稀によくある……
聖が作ったペスカトーレを食べ終えて、聖と静香にコーヒーを出してから伊久磨は「雪かき終わらせます」と外に出て行った。
四人掛けのテーブルで、聖とは斜向かい。
静香がちらっと見ると、聖は目を伏せてマグカップに口をつけていた。窓からの陽光を受け、伏せた長い睫毛が、頬に優美な影を落とす。それでいて、女性的な嫋やかさとは無縁だ。
すっと視線を向けられれば、その眼光の鋭さに射すくめられたように緊張する。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに言われて、静香は自分のマグカップを手で包み込んだ。
「べつに。美味しかったです」
咄嗟にわりとまともなことを答えたのに、明らかに物言いたげな目で見られる。怖い。圧が強い。
「……なんですか」
堪らずに聞き返してしまった。視線は聖の後ろにあるグリーンにさりげなく向けた。
タデ科のシーグレープ。丸い葉がかわいい。耐寒温度は五度以上とされているけど、店がお休みの間はもっと室温下がってたんじゃないかな、大丈夫かな、などとめまぐるしく考えてみる。
引き戻すように、聖にさくっと言われた。
「べつに。変な顔だと思って」
はい?
聞き返すこともできずに固まる静香の前で、聖は悠々とコーヒーを一口飲んでから、もう一度視線をくれた。
「顔に出すぎだろ。蜷川と何があったんだ。当ててもいいけど、当てられたくなかったら言えば?」
なんだこいつ。
と思ったのは、完全に顔に出てしまった自覚はある。偽らざる感情の発露だ。止められるものではない。
「いやあの……。ええ……。なんですか、その、『俺様が悩み相談受けてやる』みたいな……」
俺様とかマジで? と静香なりにプレッシャーを加えるつもりで言ったのに、まったく通じなかった。
「わかってんじゃん。そうそ、ありがたくも悩み相談受けてやるって言ってる。年末、椿邸でみっともなく騒いで、大晦日は蜷川と一緒だったよな。元旦はあいつ、夕方ようやく椿邸に顔見せにきたくらいだから、やることやったんだろ。昨日も一緒だった、と。さすがに夜は家に帰ったのかな。で、今日は朝から……」
どこで遮ろうと思っているうちにどこまでも言われそうで、静香は声を上げた。
「あの!! まるで見て来たかのようにひとの行動なぞるのやめてください!! 大人なので!!」
聖はシニカルな印象を与える笑みを浮かべ、静香をまっすぐに見つめながら「当てられたくなきゃ言えって、先に言った」と一切悪びれなく言う。
「そうですけど。こう……やることやったとか……そういうの、言う必要が」
口に出してから、頬にカッと血が上るのがわかった。
聖はまるで聞こえていないかのように優雅な所作でコーヒーを飲んでから、再び目を向けてくる。
「俺、元妻帯者だぞ。こういう話で変にぐずついたらそっちの方がおかしいだろ。蜷川と何かあったから変な顔してるんだろ? なんだ? 女の影でもあったか?」
とりあえずコーヒーを飲もう、と口を付けていた静香は噴き出しかけた。少ししか飲んでなくて良かった。
「当てるのやめてください」
一方、聖はにやりと笑いながら椅子の背もたれに背を預けた。
「へぇ。そうか……。なるほど。明日東京に戻るってときに、何か不安になるものを見たわけだ」
鎌をかけられただけなのか。だが、当たっていると言ってしまった以上、もはや誤魔化せない。
「ええと……。いわゆる元カノですかね。その、明らかに伊久磨くんに会いにきてました。偶然のふりしていたけど。まあ、あたしも、伊久磨くん、前に誰かいたのかなくらいはうっすら思っていたので、それは別にいいんですけど」
それなりに濁して言ったのに「セックス巧かったんだ」と聖にすかさず言われて絶句してしまった。
何か言い返そうとしているのに、言い返せない。
その静香に向かって、聖は「そういうのいいから、続き。俺べつに齋勝さんに興味ないし。というか同じ年齢なのにそういう反応、こっちが困る」とずけずけと言った。
(同じ年齢……)
年末に一緒に椿邸で過ごしたときに、そんな話も出た。香織も、香織彼女の藤崎エレナもみな同じ年齢だった。
どことなく、自分が一番子どもっぽい気がしてあまりボロを出さないようにしていたのに、完全に見抜かれている感がある。
しかし、いつまでも黙ってられないと頬をぴくぴくさせながら静香は続けた。
「それはともかく。ああ、元カノ、こんなに近くにいるんだなって。お店に来たいって言っていたので、この辺に住んでいると思うんです。あと……なんかこう、伊久磨くんもべつに拒絶はしていないというか。お店に来るなら予約を、と勧めていたので」
思い描いただけで、溜息が出そうになる。
なぜなのか。それでは完全に「会う気がある」と相手は受け取るのではないか。
「蜷川は融通きかないからな。問い合わせを受けたら仕事として答えるだろ。たぶん、それ以上でも以下でもない」
「そうかもしれませんけど。相手、元カノですよ? しかも『一緒にくる相手はいない』って、いかにもフリーですって匂わせていたし。今は伊久磨くんに彼女がいるって聞いた後も、わざわざあたしに聞こえるように『別れた原因は自然消滅』って言っていったんですよ!? これ完全に未練ある感じじゃないですか?」
心の中に溜まっていた疑念が、溢れ出してしまった。
思った以上に真面目な顔で耳を傾けていた様子の聖は、ひとつ力強く頷いた。
「それは俺が聞いてもそう思う」
完全同意に勢いを得て、静香はつい前のめりになりながら言い募る。
「やっぱり!! やっぱりそうですよね!? あたしの思い込みじゃないですよね!! うわ~……。同僚は藤崎さん、お客様には元カノ。伊久磨くんの周りって実は結構……いますよね」
何がとは言えなかったが。
「いるな」
聖にこちらもしっかり同意されて、がっくりとしてしまう。浮かせていた腰を椅子に落として深く溜息をついた。
(女の人が。あたしと付き合う前はたまたまフリーだっただけで……。いや、よくある話なんだけどフリーより『彼女持ち』『既婚者』の方が『余裕がある』って急にそれまでよりモテるのも……)
藤崎エレナに関しては、彼氏であるところの椿香織に頑張ってもらうしかないものの。
聞いたところによると、二人は「一度別れた」らしいので、現在の関係性は謎である。なお、エレナ自身は「途中下車だったから、とりあえず帰ります」と言って大晦日に新幹線の空きを見つけて帰ってしまっている。
「あたし遠距離だよ~。毎日電話するくらいしかできないんだけど……」
俯いた拍子に弱音が漏れる。
聖からは返答がなく、あれ? と思いながら顔を上げた。目が合った。真剣な顔で首を振られた。
「それは逆にやめておけ。蜷川にも生活がある。仕事が終わる時間もいつも同じじゃないし、仕事帰りにどこかに寄れば遅くなる。義務にするとすぐに負担になって、面倒くさくなるぞ」
言っていることは、わかる。静香はなんとか頷いた。
「そうですね」
周りには女性。静香側から出来ることはほぼなし。
(これが遠距離か……)
改めて思い知らされて噛みしめている静香に対し、聖は腕を組んで椅子にもたれかかったまま、不意に穏やかに微笑んだ。
「今日はそんなに遅くならないうちに仕事は終わりにする。言いたいことは本人に全部言っておけ。あいつ、言わないとわからないままだぞ」
「みんな言うから、たぶんそうなんですね。あ、片づけます」
聖が立ち上がりながら皿に手を伸ばしたのを見て、静香も慌てて立ち上がる。
その拍子にテーブルの脚に足がひっかかって、よろめいてしまった。
「おっと」
ちょうどそばに立っていた聖が軽く抱き留める。
身に着けていたコックコートの胸元から、スパイスのような香りが立ち上る。
腕や胸の感触が、伊久磨とは少しずつ違う、なあと。
考えた瞬間、そんな自分にびっくりして固まる。
何かにつけて冷血な印象のあった聖の腕に、人間らしい温もりがあったことにも動揺しながら、大げさなくらい身を引いた。
「すみません!! 気を付けます!!」
「おい、また転ぶぞ」
一度手を離した聖だが、危なっかしいと思ったのかまた静香の腕を掴んでくる。それだけで顔が真っ赤になるのがわかった。
伊久磨を思い出したり、比べたり、「知らなかった」ときに比べて意識の仕方がえぐい。
一人で焦っている場合じゃないのに、と思いながら言葉を探しているとき。
カタン、と音がした。
聖が、奇妙なほど優しくにっこりと微笑む。
その笑顔を間近で見上げてから、静香は恐る恐る背後を振り返った。
そこには予想をまったく裏切らず。
一切笑っていない伊久磨が立っていた。