攻防戦
座っていてください、適当に作ります。
そう言って、ガスフードのライトをつけ、伊久磨はキッチンで料理を始めた。
すでに来るのは三度目となった伊久磨の住まいは、新築並の外観をしたアパートの一階角部屋。内部はモデルルームのように生活感なく片付いている。
ガラストップのパソコンデスクや、フラップ扉のラック、ワードローブやチェスト。テレビはない。
寝るために帰るだけというだけあって、ベッドはゆったりめのセミダブル。カバーリングがきちんとされている。
部屋に通された静香は、毛足の長いラグマットに腰かけ、ベッドに背を預けていた。
目の前の楕円形ローテーブルの上には、伊久磨が作った自家製サングリアの赤が注がれたグラス。いろんな形状のグラスを試したくなるということで、一人で飲むとき用にいくつか所有しているらしい。皿に関しては「ときどき『和かな』を買ってしまう」そうで、水彩画のような花の絵の入った一点ものを箱から出していた。
ほんとにこっちは気にしないで、先に食べてていいですよ、と作ったそばから運んできて、ローテーブルに並べていってくれる。
バルサミコ酢のかかったサラダと生ハム。小さくカットしたチーズの盛り合わせ。
軽くトーストしたバゲットにはオリーブオイルが添えられていて、メインは殻ごと食べられるソフトシェルシュリンプの白ワイン煮、ゴルゴンゾーラのソース。合いびき肉やベーコンやサラミと豆を赤ワインで煮込んだチリコンカンもある。
(えーと……?)
片付いていたから気付かなかっただけで、この家、結構調味料類まで充実している。
だけではなく。
途中から「やっぱりあたしも手伝うよ」も言えなかった。喉につかえて出てこなかった。
料理を運んでくるタイミングで、「喉渇いた」と言いながらワインに口を付けたり、家ならではの寛いだ様子で立ち働いてはいるが。
明らかに手際が良い。グラスも皿もレストラン仕様で、盛り付けも綺麗。料理男子的な何かでSNSに写真投稿したらファンがつくレベル。
(どういうこと。これ、「料理しますよー♥」って家庭的アピールするその辺の女子より全然できるレベルだよね……。「作れるというほどではないですけど」って言ってなかったっけ。それ完全に、「周りのプロと比べて」の話なんじゃ……)
「味、大丈夫ですか。苦手はないって言っていましたけど」
一仕事終えた伊久磨が、静香の隣に腰を下ろす。寄りかかりたいときはベッドを背にできるので、二人で並んで座った方がいいのだが、距離の近さにはいちいちドキリとしてしまう。
「ぜんぶ美味しいです……。あの……料理かなりうまいよね」
「どうでしょう。ワインとの組み合わせを考えて作ってみるだけで。あと、飲み切れなかった分があるので、どうしてもそういう、ワイン煮込みみたいなのが多くなりますけど」
甘いサングリアではなく、赤ワインを注いだグラスを傾けながら、伊久磨はごくごくなんでもない様子で言った。
「いやあの、これいざとなったらワインバーを開けるレベルだと思う。家も綺麗だし、料理もできるし……」
モテる(確信)。
「片づけるのは椿邸にいたときからですかね。湛さんが怖くて。あと、うちのシェフもうるさいです。片づけられない奴は何やってもダメって言われますから。シェフに言わせると、作りながら片づけられないのと、手で玉ねぎの皮をむく料理人はダメらしいですよ」
「玉ねぎって手でむく以外にどうすれば」
むしろむかないの? と馬鹿なことを口走りにそうなる。
「ペティナイフで。一度ナイフ握ったらあんまり放したくないのかな。動作を最小限にしたいひとです」
「なるほど……」
もはやそれ以外に相槌しようがない。
もそっとバゲットを齧っていたら、伊久磨が肩を寄せてきて、肩と肩がとん、とぶつかった。
「静香は料理するんですか」
はっと見上げると、ほんのりと笑った顔。見惚れそうになってから、バゲットを皿に戻し、テーブルに置いていた自分のグラスに手を伸ばして掴んで、やや早口に答える。
「伊久磨くんを『かなりできる』に位置付けて良いなら、『ふつうかな?』レベルには……。仕事でハーブのことも聞かれるし、一つの鉢にいくつか相性の良いハーブを合わせて販売することもあるし。ヒメリンゴの木の周りに、イングリッシュラベンダーとチャイブとナスタチウム、ローズゼラニウムとか。ナスタチウムはてんぷらにしても美味しいし、チャイブはサラダのアクセントにもなるんだよね。えーと」
思わず、ずらずらと言ってしまってから、味や香りをどう説明しようか、と考えたところで。
「あ、なるほど。合いそうだな。俺、店の庭でハーブ育てているんですけど、今度教えてください。春になったら」
ごく普通に話が通じてしまっていた。
(教えてくださいって言っているけど、たぶん伊久磨くん、すでに詳しいひとだ)
グラスに口を付けて見上げると、物凄く優しいまなざしに見つめられていた。
心臓がばくっと鳴ったところで、手に持っていたグラスを奪われて、テーブルに戻される。
「空だよ。もっと飲みます?」
「う、うん。どうしようかな」
ラグマットに手をついたら、上から手を重ねられてしまった。
「静香……」
あ、これはキスがくるなと動きを止めて待ちの体勢になったところで、不意に伊久磨ににこりと微笑まれる。
「静香はどうしていつも西條シェフの前で無防備なんですか。泣いたり、身体に触れられたり。もしかして、甘えてるんですか」
一瞬の空白の後。
ええーーっと心の中で悲鳴が上がった。
(しまった。すっかり忘れていたけど、気になってないはずなかったーー!!)
反射的に身を引こうとしたが、重ねていた手をがしっと掴まれる。逃げられない。
「目を見て答えてください」
やばい。笑っているのに、目が笑っていない、だ。
「落ち着いて聞いて欲しいんですが。西條シェフは、一ミリも、あたしに興味ないって言ってました!!」
ぎゅっと、握りしめた手に力を込められた。少し痛いが、耐える。伊久磨は笑顔のままだ。
「それ、逆に聞きたいんですけど。どういう流れでそういう会話になるんですか。興味があるとかないとか」
顔から、だんだんと笑みが失われていく。これはもう空気がやばすぎると、静香は焦って身体ごと伊久磨に向き直った。
「それはですね!! あの……、ほら。年末は、タイミングかな~。今日は、恋愛トーク!! 西條さんいきなりあたしの恋愛相談にのるって押し売りしてきてさ!!」
間違いじゃない。完全に正しいことしか言ってない。それなのに、伊久磨には体感温度がガツっと下がるほど冷ややかな声で返された。
「最終的に泣き出して抱かれるわけですか。へえ。俺が目を離したのってそんなに長い時間じゃないと思うんですけど。シェフが手が早いのは間違いないですが、静香にも隙が」
まずい。
(泣いたり抱かれたりとか捏造だよー!! 今日なんか、どう見てもそんな空気じゃなかったよね!?)
焦りながら静香は膝立ちになり、ぐりぐりと身体をねじこむように伊久磨の足の上に乗り上げる。
「君の目は節穴ですか!?」
「かもしれないですね。確かめたことはないですが。目なんか触らないですし。穴かな?」
しれっと返され、ふるふると震えながら、静香は伊久磨の肩をぺしっと叩いた。
「いい加減にしてよ。伊久磨くんはどれだけあたしのこと信じられないの」
言ってから、(信用されない行動とってるのはあたしかなー? んんー?)と思わないでもなかったが、そこはもう押し通すしかないと。
伊久磨は静香の背にそっと左手を添え、右手で頬に触れてきた。
真剣そのものの目をして言う。
「可愛いから心配になるんです。本当はどこかに閉じ込めておきたい。もう誰の目にも触れさせたくない」
可愛いからという発言に対しては「嬉し恥ずかし照れちゃうなぁ馬鹿っプルだよう」ともじもじしかけていた静香であったが、セリフを最後まで聞いて「ん?」と笑顔のまま首を傾げる。
(なんか変なこと言わなかった?)
固まっている静香を、伊久磨は立ち上がりながらひょいっと持ち上げて、後ろのベッドに置いた。
「明日から仕事始めですし、時間もないのでやることはやってしまいましょう」
両手をカバーのかかった布団に押し付けられ、伊久磨に身体の上に乗り上げられたところで(やることとは!?)と焦りつつ「あのですね!!」と声を張り上げる。
「伊久磨くんこそ!! 今日の元カノの件、もう少しあたしに何か言い訳してもいいと思うんですけど!! 言い訳するまで何もしちゃだめです!!」
静香を見下ろしていた伊久磨は、まったく考えてもいなかったように目を瞬いて、呟いた。
言い訳ですか? と。
(ばかーーーー!! 意外そうな顔するなーーーー!!)