始まりの場所
別れは、忘年会の夜に済ませていた。
――年明けから幸尚、東京だから。
由春の一言は、決定を伝えるもので、引き留めたり、反発したりを許すものではなかった。
(もとより、そのつもりもなかったけど)
どこかへ行けばいいのにと、漠然と思っていた。伊久磨にはそこまでだが、由春に明確なビジョンがあったなら、幸尚にとっては幸せなことだと納得した。
「これ、お店の皆さんでどうぞ。オレが作りました」
客として来店した幸尚が差し出したのは、市販の缶やギフトボックスに詰め込んだ焼菓子。カウンターの上で開けてみたら、ふわりとバターが香った。ピスタチオカラーのクッキーや、ゼリーが埋め込まれた花のようなクッキーなど、色とりどりにぎっしり入っている。
「こんなに、家で作るの大変だっただろ。店で作って良かったのに」
伊久磨が言うと、幸尚は声を立てずに笑った。それから、素早く言った。
「そういうわけにはいかないでしょ。けじめ」
予約は夜。誰かと一緒に来ても良いと言っていたのに、ひとりだった。奥まった席に座って、料理もドリンクもすべてお任せ。本人には特に言ってないが、お金は受け取らないと内々に決まっている。由春の奢りだ。
「あるのは知っていたけど、使っているのは初めて見た」
伊久磨が真っ赤な江戸切子の猪口で日本酒を出したら、光に透かしてみたり、テーブルに映る影を眺めてひとりでも楽しそうにしていた。
メイン料理は由春が運んだ。
「カッチュコの雲丹仕立てです。トマトで酸味を加えた魚介のスープを、雲丹に見立てた器に注いでいます。焼いたパンを丸くくりぬいて、カッペリーニでとげを作って揚げているので、そのまま食べられますよ」
とげとげのパンの器には、サフランに染まった手長海老やムール貝、アサリが豪快に盛り付けられている。
「美味そう」
幸尚が微笑むと、由春が当然のように「美味いぞ」と答えた。客とシェフの線引きが少しだけ曖昧になって、溶け合う。
「実家こっちなんだし。帰って来る時は店にも顔出せよ。今日みたいなすごい土産もってこいとは言わないから。あれ、ありがとうな」
スプーンを持って由春を見上げた幸尚は、滲むような笑みを浮かべた。
「里心ついちゃう。実家より、海の星の方が全然やばい」
言い終えて下を向くと皿に向き合い、「頂きます」と手を合わせる。ごゆっくり、と言って由春がキッチンへと引き返した。
デザートは心愛が運んだ。思いがけず、長く話し込んでいた。
東京の話をしているようで、二人とも終始笑みを絶やすことなく、今までで一番親し気に見えた。
幸尚、本当に行きたかったんだな、と。伊久磨は遠目に見て嬉しさと寂しさを等分に噛みしめていた。
伊久磨自身は「海の星」が好きだ。飲食業という、自分が選ぶと思っていなかった業界に入って続けてこられたのは「海の星」だったからだと信じている。
他を知らない。
(今はそれは弱みかもしれない。それを、オープンからずっとこの店を見続けるという意味で、十年もすれば強みに変えていけないだろうか)
この先も、スタッフの入れ替わりはあるだろう。だけど、キッチンには由春がいて、ホールには伊久磨がいる。新規と馴染みのお客様を二人でお迎えする。そういう形でこのレストランをこの先ずっと続けていけたら、それは仕事の形としてひとつの理想のように思う。
理想とは「難しい」と背中合わせだ。
簡単じゃない。わかっている。
それでも、幸尚のように巣立って行ったスタッフのことも「おかえり」と迎えられる場所を、ずっと守り続けたい。
夜空に輝く目印、導きの星のように。
ここが始まりの場所。
* * *
藤崎エレナの行動は非常に迅速で、一月の上旬には椿邸への引っ越しを済ませて「海の星」に姿を現した。
会社はそんなに簡単に辞められたのかと心配になったが「手続きは問題なく済ませている」と言うからには、きちんと処理をしてきたのだろう。
前職の仕事内容は一応聞いていたが「秘書室」とのことで、電話対応などは問題ないものと伊久磨は受け止めていた。
むしろ教えてもらうこともあるかもしれない。
顔を見せに来たのは、平日のランチタイムが終わった時間。主に由春への挨拶が目的だった。
事前に散々聖から「あの二人は『ありえる』ぞ」と言われ続けていた伊久磨は、それとなく警戒していたが、当の本人たちの反応はごくあっさりしていた。
「蜷川と西條から話は聞いている。うちはいつからでも構わない。これからよろしく」
由春が言えば、地味なパンツスーツ姿のエレナも、深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします。簡単な履歴書も用意してきました。離職票は会社から発行され次第提出します」
礼節と距離感。決してよそよそしいわけではないが、親しみにはまだ遠い。
由春はエレナの差し出した大き目の茶封筒を「見ておく」と言って受け取った。
「現状、制服のようなものは用意していない。伊久磨は黒づくめだが、決まりというわけでもないし、ある程度は任せる。白いシャツに下は黒とか。動きに問題がなければスカートでも構わない。伊久磨がしているようなソムリエエプロン、新しいのいくつか買っておくようにする」
ざっくばらんな説明を終えて、由春はエレナの反応を待っていた。
わかりました。
そう言うものと、伊久磨は思っていた。が、顔を上げて由春をまっすぐに見たエレナは、思いもかけないことを口にした。
「私もシェフと同じ服装がいいです。コックコート、というのでしょうか」
「それは別に構わないが。何枚か買うことになるが……」
由春はさほど驚いた様子もなく、返事をした。顔にはまだあからさまな疑問などは浮かんでいない。
エレナは、大きな目を見開き、強いまなざしで由春を見つめて、決然とした調子で言った。
「キッチンがいいんです。どうせ異業種に転職するなら、手に職がつくような仕事がしたいと考えていました。お皿を運んでいてもキャリアにはなりませんよね。できれば、キッチンでお料理を覚えたいんです。いざとなったら、自分でお店を出せるくらいまで」
……職場なので。
もちろん「育てる」側面はあるが、「学校」ではないので、そう言うからには腕に覚えがあるのだろうか。
自分がこの仕事に誘ったエレナが「お皿を運んでいてもキャリアにはならない」と穏やかならざることを言うのを、伊久磨は黙って聞いていた。
離れた位置で腕を組んで立っていた聖が、笑っているのが見えた。
第18話「欲しいものはなんですか」これにて終了です。
恋が……始まらない!?(あ、それは次回かな?)
一目ぼれとか、何か強制イベントがない限り「今それどころじゃない」人たちは恋をする気にならないのでは……。
心に大きな空白を抱えた香織は、「恋愛では埋められない」「他の何か」を求めている人なのかもしれません。果たして「一度別れた」エレナさんと復縁はあるのか?
その微妙な空気の中、聖の言う通り、エレナさんと由春は惹かれあうのか?
ポンコツ感ある伊久磨と静香は初バレンタインをどのように過ごすのか?←ここの需要ありますでしょうか……(迷う作者)
いつもブクマ・評価ありがとうございます!!
そして感想!!時に誤字報告、時にすれすれの展開予想など。
スリルいっぱいの感想含めて、お話を書き続ける糧になっております!!
どうもありがとうございました!!まだ続きます!!