あの蠍のように(2)
「男だから、とかじゃなくて」
押さえつけられた手首が、みしっと軋んだ音を立てる。
(痛い)
「暗がりで不意をつかれたら、何もできないでしょう。声を上げる間もなく、命を奪われることもあります」
驚きすぎて声が出てこない。ひゅうひゅうと喉を風が通り抜けるだけ。
(力、強いよ……っ)
抵抗しようとしても、全然敵わない。あまりにも揺るぎなく、もがいているつもりなのに、腕をほんのわずかに持ち上げることすらできない。
「先生……っ、痛いッ」
息を整えて、なんとか絞り出す。切羽詰まった響き。喘ぎにも似た。
離してくれるはず。
予想は裏切られ、ギチッとなおさら力を入れて締め上げられる。
「……~~っ」
悲鳴を上げるのはなんとか堪えたが、んっ、と息が漏れた。涙まで滲んできた。
「たとえ命が助かったとしても、恐怖心はしばらく残りますよ。一人じゃ暮らせなくなるかも」
声が近い。思ったよりずっと。吐息が耳を掠った。
どうして。何を。
頭がうまく情報を処理してくれない。自分がこのままどうなってしまうのか、考えることができない。
不意打ち、痛み、恐怖で身体が硬直している。抵抗する気力すらない。
ひどい。
「僕が怖い?」
暗くて表情がよく見えない。声はどうだろう。本気か?
(本気ってなんだよ。男のこの人に、男の俺が何をされるって)
そう思うのに、見せつけられた力の差は圧倒的で、「どうにかする気があるならされてしまう」という奇妙な諦めが全身を満たしていき、逆らう気すら押し流してしまう。
同時に、ああ、と声にならない思いを胸に抱く。
これが、自分が静香にしてしまったことなのだ、と。
(怖かったよな。平気なはずがない。ごめん。強がってるけど、結構脆いの、知っているはずだったのに。大丈夫かな。大丈夫なはずないか。電気消して寝られる? 夜道が怖くない……?)
男が、怖くない?
謝りたい思いと、申し訳なさと、身勝手だと知りながらも彼女を心配する思いが身の裡から溢れ出す。
ごめん。
もっとちゃんと謝るべきだった。静香は気遣いがすごいから。あの件で心に怪我を負っていても、俺には。
俺にだけは、見せるはずがない。静香は。
傷ついたことすら知らされない俺は、その怪我に触れて、手当てをする資格もない。
せめて伊久磨には。
静香がこの世で一番信頼できる男には見せて、きちんと癒してもらって。ごめん。
(ごめん、静香。ひどいことをした)
押し寄せる後悔に歯を食いしばって耐えているうちに、いつの間にか手首の縛めは消えていた。
もっと痛めつけて。
……先生。もっと俺を苛んで。
自罰的な気分に襲われて、痛みを願ってしまっているのに。
「手荒なことしてごめんなさい。痛かったでしょう」
食い込んだ五指の跡が残っていそうな手首を、乾いた指先でなぞるように撫ぜられる。
気持ちの昂りと、痛みで滲んでしまっていた涙がぽろりとこぼれて頬を伝った。暗くて良かった。見られる前に、セーターを着た袖で拭き取る。
「平気です」
嘘だよ。
だけど、ここは嘘を言う場面だ。じゃないと、言ってはならない本音を口走ってしまう。
ぐらつきすぎた心は、まるで突き崩されるのを待っているかのように。
(俺が無理矢理、静香に「女」を強いたように。心にひどい傷を負わせたように)
同じくらい。いや、それじゃ足りない。もっとずっとひどく誰かに傷つけられたい。徹底的に壊されたい。
自己満足の、ただただ暗い被虐願望。どす黒くて、決して日の下に晒してはいけないそれは胸の奥底に沈めておかなければ。
頭ではわかっているのに、まるで別の人格がいるみたいに囁いて来る。
あなたになら、されてもいい。言え、と。
(口、滑りそう。どんな反応するんだろう。意外と……)
あの容赦ない力強さで、叶えてくれるかもしれない。そんな気がした。
想像だけで、ぞくりと快感にも似た痺れが背筋を走り抜けていく。
暗くて良かった。見せられない表情をしていたに違いない。
「灯りつけます」
湧き上がる欲望をおさえつけて、告げる。
光の中では、いつも通り笑っていよう。そう、自分に言い聞かせて。