あの蠍のように(1)
※時系列的には第18話(一月四日~)頃です。番外編的な位置づけのお話です。
――起きた?
夕暮れ時だった。西日が差し込んでいた。信じられないほど赤々とした光が視界に満ちていた。
(何処だ?)
目を開けているのに、現実感がない光景。夢の続き?
隣に誰かがいる。胡坐をかいて座っている膝の上に、自分の手がのっていた。上から自分のものではない掌を重ねられている。
灯油ファンヒーターが吐き出すゴオオという音が遠くから聞こえる。他の音は何もない。
身じろぎもしないまま、辺りの気配をうかがう。
(自分の家だ)
普段は使うことのない居間の炬燵で寝てしまったらしい。隣にいる人が誰で、いつからそこにいたのかは全然思い出せなかった。
目を向ければ顔が見えるはずなのだが、とにもかくにも起き上がろうとした瞬間、気付く。金縛りにあったように身体が動かないことに。
よくある。一人で自分の部屋で眠っていて、夜中に起きたとき。子どもの頃は怖かったが、最近は慣れたものだ。こうなったら、もうどうしようもない。
指の一本も、自由にならない。
試しに動かしてみようとして、どうにもできずに、諦念とともに目を閉ざす。
「香織くん?」
不意に、声が現実感を伴って耳に届いた。
同時に、動かなかった指の一本が他人の指に摘まれて、軽く持ち上げられている。
(誰かいるって、誰だよ!)
この家に自分以外の誰かがいるなんて、もうそんなことはあり得ないはずなのに。
金縛りがとけている。畳に手をついて、がばっと半身を起こした。
対面する位置に、朱色の光に包まれた人がいる。笑った口元が見えた。
「せんせ……、穂高先生」
名を呼んだ瞬間、急速に目が慣れたようで、相手の顔の輪郭がわかる。
外国映画の俳優並に整った容貌。
茶色く澄んだ硝子のような瞳が、柔らかな光を湛えてまっすぐに見つめてきていた。
息が止まりそうになる。
「すみません、俺。え……寝てました?」
慌てて体勢を立て直す。片手は、この家の客人である穂高紘一郎の膝にのったまま。そこに、紘一郎の手が重ねられている。先程、指を摘まみ上げられた感触があったが、気のせいかもしれない。とにかく、何かものすごく気恥ずかしくなり、手を引こうとした。
見越していたように、軽く力を込められて、手を握られてしまった。
「あの……、先生。えっと……」
職業柄、爪を綺麗に切り揃えている。触ると骨ばっているが、見た目はほっそりして女性的と言われることもある色白の手が、一回り大きな、見るからに男性の手に包み込まれているのは、視覚的にも何やらショックだった。カッと頬が赤くなるのがわかる。黄昏時のせいで相手には気付かれないかもしれないが。
「この手。誰かを探しているみたいでした」
何一つ焦った様子もなく紘一郎はそう言って、手を離した。ぬくもりが遠ざかったことに、ほっとしつつも妙な心許無さも感じて落ち着かない気持ちになる。
「ごめんなさい。寝起きでぼーっとしてて」
なんで客の前で寝ていて、しかも手を繋がれて? と、考えれば考えるほど状況がわからずに混乱してくる。「手が誰かを」ってなんだよと思うが、目の前の相手にそれを言うのは、ほとんど八つ当たりだ。
「炬燵って本当に眠くなるんですね。僕は今まで使ったことがなかったんですけど、家にあったら危険だなって思いました。香織くんが寝てしまったので、どうしようかなと思ったんですけど、僕も少し寝てしまいました」
紘一郎はのんびりとした調子で害にも毒にもならないことを言いつつ、炬燵の隣の辺から、布団の中に足を入れていた。
(焦ってるの俺だけね。なんなんだよ、ほんと)
「ですね。だから、普段使わないようにしているんですけど。自分の部屋には置いてないです」
「この居間自体、普段使っていないんですか」
年末年始。思いがけず、家に人を迎えた。
客がいる以上、自室にこもっているわけにもいかず、居間にファンヒーターも出してなんとなくいるようにはしていたが、いつもは寄り付きもしない。
「使わないですね。テレビも何も置いていないですし。台所と浴室、自分の部屋くらいかな。単身者が使うスペースなんてそんなもんですよ」
言いながら、炬燵の上を見る。手のひらサイズのデジカメがぽつんと置いてあった。
(ああ……。写真見てたんだ)
三が日も過ぎて、一月四日。束の間の同居人となった西條聖は、岩清水由春の間抜けのせいで、朝早くから家を出て「海の星」で働いている。
香織はといえば、朝の間は工場にも出ていたが、「客人を放っておくな」と水沢湛に体よく追い払われていた。
写真家・穂高紘一郎は「セロ弾きのゴーシュ」に顔を出していたが、午後には椿邸に帰宅。会話をしていた流れで、世界各地を巡って撮った写真を見せてもらうことになった。趣味で撮った方、と言われてデジカメを渡され、データを表示して見ているうちに炬燵の魔力に……。
思い出しているうちに、落ち込み過ぎて項垂れてしまった。
(俺、すっげえ失礼な奴じゃん)
興味をもって、綺麗だなと思いながら見ていたはずなのに。いつの間に。
ゴオオというファンヒーターの音だけが、耳に届く。
ややして、紘一郎がしずかな声で言った。
「たしかに、この家、維持管理がすごく大変そうですよね。綺麗に使っていますけど、老朽化もしていますし。いっそ建て替えてしまえばいいのに」
あっさりと言われて、思わず紘一郎の方に顔を向けた。
「建て替え……」
「昔、お弟子さんを取っていたときの名残なのか、部屋数も多いけど。香織くんがこの先結婚して家族が増えても、この広さは持て余すんじゃないかな。手を入れて騙し騙し使うより、壊してコンパクトな家を建てた方が生活しやすいと思うよ」
家を、壊す。
光はすでにほとんど無い。
薄暗く、夜の気配が漂い始めた部屋で、灯りもつけずに。
(こんなことしている場合じゃないのに)
家主の自分がしっかりしないとと思うのに、うまく動けない。まだ金縛りが続いているみたいだった。
「壊して良いと思いますか、この家」
口にしてみたら、声が震えそうだった。なんとかおさえて、さりげないふりをして聞いてみた。
今まで、そんなこと、誰も言ってくれなかった。
香織の受けた衝撃に気付いているのかいないのか、紘一郎は何でもない様子で続けた。
「人が住むには向かないと思います。残しておきたいなら相応の管理者に引き渡して、香織くんは単身者用のマンションにでも移り住んだ方が良い。機能面だけでなく、防犯面でも。知らないうちに誰か入り込んで、どこかの部屋で暮らしていても気付かないですよ」
ぞくりと悪寒がはしって、思わず炬燵布団を肩まで引き寄せる。
深夜に物音がすれば、気になる。いくら戸締りをしていても、日中は誰もいない家だ。「住みつかれる」ほどではないにせよ、泥棒被害がまだないのが不思議なくらいだ。或いは、あっても気付いていないのかもしれない。
「物盗りと鉢合わせしても、俺はまあ、男なので……」
自分自身を誤魔化すように忙しない口調で言ったが、返事がない。
静まり返ってしまって、不安がいや増してくる。
(灯りつけないと)
さすがに暗すぎる、と立ち上がりかけたそのとき。
身体がぐらりと傾いだ。
強い力に引きずられて、気が付いたときには背中が畳に押し付けられていた。