから。遅いなと思って」
「自分が休みでも、工場に顔を出すことはあります。気にしないでください」
目を合わせていられずに少しだけ顔を逸らす。
その横顔に手が伸びてきて、指が本当に軽く睫毛に触れた。
「先生……」
伏し目がちにちらりと視線を向けると、白い息を吐き出して、声もなく紘一郎は笑っていた。
「睫毛が凍っているように見えて。身体も冷えているんじゃないですか。家の庭で凍死する気?」
胸の痛みを残酷に撫ぜていく、柔らかな声。
「ちょっとぼんやりしただけですよ……」
凍死だなんて、と笑い飛ばそうとしているのに、口がうまく動かない。寒さのせいだ。
「聖が朝ご飯作っていますよ。香織くんの食が細いのを心配しています。お粥とか、食べやすいもので考えているみたい。食べないと体温も戻らないから」
行きましょう、と身を翻しながらも、振り返って待っている。
(聖が)
黒髪に青い瞳の綺麗な青年もまた、彼を「紘一郎」と名で呼ぶ。
傷つくところじゃない。
事情があって、遠縁の聖を引き取り、子どもの頃から紘一郎が育てたと聞いた。今となっては、親子というより、年の離れた親友のような二人。
「西條は病人食みたいなのが得意だから。あいつが作るようになってから、俺結構食べていると思いますよ」
一歩踏み出し、紘一郎に目を向けながら言う。
近づいてみると、それほどの身長差はない。なのに、大きく感じるのは、彼がスマートながらも頑健そうな体つきをしているせいだろうか。
――海外ふらついていると、時々紛争地帯に近づいてしまうことがあって。兵士と間違われます。
笑って言っていた。本当かどうかは知らない。
追いついて来た香織と肩を並べ、紘一郎は前を向いて歩き出す。
「聖は病人食を作っていた期間が長いから。得意分野です」
(「死んだ妻」だ)
まるで今もまだ生きているかのように、聖は亡き人のことを語る。
本人以外の口から聞いてはじめて、本当にもう死んでいるのだと気付かされる。
会わないうちに死んでいて、今後絶対に会うこともないのに、いつの間にか香織もずいぶんその人のことを知っている。
西條聖の死んだ妻、西條常緑について。
* * *
「髪切れば」
藪から棒に、聖に言われた。
「お前こそ」
咄嗟に言い返す。
朝の光差し込む中、温かな湯気立つ台所で自分以外の誰かが料理を作っている光景は、ずっと見ていても見飽きるものではなく。
背中を見ていたら、背中を向けたまま言われたのだ。
(自分だって、そんなに長いくせに)
一本に束ねた艶やかな黒髪が揺れて、聖が肩越しに振り返る。
「Posso avere un piatto?」
目を見て来る。まっすぐに、射貫くように。その視線を受け止めて尋ねる。
「どこの言葉?」
「『お皿をください』イタリア語」
岩清水由春と何ケ国か回っていたという聖は、生活の中にいろんな言葉が入り乱れて現れる。使わないと忘れるから、とのことだった。
通じていないので、使っているうちには入らない気がするが、初めて耳にしたときから鼻につく感じは一切ない。
声の響きが、通りが、綺麗すぎるのだ。意味がわからなくても、発音も完璧なのだろうと思わされる。
わからない、知らない言葉なのにずっと聞いていたくなる。
「髪、邪魔じゃない? 料理に入ったりしないの?」
昭和から買い替えている気配のないカップボードに向かい、皿を選びながら尋ねた。
「俺は髪に言い聞かせてるから。絶対料理中に邪魔するなよって」
なんだそれ、と言いたいのを堪えて、香織もしれっと言い返す。
「俺も」
手の上に粉ひきのスープボウルを重ねて運び、言い添えた。
「というか、中途半端な長さより、一本残らず結んでしまった方が安全な気がしている。ただ、染めるのはそろそろ……。髪傷むし。染めないで伸ばしていると重いから、黒に戻したら、切りたくなりそうだけど」
流しのステンレス台の上にスープボウルを置くと、聖が目を見てきた。
「黒髪似合いそうだ」
「そうかな。もう長いことこの髪だから、黒かったときのこと、思い出せない」
言ったそばから、結んだ髪を素早く掴まれる。
「どうしてこの髪なんだ」
調理中に髪触るなよ、きちんと手を洗えよと気にしつつ、香織は溜息とともに吐き出した。
「俺の父親が死んだ頃、こういう感じだったんだよね。もう、死んだ年齢は超えちゃったけど」
くいっと無造作に香織の髪を引っ張りながら、聖は唇の端を吊り上げて笑った。
「父親の思い出だけじゃないな。お前の父親を思い出して、胸を痛める人間がいる。見せつけて、痛めつける為に『その容姿』なんだ」
確信めいた物言い。
(湛さんから何か聞いたのか)
言うだろうか、と純粋に不思議に思ったところで。
「母親生きてるんだろ」
何を、と思った瞬間、強く髪を引っ張られた。痛い。
「西條、はなせ」
腕を掴むと、呆気ないくらい簡単に手を離された。
目が合う。笑ってる。
(こいつ、いま何を言った?)
遅れて、得体の知れなさを感じて、どきどきと鼓動が早まる。
その香織の様子に構わず、聖は愉快そうに告げた。
「同じなんだ。俺と。俺の場合は、母親によく似ているらしい。だから、こういう見た目でいると、母親を知っている人間には、ぐっとくるものがあるんだよ。昔俺の母親に惚れていて、なんでも言いなりになって、育てられないと捨てた子どもを引き取って育てた馬鹿な男とか」
聖の手が、香織の胸に置かれる。
高鳴る鼓動を確かめるように柔らかく撫ぜてから、前触れなく指を立てて掴みかかる動作をした。
心臓を握りつぶそうとするかのように。
「だけど、そろそろもういいかなって。振り回すの飽きたんだよね。だからさ、お前もいいことにしない?」
ぐりぐりと胸を掴んで弄られながら、香織は(痛い)と我に返って聖の腕を掴む。
「ひとりで納得しすぎだよ。なんの話かさっぱりわからない。俺の見た目が、どこかで生きていて、俺を目にするかもしれない母親を責めているとして。西條は……、母親に惚れていた男? お前を育てた?」
そんなの。
一人しかいない。
長く彼と一緒に暮らしてきて、自分には「愛する妻」もいたのに、一方でこいつはあの人に。
そんなことを。
理解の追いつかない嗜虐性に警戒しながら目を細めた香織に対し、聖はにこやかな笑みを浮かべて言った。
「あいつ、髪は黒い方が好みだよ。保証する。だからさ、思い切ってその髪黒に戻して、切っちゃえよ」
優しい悪魔のように甘く囁く。
好かれたいんだろ? と。