どうしても手に入らない
エントランスに置いていた漆の玉手箱を、紘一郎は長いこと見ていた。
艶消しのような鈍い金色で、深く渋い緑色の飾り紐で結ばれた、さほど大きくない箱。
正月らしい「和風」の室礼をと、倉庫から探して来たアンティークだ。蒔絵と螺鈿の施された黒い漆の飾り台に置き、周囲に「和かな」の食器を並べている。冬場ということで、椿柄がいくつか。
「その玉手箱が何か気になりますか」
紘一郎は、「海の星」のディナーに訪れて、ドアをくぐったときにその一帯が目に入ったらしい。吸い寄せられるように近づいてそのまま。
しばらく待っていた伊久磨であったが、控えめに声をかけてみる。
気付いた紘一郎は、伊久磨を振り返ると、軽く目配せをくれた。
何だろうと思いながら距離を詰めると、肩が触れそうな距離でこそっと囁かれる。
「これ、本物?」
(……本物?)
便宜上「玉手箱」と呼んではいるが、「本物」かどうかは知らない。
「あの玉手箱かどうかはわかりかねますが。開けてみます? 煙が出たら本物かも」
言いながら、伊久磨は軽く身をかがめて手を伸ばし、封となっている飾り紐をするりとほどいた。
ちらりと紘一郎を振り返ってから、蓋を開ける。
中には、ほどよく使い込んでくたりとした水色のネッカチーフが収められていた。
「それは?」
当然の問いかけに、伊久磨は重々しく答えた。
「当店のオープニングスタッフの所持品です。今月の締め日までは在籍ですけど、近いうちに東京の店に行くことになっていて。ロッカーに残っていたからなんとなく入れてみました。幸尚、ここに眠る」
説明としては甚だ不足があったが、紘一郎は人の良さそうな笑みを浮かべて「そっか」と頷いてみせた。それから、おっとりした調子で言った。
「たぶんこの漆、今はもう廃れた技法だよ。作れるひとがいない。だから、値段は付けられないんだけど、あえて取引価格で言えば一千万円くらい。盗難には気を付けた方がいい」
本物ってそっちの意味で、と伊久磨は軽く目を見開いた。
「一千万円」
「最低価格で。もっと出すって言うひとはいるはず」
茶目っ気いっぱいに片目を瞑られる。
(店を辞めることがあったら、餞別にこれをもらおう。もしくは給料を踏み倒されたとき)
会話の間、紘一郎の連れである香織は黙っていた。
どことなく夢見がちなまなざしで、ふわっと笑っている。(どこを見ているんだ?)と危ぶみながら伊久磨が目を向けると、初めて気づいたように「幸尚死んでないでしょ」と軽口を叩いてきた。
「今は引越しの準備があるだろうから、有休使わせてる。最後に『お客様』するって、明日食事の予約が入っているけど」
答えると「そうなんだ」と柔らかな笑みを浮かべる。
(やばい。なんか天に召されそうな顔してる)
ひとまず二人を席に通し、キッチンに戻ってから、伊久磨は聖に尋ねてしまった。
「香織、穂高さんと布団並べて寝たり、一緒にお風呂入ったりしてないですか」
「無いとは思うけど、言いたいことはわかる」
営業初日の夜、連れ立って椿邸を訪れてから、数日が経過していた。
写真家穂高紘一郎の展覧会はまだ途中であったが、在廊期間と告知した日程は最終日を迎えた。翌日以降、紘一郎がいつ発つとも知れないということで、香織が「海の星」に予約を入れ、二人で来たのであるが。
明らかに、心酔ぶりが深まっている。
「椿ってさ。年上に弱いだろ。ファザコンというか」
聖にまっすぐ目を見ながら言われて、伊久磨はシャンパンのボトルを持ったまま、手を止めた。
(父親……)
「それはあるかもしれません。父親代わりみたいなひとはいますけど、年が近いし。ちょっと因縁もあったので……」
気を取り直して、グラスに注ぎながら言う。
「水沢か。水沢な。あれは甘える相手じゃないからな」
即座に反応した聖が、口の端を吊り上げて笑った。
「そういえば西條シェフ、年末に椿屋の工場に入ったんですよね。どうでした? 湛さん」
目に見えて、聖の笑顔が固くなった。あ、これは完全にやりあったな、と伊久磨は了解した。
「香織は父親にしろ、母親にしろ、家族関係が複雑なので……。ずっと地元なのでしがらみもありますし。ああいう、何も考えずに甘えられる相手って、いなかったのかもしれませんね」
伊久磨とは友人だが、年齢差もあり、どちらかというと「頼られる側」に立とうとしているのを感じる。
職人としては上に兄弟子の湛がいるものの、会社では社長であり、心愛の件に顧問弁護士を繋ぐ形で介入してきた姿勢を見ても「頼られる側」だ。
そうやって、子ども時代に父親を喪ってから、寄りかかる相手がいないで過ごしてきたところで。
思いがけず、年上の優しい男性に甘やかされる、という。
「藤崎さん、大丈夫でしょうか」
(香織に必要なのって……彼女ではないような気がしてきた。頼れる大人なんじゃ……)
香織が静香に求めていたのも、厳密には「女」ではないような気はしていたが。
本人もわかっていなかったところで、紘一郎が一つの答えを示してしまったのかもしれない。
だが、聖が言う通り、彼は留めておける相手ではないはず。
――求めるものは、決して得られない。
(それは、「何」が欲しいかわからなかった時より、もしかしたらヤバいんじゃないか)
「蜷川は藤崎に会社辞めるように勧めてこっちに誘った手前、あそこが上手くまとまらないとと思っているんだろうけど」
聖は、伊久磨の手からトレーを取り上げて「ファーストドリンク俺が行く」と背を向けてから、振り返る。
意味ありげに、キッチンの奥にいる由春を見て、伊久磨に笑いかけた。
「ほら、あっちって線もあるからあんまり心配するな」
「あっちは良いんですよ。どうだって。カーチャン健在だし、叔父さんになる予定もあるし。なんだかんだで佐々木さんの子も可愛がりそうだし。彼女以外なんでも揃っているから、むしろ何か欠けさせるくらいでちょうど良いんです」
熱弁をふるう伊久磨に「そう?」と言って、聖はホールに出て行った。
いつか、静香と来店したときに見たように。
淡い光の中で、香織は笑っていた。
それはやはり伊久磨がそれまでに見たことがないほど、目の前の相手を信頼しきった笑顔だった。
(でも香織、その相手はどうあっても手に入らないのに)
香織はどうして。
手に入らないものばかり欲してしまうのだろう。