猫(大きい)
炬燵に入った椿香織が、何かを抱えていた。
(猫……っ!!)
気づいて、伊久磨は口元を手で覆った。噴き出しそうになったのを堪えるためだった。
かなり大きなサイズの三毛猫のぬいぐるみを両手で抱いて、顎をのせながら、天板に広げたいくつかの図面を眺めている。
隣り合う位置に座って、写真家の穂高紘一郎が何かを説明していた。
「おかえり。ぞろぞろ来たな」
椿邸の居間に姿を見せた聖、伊久磨、由春に対して、香織は猫のぬいぐるみの手を持ち上げて、ぱたぱたと振らせている。何だそれ。可愛い。
紘一郎は「一度片付けましょうか」と言って図面の書かれた紙を集めて、とんとんと角を揃える仕草をした。
「飯は食ってるの?」
「なんとなく。香織は?」
「穂高先生とラーメン食ってきた」
聞かれたから、習慣として伊久磨が答えた。会話をした。そのまま見ていると、見られていると気付いた香織が、猫のぬいぐるみを両手で軽く持ち上げて「にゃあ」と鳴く。
「どうしたんだ、それ」
「穂高先生が買ってくれた。この家何もなさすぎるって」
名前を出されている紘一郎は、外国映画の二枚目俳優みたいな彫りの深い顔に邪気のない笑みを浮かべて、にこにことしている。
二十代後半の男性に、特大の猫のぬいぐるみを買い与えるセンスはよくわからなかったが、本人が気に入っているようなのでそれ以上は触れないことに決めた。
「この図面、もしかして椿邸?」
紘一郎のそばに膝をついて、手元を覗き込んだ聖が、手を伸ばして紙の束を受け取っている。
「椿邸?」
なんの話だと思いながら、伊久磨も腰を下ろす。入口から一番近くにあたる炬燵の辺、香織の横で紘一郎の向かいの位置。
「穂高先生、一級建築士持ってるんだって。この家、老朽化しているし、人数が大幅に増える見込みないなら、思い切ってもう少しコンパクトなサイズに建て替えちゃったらって。いくつか案を出してもらってた。どうせ建て替えるなら早い方が良いよね。熱効率も悪いし、修繕しながら誤魔化し誤魔化し使っていてもあと何十年ももたないだろうし……」
猫のぬいぐるみは手持無沙汰にちょうどよいのか、香織はぎゅっと抱きしめながらのんびりと話していた。
穂高先生、穂高先生、穂高先生。
(待て香織。藤崎さんは良いのか。完全に穂高先生に落とされていないか……!?)
一緒にご飯食べてぬいぐるみ買ってもらって新居の相談……?
ちらりと聖を見ると、まるで心の声が聞こえたかのように顔を向けられた。
「詐欺じゃねーぞ。検索すればわかる。結構有名どころ手掛けてるから」
建築士としての紘一郎の話らしい。
「そういうことは思っていないですけど。香織、建て替えって、この家は……? 歴史的建造物とかじゃないのか?」
壊してもいいものなのか? と聞くと、香織は目を細めて微笑んだ。
「そう考えるひとはいるかもしれないけど、住むには向かないし。この先住み込みの弟子なんか取らないし、家族は増えないし」
香織の向かいに座った由春が、実に何気なく言った。
「増やせば?」
伊久磨はその横顔に、穴を開けるつもりで視線を注いでしまった。
「岩清水さん、聞いてた? 香織、彼女と別れたばっかりなんだけど」
「聞いてたけどイマイチわからん。一緒に暮らすんだろ? すぐに子どもできるんじゃないのか?」
寒い寒い、と遠慮なく炬燵布団に足を入れながら。
こいつはどこまで何をわかっていて、わかってないんだ? という思いから、伊久磨はつい言ってしまった。
「水沢家はそうですけど。叔父さん。そういえば、もう性別わかったんですか? 甥とか姪とか」
ちらっと由春に目を向けられた。どことなく拗ねたような目をしていた。
「いまそういうの、気軽に聞かない方がいいらしいぞ。この子の性別はこの子が決める、みたいな。いかにも男用、女用みたいなベビー用品、嫌がる風潮もあるんだとか」
とても真面目くさった調子で言われ、伊久磨はじーっと由春を見つめてしまった。
「……なんだよ」
「いや、でも、岩清水さん、女の子だったらめちゃめちゃ可愛い服買う気ですよね。俺思うんですけど、それはそれでいいんじゃないかな。静香と話していて『可愛い服着たいけど着なれないから躊躇する』って言っているのを聞くと、子どもの頃からとにかく色々着させてあげてもいいのかなって。本人の好みもあると思うんですけど、親が『こんなひらひらしたの』とか言っていると、着たくても着たいって言い出せないのもあると思うんですよ」
由春は、ぽん、と伊久磨の腕を軽くはたいた。
「お前、彼女ができたのか? 娘ができたのか? どっちだ?」
ええと……と言っている伊久磨を差し置き、聖はぱらぱらと図面を見ながら、二枚ピックアップして「これなんかいいんじゃない」と紘一郎や香織に話しかけていた。それに目を落としながら、紘一郎はほんのりと笑う。
「全部ものすごく簡単な案だよ。茶室のある無しで考えてみたり。あと、やっぱり家族の人数によっても変わってくるからね。子ども部屋の数とか。敷地は広いから、平屋でもいいし。階段の上り下りがないのは老後に楽かな……。でも、いまはどこも水害が怖いんだよね。二階があるのもそれはそれでメリットが。この家の裏の川ってどうなんだろう。氾濫しないのかな」
落ち着いた声で紘一郎が尋ね、香織は猫を抱きしめたまま考えながら答える。
「俺の知る限りでは大丈夫ですけど。最近の台風って毎年『十年に一度』とか『前例がない』ですからね。この先はどうかな」
このメンツだし、家に慣れた自分が動いた方いいだろう、と伊久磨は立ち上がる。
「お茶か何か用意します。アルコール飲むならそれでも。どうします?」
全員に聞いたつもりだったが、最初に反応した香織は隣に座る紘一郎に顔を向けた。
「穂高先生、どうします? お酒もありますけど」
「そうだねえ。日本酒を少し頂こうかな」
「じゃあ、俺もそれで。伊久磨、お願い」
見えていたし、聞こえていたが、伊久磨は咄嗟に返事ができなかった。
そこそこ長く同じ家で暮らしてきて、香織の生活ぶりもよくわかっていたつもりであったが。
(……懐きすぎでは?)
わりと、慄く。
香織が心の底から安心しきって、寛いでいる様子を、初めて目にしているかもしれない。
そのくらい、紘一郎に向ける香織の表情は安らかで、どこか甘えていた。
「伊久磨? 俺も行こうか」
返事がなかったせいか、香織が目を向けてくる。猫のぬいぐるみを抱えたまま聞かれて、伊久磨は「あ、いや、大丈夫」とようやく答えた。
「じゃあここは俺が何か軽く作るか。本当は由春働かせたいところだけど、こいつ時差ボケでちょっとおかしいから今日は勘弁してやる」
聖が立ち上がって、伊久磨の背に手をあて軽く促してくる。連れ立って居間を出た。
台所に向かいがてら、聖がぼそりと呟く。
「紘一郎な~。いい奴だけど、突然アラスカとか行くからな」
「えっ」
「マジマジ。風景写真家だから。アメリカのすごい滝の写真撮りにいったり。一緒に暮らすには向かないんだよな~。結局、椿ってさ。ひとりになるのがダメだと思うから、藤崎に頑張ってもらわないと」
どれだけ懐いても、紘一郎は留めておけるひとではない、と言いたいらしい。
(藤崎さん、まだ勝ち目はありますよ、頑張ってください)
紘一郎と出会う前の香織より、かなりハードル上がってますけど、と胸の中で。
その伊久磨に対し、聖は、この上なく小悪魔めいた笑みを浮かべて言った。
「若干気になるのが、由春なんだよな。由春、いま彼女いないだろ」
聞かれて、伊久磨は「おそらく」と答える。
聖は、さらに笑みを深めた。
「あいつの女の好み知ってる?」
お姉さん、と伊久磨はすかさず答えたが、聖は聞いている様子もなく続けた。
「藤崎ってさ、結構、由春のタイプだと思うんだよね。同じ職場で、いつも顔を突き合わせていて、助け合い励まし合い……。これ、恋が生まれるには絶好のシチュエーションだと思わないか?」