想定の、外
いつもの焼き鳥居酒屋で、カウンターに三人で並んで座る。
奥から、左肘をつき、額をおさえた伊久磨。
腕を組んで、目を瞑ったまま首を回している由春。
椅子の背にもたれて、ひっくり返りそうなほど後ろに首を垂らした聖。
「……飲まないんですか」
沈黙を破って伊久磨が口火を切った。
んん、と由春が呻きのような声をもらす。
はーっと大きな息を漏らしながら座り直した聖は、「メニュー」と言って伊久磨に手を伸ばした。由春越しに、その手にメニューを渡して伊久磨も姿勢を正した。
疲労。
藤崎エレナが顔見せしたその日の夜。
キッチンを志望した理由を、エレナは理路整然と語っていた。
「そもそも、人の出入りがあるのはキッチンと聞きました。調理補助を兼ねたパティシエさんが抜けて、もうお一人も産休を控えていて。この状況で補充すべきはホールではなくキッチンなのでは?」
正論。合ってる。
とはいえ、伊久磨としては反論もなくはなかった。
ホール側の担当としては、今の体制はあまりにも危ういと考えている。
キッチンは由春がいなければどうしようもないが、その時はその時で諦めるしかない。
だが、現状、伊久磨が風邪やインフルエンザで休みになってしまった場合も、店が回らなくなるのは目に見えている。それはあまりにも勿体ない。
その意味で、伊久磨同等に働ける人材が、ホールにも絶対に必要だと考えてきた。
会社を辞めて、新しい仕事をしてみないかとエレナを誘ったのは伊久磨だ。
その時は、仕事と恋愛の二択と提示したが、エレナが「海の星」を選んだからには「仕事を捨てた」とは後悔させないようにと思っていた。
今までとは違う、新しい世界を、必ず見せてみせると。
しかし、エレナの考えはまた別であるらしかった。
「大きな会社では分業は当たり前です。自分にしかできないと思う仕事もありましたが、自分が辞めても誰かが穴を埋めていくのは疑いようがありません。ですが、このくらい少人数の職場の場合、誰かが欠けたら致命的ですよね。たとえばシェフが骨折してキッチンに立てないとか、それだけで店が開けられないのでは。私はそれが怖いです。自分が健康で働けても、会社が立ち行かなくなる。同業種で仕事を探してもその心配はずっとついて回ると思います。それなら、いざというときは自分でお店を出せるくらいの能力を身につけたいです。私は……、一人で生きていく手段を諦めたくないんです」
耳を傾けながら、それはそれで一つの考えとして、ひとまず受け止めようと伊久磨は思った。
(仕事を辞めて、転職する。藤崎さんにとっては、こういう意味なのか)
その点に関しては、自分が軽率であったと言わざるを得ない。
誘ったときの流れから、彼女のゴールを椿香織との結婚に位置付けていたのは否めなかった。その場合は、椿屋で働くのが自然だろうとか。そうでなくても妊娠・出産でいずれ抜けるだろうとか。
本気で仕事を覚えてもらいたいと思いながらも、腰掛けでも仕方ないという見方をしていた。
藤崎エレナの覚悟は、まったく違うところにあった。
香織との復縁がない線も見据えているに違いない。
であれば、いずれ椿邸も出るだろう。
東京での仕事を手放したとはいえ、一人で生きていく手段を失わないためには。
手に職を。技術者になるしかない。そういう考え。
(それならそれでも良い、か。確かにキッチンにも補充は必要だ。ホールは絶賛募集中にして、藤崎さんには幸尚くらいに……)
自然とそこまで考えて、気になったことを口にした。
「話はわかりました。ただ、技術職は技術職です。抜けたパティシエも、今いる佐々木さんも、調理師学校は出ています。藤崎さんの技量は」
ちらり、とエレナは伊久磨を見た。
知的さと華やかさを備えた美貌に、生真面目な表情をのせて、きっぱりと言った。
「問題はそこなの。私、料理は全然だめなの」
伊久磨は軽く目を瞬いて、「全然?」と聞き返した。
エレナはしっかりと頷いて「全然」ときっぱり言い切った。
「こういうのはごちゃごちゃ言っていても始まらないから。ちょっとやってみればいい。たしか、調理師学校だと、人参のシャトー切りとかプレーンオムレツが課題になるんだよな」
離れた位置で聞いていた聖が、軽い調子で提案した。
口を挟まないでいた由春も、ようやく「そうだな」と呟く。
エレナは、シェフ二人を交互に視界におさめて、ややひそめた声で言った。
「人参のシャトー? 何のことでしょう。オムレツは、作れた試しがないです。ここ数年作ろうと思ったこともないけど、たぶんスクランブルエッグになって終わりだと思います」
あー。
わかるわかる。
コツを掴むまでは、そういうこともある。
伊久磨としては、言っていることは理解できた。納得とは別だ。ごく普通に疑問に思ったことが、口をついて出てしまった。
「それでどうして、キッチン志望しようと思ったんですか」
エレナは落ち着き払って答えた。
「将来的に自分でお店を出したいから」
「料理は」
「できないわ。今はね」
由春に目を向けると、顔ごと背けられた。
聖に至ってはすでに背を向けてキッチンに消えようとしていた。
(藤崎さんと会話が成立していない気がするんですけど。誰か何か)
残念ながら、誰からも望むような助けは得られなかった。
* * *
藤崎エレナは誠実な人柄である。
これは、誰もが認めるところであると思う。
料理はできない。この言葉には一片の嘘偽りもなかった。
壊滅的にできなかった。
古くからの知り合いという聖ですら「藤崎、そこまで……? マジで?」と言うほどに。
すでに採用を決めていたオーナーであるところの由春は、ひとまず表情を変えないように努めていたが、閉店後の今、いつも以上の疲労感を漂わせていた。
彼女をスカウトした伊久磨に至っては、言わずもがな。
「考えるのが面倒くさい……。蜷川が全部選べ。飲み物も食べ物も」
メニューを突っ返しながら、聖が投げやりに言った。
「俺も。任せる」
由春までそんなことを言う。
何か言い返すのも面倒で、伊久磨はカウンター越しに三人分の飲み物と料理を何品か適当に注文した。
「趣味でお菓子作りをするとか。それで結構できちゃうひとも世の中にはいるじゃないですか。そういう感じではなかったですよね」
考え考え伊久磨が言うと、由春は、ずれた眼鏡のブリッジを指で押し上げながら重々しく言った。
「さすがに、基礎から教えながらは負担だ。業務に支障が出る」
もっともだ。
「俺がいる間に、人並みに……。できるのか、あれ。性格は真面目だから、わざと失敗することはないだろう。ただ、センスは教えられるものじゃないというか……」
いつも自信満々の聖まで、どこか弱気だ。
彼女を、まったく異業種に誘った伊久磨としても頭が痛い。
自分が未経験からここまで来たという自信、過信があった。彼女も同じことをやってできないはずがないと。
まさか、キッチンをやりたいと言い出すとは思わなかった。自分の仕事なら責任をもって教えられるつもりだったが、料理に関しては手が出せない。
出せない、のだが。
さすがに、今日見たエレナよりは自分の方ができるのはわかった。
普段、職場では料理を作ることはないが、静香に振舞った時は「いざとなったらワインバーとかできるんじゃないかな」とも言われた。エレナが言っている「店を出せるレベル」はまさにその辺のイメージではないだろうか。そのレベルまでなら、或いは。
(藤崎さん次第だけど……。特訓に付き合うか? 俺が? シェフの負担は増やしたくない。だとすれば、最初はホールに入ってもらって、閉店後や休日か。店じゃできないとしても、椿邸か、俺の家で)
誘った手前、自分がどうにかしなければならない。
その思いから伊久磨は、エレナをひとまず自分程度の技量に、と考える。
それは仕事から派生し、仕事に限定した事柄であるだけに、「彼女」である静香に報告義務があるとは、その時点の伊久磨はまったく想定していなかった。