アクシデント(稀によくある)
ふくよかなコーヒーの香りが鼻腔を通り抜けて肺を満たしていく。
雪降る外から踏み入れた店内は、ホッとする温かさだった。
少し薄暗い中、白い筒型の灯油ストーブのガラス窓に、揺れ動く炎が見える。
カウンターの奥へ目を向けると、見覚えのある灰色髪の青年。グラスを拭いていたが、ずれかけた眼鏡の奥から視線を投げかけて来る(たぶん。髪に隠れてよく見えない)。
「よ。あけまして」
必要最低限。省エネ挨拶。
蜷川伊久磨は、くすりと笑みをこぼしてカウンターへ近づいた。
「今年初めてですね。あけましておめでとうございます。こんな年始から働いているなんて、実は樒さんはすごく働き者なんだ」
一月三日。
心の底からの賞賛だったが、「実はってなんだ、実はって」と耳敏く聞き咎められる。
構わず、伊久磨は身に着けていた黒のダウンジャケットを脱ぐ。樒の目の前の位置の椅子をひいて、隣の椅子にジャケットを置きながら腰を下ろした。
「年末に来たときには、見たことがない女性が留守を預かってました。東京にお出かけだったそうで」
樒の視線が、ちらりと伊久磨に向けられた。
首元。
白いシャツの襟が、黒のvネックセーターからのぞいている。ただの白ではなく、襟が太い赤い糸で大雑把に縁どられたデザイン。ボタンも赤い糸で留められていて、アクセントになっていた。
見られていることに気付いた伊久磨は、にこりと笑って、軽く襟に指で触れた。
「これ、樒さんのアドバイスだって聞きました。サイズはたぶん同じですよね。樒さんと」
彼女である齋勝静香からの、遅めのクリスマスプレゼント。
「そうだな。あと、色」
ぼそっと言い返されて、伊久磨は笑みを深める
「俺が普段黒ばかりしか着ないから、敢えての白と。差し色は、車が赤いから、赤なら間違いないと思ったと聞きました」
黒しか着ない理由は、聞かれてもいつも適当にはぐらかしている。サイズがあまりないので、買い替えのタイミングで悩まなくていいように同じものばかり買う。仕事着を兼ねているので印象を統一したい。
どれもこれも嘘じゃない。
黒しか着なくなったのが、家族の事故以来というのは些細な理由だ。
「そうそう、お前黒ばっかだから。なのに車が真っ赤のワーゲン。なんでだ」
注文も聞かずにコーヒーの準備をはじめた樒が、細口ケトルをコンロにかけてお湯を沸かしながら聞いて来る。
「べつに。冬道で転落しても見つけやすそうな派手な色にしろ、出来るだけ頑丈な車がいい、とか。周りがうるさかったので、その通りに買いました。それでいて、赤い車は後続車を興奮させるから追突されるぞ、なんて闘牛みたいな話してくるひともいるし。バックモニター、車載カメラその他諸々フル装備ですよ」
「まあ、それで正解じゃね。事故はなァ……」
語尾が掠れて消えていく。伊久磨に配慮したわけではなく、樒自身が会話に興味を失って打ち切った様子だ。よくある。慣れているので全然気にならない。
コーヒーが出て来るのを待ちながら、伊久磨は本題を切り出した。
「うちの店は明日からなんですが、お願いしていたコーヒー豆引き取りにきました」
「おう。出来てる。明日からって、予約は入ってんのか?」
やる気があるのかないのかよくわからないなりに、樒は依頼仕事に手を抜いたことはない。味もオーナーシェフである岩清水由春が認めているので、腕は良いらしい。
「ランチは満席で取り切ってます。今日の午後からシェフが仕込みを始めるみたいですけど、材料揃えたりなんだり手間なので、夜は取っていません。本格的な営業は明後日からです」
年末に冷凍可能なもの以外は使い切っているし、仕入先にもまだ正月休みのところがある。初日は無理しない程度で、というのは例年通りの方針だ。
由春は出勤だが、伊久磨は名目上休み。ただ、こうして馴染みの店に回って、挨拶がてら品物を引き取って歩くことはあらかじめ由春に伝えてある。
ふわっと湯気とともに、ひときわ豊かな香りが立ち上った。
目の前に出されたコーヒーカップに、「ありがとうございます」と言って手を伸ばす。
そのとき、引き戸がからりと開いて、白いコートを身につけた、すらりとした人影が店内に飛び込んできた。
音につられて目を向けた伊久磨は、笑みをこぼす。相好を崩した、ともいう。
「静香。おはよう」
「おはよう。和明さんもおはようございます、あけましておめでとうございます!」
忙しなく言いつつコートを脱ぎながら歩いてきて、伊久磨の横に腰をおろす。
「朝ご飯は食べてきた?」
「ああ、うん。お餅たくさんあるからって。あと、なんか、すごく、聞きたそうにされて。聞きたいけど聞けない感じで世間話がずーーーーっと。うちの親、あたしにあんなに興味示したの久しぶりじゃないかな」
さらりと言ってから、ふっと息を吐き出して声を立てずに笑う。
「まあそうですよね。東京じゃなくてこっちに交際相手がいると聞いたら、気になると思います」
どういう繋がりの相手なのかとか。何をしている人間なのかとか。
将来的に、どうするつもりなのか。拠点をこちらに移すために、東京から戻って来る予定はあるのか。
親であれば、本人に聞きたいことも、それによって考えることもたくさんあるだろう。
(べつにいつ挨拶に行っても俺は良いんだけど……)
それで相手が安心するなら、顔を見せるくらいなんてことはないと伊久磨自身は思う。
とはいえ、静香との関係をこの後どうするか、具体的には遠距離恋愛をどう進めていくのか。その辺は本人との間で詰めていないだけに、親から追及されてその場で話を合わせて誤魔化すことはしたくない。
もっと言えば、静香が東京に帰る前日という微妙なタイミングで顔を合わせ、親がまったく伊久磨を気に入らなかった場合。
二人が会えない間に、「別れろ」と静香に言い続けたり、或いは伊久磨自身に働きかけられたりするとかなり厄介な状態になるのが目に見えている。
それだけに、いまは動きにくい。
伊久磨はコーヒーを一口飲んでから、静香の方へ視線を流した。
「今日はこの後、何軒か仕入れ先を回って『海の星』に行くと、昨日お話した通りです。シェフに挨拶したら午後は時間があるはずです。そこまでお付き合い頂いてすみませんが」
「ううん、いいの。こっちにいるときはなるべく一緒にいたいし。仕事の邪魔にならないなら良かった。『海の星』に行くなら、あたしもグリーンの様子見るし」
「ありがとうございます。お礼はシェフのピアノかな」
勝手に由春を働かせる旨を告げてから、ふとコートの上に置いていたスマホが震えているのに気づく。
何気なく手を伸ばして、由春からの着信であるのを確認し「少し、ごめんなさい」と断って立ち上がった。
外まで行くと寒いので、他に客のいない店内の隅に移動がてら通話にする。
「はい。あけましておめでとうございます」
今年最初のコンタクトなので、まずは挨拶。
その伊久磨に対し「あけましておめでとう」と電話の向こうから返してきた由春が、続けて言った。
「悪い、まだドイツ。電車の遅延で空港につくのが遅れて飛行機乗れなかった。明日中には帰りつく予定だけど、今日は無理」
仕事の話なので。
伊久磨は理解に時間を要することなくほとんどノータイムで言い返した。
「明日のランチの予約取り切ってますけど? マジで言ってんですか?」
マジ。ごめん、無理。
電話の相手は悪びれなくそう言った。