その目が見ているもの
喫茶「セロ弾きのゴーシュ」を飛び出して、スマホで西條聖に電話をかけつつ、椿屋に向かおうとしたところで、同じように上着も着ないで道を走ってきた男に出くわした。
束ねた長い黒髪をしならせ、青い瞳で伊久磨をみとめるや否や、空恐ろしいほどの愛想の良さで挨拶をしてくる。
「Guten-morgen!」
連絡が来ていると了解して、伊久磨は「おはようございます」と返した。
有無を言わせぬとばかりに続ける。
「年末一度キッチンに入っていてもらって良かったです。よろしくお願……」
ガツっと胸倉を掴まれた。
来るかな、と思っていたが避けられなかった。早い。
「あいつ馬鹿なのか。馬鹿なのは前からだが、自分の店だぞ!? 年始でオーナーシェフの顔見に来るお客様もいるだろうに、満席で予約取っておいて何やってんだ馬鹿なのか!!」
伊久磨の後から、二人分のコートやジャケットを持って出て来た静香が「何やってんの!?」と悲鳴を上げる。走ってきて、ばさっとコートを取り落とし、聖の腕に手をかけた。
ほぼ、反射的に。
静香をきつく睨みつけてから、聖は手を離した。
伊久磨は乱れた胸元を手で軽く整えながら、静香に向かって落ち着き払って言う。
「大丈夫です。仲良死なので。ただの挨拶です」
それから、改めて聖に目を向けた。
「いないものはいないので。NG食材のあるお客様はいなかったと思いますが、確認します。ランチのメニュー、西條シェフの裁量で決めてください。食材もそれに合わせて仕入れます。申し訳ないんですが、冷凍庫の中身、俺は把握していません。パティシエの真田は有休使わせています。どちらにせよ真田は明日、東京の店に挨拶に行く予定なので、岩清水シェフの件は伝えません。ひとまず『海の星』の鍵は俺が持っていますので、一緒に」
待てをされた猛獣のように耳を傾けていた聖は、顔をしかめたまま「それしかねーな」と忌々し気に応える。それから、渋面のまま言った。
「市場は」
「閉まっています。魚介類の調達は厳しいかも。海老とか、ランチに使えそうなものなら冷凍庫にあるかもしれませんが」
「ああ……。由春の得意はそっちだもんな。俺はイタリアンがいいな。シチリア料理でいくか……? とりあえず確認からか」
淡々と話を進めていく二人を見ながら静香は「えーと?」と説明を求めるように愛想笑いのようなものを浮かべた。
気づいた伊久磨は、まったく説明していなかったことを今さら思い出す。
由春の電話を切って「ちょっと出ます」と言って飛び出してきただけだ。静香は事情が呑み込めていない。伊久磨は、申し訳ない思いとともに言った。
「結構しっかり仕事になりそうです。終了時間も目途がつきません。付き合わせるのも申し訳ないような……。どうしましょう。必要であれば家にお送りします」
静香は張り付いたような笑みを浮かべたまま、伊久磨を見上げた。
「あたし明日東京戻るし。もう時間あんまりないから。邪魔じゃないなら一緒にいたい」
その心中に思いを馳せることもなく、伊久磨は翌日の営業のこと、オペレーションを頭に浮かべながら頷いてみせた。
「もちろん、邪魔ではないです。本当にお構いできないんですが、それでよければ」
* * *
「そっか。ゆきいないんだ。男手がないの忘れていた」
伊久磨の車で「海の星」に向かったが、駐車場は雪に埋まっていた。ひとまず店の前に車を停めたものの、門から入口までの道も、敷地すべてに雪が積もっている。そういったすべてを見て取って、伊久磨は何かを諦めたように呟いた。
「雪かきからだね」
助手席に座っていた静香が声をかけると、伊久磨はとても申し訳なさそうな顔を向けてくる。
「一日仕事になります。静香……」
今にも、家に送りますと言い出しそうなのを見て、静香は慌てて言い募る。
「大丈夫、大丈夫。あたしも手伝うよ。中でやることたくさんあると思うし。駐車場の雪かきくらいなら、単純労働というか。隅に寄せておけばいいかな」
「かなり大変ですよ」
「いいから」
後部座席に腕を組んで座っていた聖は「使えるものは使え。時間がない」と言い切った。
伊久磨の表情には、まだ迷いがある。
静香は、聖がいるのを気にしつつも、なるべく伊久磨の負担にならないようにと笑って言った。
「いいんだよ~。そばにいるときは甘えてくれて。困ったときはお互い様」
変なことを言ったつもりはないのに、伊久磨の顔がはっきりと暗くなる。そして、溜息を堪えているように重々しい声で言った。
「仕事は別です。甘えるところじゃない。ごめんなさい、アクシデントがあったとわかった時点で、今日の予定は変えておくべきでした。これじゃ、巻き込んだだけだ」
巻き込まれても構わない。
むしろ一緒にいる時間が大切だし、役に立てるなら嬉しい。
そういった言葉は、届かないような気がした。
仕事が絡むと、伊久磨の口調は厳しくなる。
(岩清水シェフの不在もあるのかな……。西條シェフがいるとはいえ、パティシエくんも抜ける。新年早々顔ぶれがいつもと違い、味も「海の星」じゃない、と言われてしまうのはプレッシャーか……)
たかが一日じゃない。
彼にとっては、きっと一日一日が、失敗の許されない、ものすごく大切なものなのだ。
わかっているつもりだったが、改めて目の当たりにすると、心臓がぎゅっと痛くなって全身が強張る。
「海の星」というレストランは、オーナーシェフ岩清水由春の腕があっての人気であるのは間違いないが、それだけではないはず。
たとえば、建物。特徴的な洋館であり、内装にはアンティーク家具がふんだんに置かれている。そういった空間の贅沢さも選ばれる理由のひとつだろう。
それは、この場所に根付いたものだ。
同じ職種なら、どこで働いても良いんじゃない? とは、少なくとも静香から気軽に言えることではない。改めて突きつけられる。
(当分、遠距離だよね……)
先が、見えない。
「遠慮し合っていても仕方ない。明日お客様をお迎えする準備は進めないと。齋勝さんが手伝ってくれるなら手伝ってもらうでいいだろ。昼と……、もしかしたら夜もか。俺が美味いもの食わせてやるから。楽しく働いて、早めに切り上げるぞ。二人の最後の夜の時間は確保できるように」
迷いを振り切れないらしい伊久磨に、聖がさばさばした様子で言って、車を下りて行く。
「西條シェフ……」
エンジンを切りながら、伊久磨がぼやいた。その様子を見ながら、静香もせめて明るく言った。
「大丈夫大丈夫。この状況を見て、家で炬燵に入ってテレビ見ている方が辛いから。一緒にやって、早く終わらせよう」
ようやく苦笑を浮かべた伊久磨は、運転席から優しい眼差しを向けてから頭を下げた。
「すみません。ありがとうございます。よろしくお願いします」