出会い頭の攻防戦
遠距離は。
会いたいときに会えなくて、助けて欲しいときに助けてもらえない。
困ったことがあっても、自分で対応するしかない。
平気。そんなの今までと何も変わらない。
そう思っていたのに。
(いた……!)
背が高いから、すぐにわかる。周囲の人より、頭一つ大きい。
待ち合わせは新橋駅。SL広場でと伝えていたが、静香がたどり着いたときにはすでに伊久磨の姿があった。
SLを背にスマホを眺めている。
走って近づくと、まるで視線に気づいたように顔を上げて静香を見て来た。
「ごめん。急いだつもりなんだけど、遅くなっちゃった」
すぐそばに着いてから、息を切らせて早口に言う。
伊久磨はスマホを黒いコートのポケットに突っ込みながら「おはよう」と返してきた。
「えっと……おはよう?」
呼吸を整えて、見上げる。
派手さはないが、整った品のある容貌をしている。清潔感のある柔らかそうな髪に、黒一色の外見。優し気なまなざし。笑みを浮かべる、形の良い唇。
見慣れるほど古い知り合いでもないのに、いつも通りだとほっとしてしまう。
「なんかごめんね、ほんとに来てもらっちゃって」
「謝ることじゃないですよ。休みだったし。会いたかったし」
でも、遠距離だ。
(付き合いが長くなればなるほど、交通費とか宿泊費とかかさむわけで……)
会う費用を稼ぐために働くようになるくらいなら、いっそ一緒に暮らせるように仕事を調整した方が良いのではとは思うが。
その為には、どこに住むことになっても、仕事を続けていけるスキルがなければいけないと思う。
伊久磨に寄りかかって生きていくということは、現実的に全然考えられない。
「仕事は」
「うん。銀座のレストランで、お花生けてたんだけど、終わったから。いつもは前の週のお花は持ち帰るんだけど、今日はお願いして業務ゴミにまぜてもらった」
後に予定があると頼み込んだら、快諾してもらえた。あまり良くないと思うので、少し心が痛い。
伊久磨は、話している間じっと静香を見下ろしていた。
「何か? なんか見てる?」
「それ、聞くんですか」
変な返事だと思って目を瞬くと、伊久磨はふっとまなざしを柔らかくした。
「可愛いなあと思っていただけです」
赤くなったり。絶句したり。そういう反応はしないようにしようと。
平静を保とうとした。
「そう?」
何気ないふりをして答えると、伊久磨はさらに笑みを深める。
「疑問形? もっと言った方がいいですか。それとも」
身をかがめるような仕草をされて、静香は思わず逃げた。
(キスはだめ!)
周りにひといるし!
誰も気にしてはいないが、いたたまれない気持ちで俯いてしまう。指無しの手袋をした伊久磨に、軽く耳をつままれた。
「ここまで赤いですよ。大丈夫?」
誰のせい。
「あんまり、人前でやめてください。そういうの慣れてないし……」
恥ずかしい、と続ける前にあははははと朗らかに声をたてて笑われてしまった。
「慣れないでください。その反応が可愛いから。だけど……、出し惜しみもしたくないですからね。この先もずっと言い続けますから、慣れたら慣れたでいいですよ」
(なんか、ちょっとだけ、上からでは?)
納得いかない気分で睨みつけるように見上げる。目が合う。
にこり、と滲むような笑みを向けられる。
よくわからない。
顔から湯気が出た。
固まった静香に対し、伊久磨は「人前では駄目というなら、そこは了解です。そういう可愛い反応は、他の人には見せない方がいいですからね」と、とどめのように囁く。
全敗。
完敗。
どこから勝負だったのかはわからないが、とにかく負けた。ろくに言い返せないまま、試合終了。
敗北感に打ちひしがれる静香の腕をとって、伊久磨はにこやかに言った。
「待ち合わせの時間は大丈夫ですか。そろそろ行きましょうか」
落ち着いている。
追い詰められた気持ちのまま、静香は「そうだね」となんとか答える。
(どうして伊久磨くんは、毎回こうなのかな!? 女の人には優しいのが習い性になっているから?)
顔色を変えぬままスラスラ出て来る「可愛い」を聞いていると、不安になる。
実は結構軽薄じゃありませんか。
元カノにもそうだったんですか。
違うと良いなと頭のどこかでは願っているのに、少しだけ意地悪を言いたい気持ちにもなる。
「伊久磨くんは、簡単に可愛いって言うからなぁ……。誰にでも言ってそう」
手を繋がれそうになって、軽く振り払う。
平日の午前中、周りは明らかに仕事中と思しきスーツに上着の男女が行き交っている。
静香は、仕事と打ち合わせということで、グレーのタートルネックセーターにジーンズを合わせてキャメルのコート。動きやすさと綺麗めを考えたとはいえ、カッチリとした勤め人の空気はない。
伊久磨もコートの下はスーツではないようで。
(手を繋いでいたら完全にデートでは!? ビジネス街ではかなり恥ずかしいのでは!?)
「だいたい、最初に会ったときもあたしに『美人』とか言っててさ。こう、心にもなくてもつらっと言えちゃうんだよね、そういうこと」
そういえば前もこんなことぐずぐず言ったような。その時はどんな会話になったっけ、と思いながら並んで歩き出した伊久磨を見上げる。
ものすごく優しい目で、見下ろされていた。
「なんですか」
「確かに、うちのパティシエが新作の試作出して来たときも『可愛い』は俺、よく言ってましたね。誰にでもなんにでも言うのはあるかも。今度から静香に言う時は『世界一』ってつけます」
「やめてください」
軽薄さが増しただけだと睨みつけても、微笑み返されるだけ。あげく「そういう顔も世界一可愛いです」と言われる。
(このひと……話が通じている感じがない!)
それはそれで問題なのでは、とどうにか伝えようとした静香に対し。
にこやかな表情のまま伊久磨は言った。
「静香は、世界一可愛い自覚がないから、下心ありの男にひっかかりそうになるんですよね。心配で目が離せないです。今日、仕事が休みで躊躇なく来れて良かった」
まだ。
敬語のままだ、と遅れて気付いた。