表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
16 告白
108/405

寒い夜だから

 冷え切った部屋。


 前日から椿邸に泊まり込んだ伊久磨が使っているのだろう、畳まれた布団が一組。

 布団によりかかれる位置に静香を下ろしてから、伊久磨もすぐ横に、長い足を持て余したように片膝を立てて座り込む。

 それから、ふと思い出したように立ち上がって、藍染のカバーがかかったティッシュの箱を拾い上げて戻り、差し出してきた。


「ありがとう」

 受け取って、何枚かまとめて手にして顔をゴシゴシ拭く。

 本当に、涙脆い。涙腺が壊れているみたいだ。

(泣くような場面じゃなかった。というか、泣いちゃだめだって)

 思い出しただけでまた涙がじわりと滲んできて、慌ててティッシュを目に押し当てる。顔を上げられない。


 静かだ。物音が聞こえない。雪が降っているのかもしれない。

 暗い夜を埋め尽くす雪の白。

 凍えるほどに澄んだ空気の中、地上の音は、月も星もない無限の夜空に吸い込まれていく。


「香織は……」

 連れ出されてしまった後のことがわからずに呟くも、返事はない。

 その事実が、重くのしかかって来る。

(まただ。間違えた)

 こういう一言で、自分は隣にいるひとを傷つけてしまう。考え無し。

 思い切って顔を上げると、見られていた。

 伊久磨の黒い瞳の中に、おどおどとした気弱そうな自分がいた。


「香織のことは、藤崎さんがなんとかすると思います。別れたくないって言ってました」

 感情のうかがい知れない声だった。

 静香はそれだけで怯んでしまう。別れたくない、ならば。きっと最悪の光景だったはず。自分と香織の間に何かがあったのは、はっきりとわかったはずだ。

(許せる? あたしのことは許さなくてもいい。だけど、香織のことは……)

 迷いが表情に出てしまったらしい。伊久磨には今一度念を押すように言われた。


「香織離れの時期です。香織のことは、香織の彼女がどうにかします。手出し無用ですよ。この先、静香と香織は付き合うことも結婚することもないんです。そろそろ、責任とれる人に渡しましょう」

 責任。

 どくりと、強い鼓動に胸が痛む。

 どんなに思っても、そういう形で静香は香織の力にはなれない。傍にいることができない。


「でも」

 考える前に口にしてしまってから、後悔した。

 伊久磨はさっと表情を消してしまった。

「まだ香織の話を続けますか。他に、俺と話すことはないんですか」

(傷つけている)

 何を言っても、裏目に出てしまう。

「話すこと……」

 口の中で繰り返してみるも、頭の中には何もなかった。


 諦める。

 何か言うのは。

 代わりに、倒れこんだ。

 伊久磨の、立てた膝と胸の間。膝枕を強請るように、ぐいっと身体を割り込ませる。


「疲れた」

 わがままを言う。

「良いですよ。いくらでも甘やかします」

 伊久磨は、足を延ばして静香の居場所を作った。

 少しパサついた金髪に指を絡め、梳くように撫ぜる。

 その指の感触や、首や肩が伊久磨の一部と接しているのが心地よくて、静香は目を閉ざした。


「本当に本当に、疲れた。疲れました。考えることがたくさんありすぎて」

「俺のことは? 少しは考えてくれました?」

 すかさず聞かれて、静香は目を見開いた。

「もちろん。たくさん」

 見下ろしてきた伊久磨は、唇に笑みを浮かべて「そう?」と聞き返してくる。


「うん……。『今何してるかな、仕事かな』とか。『今日電話してもいいかな、飲んでるかな』とか。毎日ずっと考えてる。会えないけど、声だけでも聞きたい、だけど本当は会いたい、そういうの」

 言いながら、不安になって起き上がる。身体のどこも伊久磨と接していないのが妙に心許無くて、伊久磨の足を跨ぐように乗り上げる。

 まっすぐ見て来る瞳を、見つめる。


「気付いていないみたいだけど、あたし物凄く伊久磨くんのこと好きだからね」

 また、そう? なんて余裕いっぱいに返されるんだろうなと思いながら。そうしたら、しがみついて唇を奪ってやる、そのくらいのつもりで。

 伊久磨は、静香の向こう、どこか遠くを見るような不思議そうな目をしていた。少ししてから、我に返ったように静香の目を見つめてきた。

「それ……気付いていいんですか?」

「ええと? むしろ気付いて欲しいから言ってますけど」

 どういう返しなんだろう? と思ってまじまじと顔をのぞきこんでしまう。

 伊久磨は、苦笑を浮かべてから、ふっと息を吐いた。


「そういうこと言われると、困ります。今は時間があまりないので」

「時間?」

「はい。さすがに、ここで一時間も二時間も過ごすわけにも。西條シェフがしびれを切らして怒鳴り込んできますよ」

「俺の飯が食えないのか、とか?」

「そうですね。なので、その話はまた時間があるときにゆっくりと」

 にこやかに言われて、ぽんぽん、と軽く撫でる程度に腕を叩かれる。

「下りてもらっていいですか。涙が落ち着いたら向こうに戻るつもりでしたので」

 ずいぶんとあっさり。

 はい、と言いながら静香は伊久磨の足の上から下りた。そのまま、畳に座り込む。

(流された?)

 また?

 と、自問自答していたところで、伊久磨が向かい合う形に座り直してきた。


「まだお伝えしていなかったことがあるんですが」

「はい」

 反射的に、静香も座り直して正座になり、返事をする。


「静香のことが好きです。お付き合いをして頂きたい。受けてくれますか」

 伊久磨を見上げたまま、静香はぼんやりとして言った。

「……付き合ってるよね?」

 記憶が確かならば。

 だが、伊久磨はそれを肯定することなく、断固とした口調で続けた。

「あの時は、好きとは言っていません。好きだったとは思いますが、本格的に好きになったのはここ最近です。なので、クリスマスまでのお付き合いに関しては一度不問にしてください」

 その発言の裏には、おそらく。

 俺も不問にします、という一言が。


 ――あの朝香織との間にあったことを追求する気はありません。付き合う前のこととして不問にします。


 言葉にはしない思い。ぎりぎりの、精一杯の譲歩。

 静香は、伊久磨の目を見つめてなんとか気持ちを伝えようと焦って言い募る。


「あたしも伊久磨くんのことが好きです。付き合ってほしいです。あと、最近気づいたんですけど、結構心配性で、嫉妬深いです。伊久磨くんが他の女の人に優しくしているのを見ると、すごくもやもやします。藤崎さん……と、これから同僚になるのかと思うと、もうものすごく心配です。なるべく伊久磨くんと会いたいし傍にいたいし、一緒にいたい。あんまり、離れたくないです……」

 遠距離だから、無理なのだけど。気持ちの上では。


 言っている途中で、伊久磨の顔から段々と微笑みが消えてしまった。

(また? また間違えた?)

 真剣に話しているのに、何がだめだったのだろう、と思わず手を畳について前のめりに近づいたところで。

 無理、という呟きが耳を掠った。

 次の瞬間には膝立ちした伊久磨に抱きすくめられていた。


「いい加減にして欲しいです。どういう顔して向こうに戻れば」

 そのまま、ふわりと畳の上に横たえられた。

 顔の両脇に伊久磨が手をついて、切実そうな顔で見下ろしてくる。


「二人でここに下がった時点で、何もないとは誰も思っていないでしょうから。少しだけ」

 投げだしていた静香の両手に手を重ねて、指を絡めながら、囁いた。


 少しだけ、恋人になってから、戻りましょう、と。


 * * *


「藤崎」

 透る声に呼ばれて、エレナは顔を上げた。

 束ねた長い黒髪を肩に流した、青い目の青年と目が合う。


 香織は紘一郎に任せて、聖の台所仕事を手伝っていたときのこと。

 聖は、台所の片隅に置かれたダイニングテーブルに皿を並べながら、ふわりと笑って言った。


「さっきの、面白かった。言うよなー、相変わらず」

「さっきの……。まあ、そうね。その、直前に蜷川さんからああいう話を聞いていたし。聞いていたんでしょ? 西條くんも」


 ――彼女には、他に好きな相手がいるんだと思うんです。ただ、その人とはどうしても付き合えない。そこを、吹っ切りたい思いがあったのかなと。あとは、相手もですね。たぶん、静香のことが好きなんだと思います。だけどとにかく、付き合うことはできなくて。膠着状態です。いっそどちらかが恋人を作って、きちんと幸せになれば、相手も諦めがつくかなと。そういう関係みたいで


(聞かなくても、わかった。誰と誰のことを言っているのか)

 二人の間に、何かがあったのだということも。


「藤崎はさ、そういうの平気なの。気にならないわけ?」

 面白そうに笑う聖に問われて、エレナは視線をさまよわせた。そして、小さく溜息。


「気にしても仕方ないから、気にしない。何か理由があって、どうしても付き合えない二人がいるというのなら、そこの関係に遠慮して身を引いてもあまり意味がないもの。誰も幸せにはならないでしょう? 私は『あなたが嫌いだから付き合えない』と言われたわけではないし。だったら、好きでもいいかなって。あとは、振り向かせるのみ」


 他に何を用意すれば? と聖に声をかける。鍋は三つもあるし、台所中良い匂いがしているし、とにかく色々作っていたらしい。


「たしかに、あの家主はちょっとね。ひとりにしておかない方がいい空気だし、同居くらいでちょうどいいのかな。仕事はいつから来れるの?」

「そうねえ。意外と有休はちゃんと使ってきたから、一月の半ばには引越しも全部終えて次の職場でもいいんじゃないかな」

 答えてから、エレナはふと何か引っかかったように聖を見た。


 来れるの?


 まるで招く側みたいな言い方をする、と不思議そうに見たエレナに向かい、聖はにこりと笑って言い切った。


「ちょっと由春の腕の衰えが心配になっちゃって。『海の星』のシェフの岩清水ね。鍛え直すために、勉強会兼ねて少しの間ここに滞在することにしたから。俺もこの家に住ませてもらうつもり。よろしく」


 ぐつぐつと鍋の煮える音と、あたたかな湯気が、にわかに人の増えた椿邸の夜をやわらかく満たしていた。

第16話「告白」はこれにて終了です。




おしらせ。

この第16話のアフターSS的位置づけとして、ムーンライトノベルズ(R18)に「恋人になる午前三時」という作品も公開しています。18歳未満の方はご覧いただけないのですが、もしご興味抱かれた方がいらっしゃいましたらぜひ。



さてさて。

今回のエピソードで少し恋愛面は落ち着いたのかな? と思いつつ、

香織と藤崎エレナさんは「付き合う前に逆戻りだけど同居はする」「なぜかそこに西條シェフもいる」ということで、にわかに「海の星」の社員寮と化す椿邸。


一方、レストラン「海の星」としては幸尚が抜けますし、心愛も無理ができない状態。一時的に大変な戦力減。

このあとは……、あ、和嘉那さん(と、心愛)の出産も控えていますね。

あと、皆さんが読みたいかどうかわからないのですけど(不安な作者)由春の恋愛パートも……うっ。どうなんでしょうか……?



いつもブクマや評価、感想ありがとうございます。

わたしは結構ひねくれた書き手を地でやってきたので「感想なくても自分、書くだけなんで」と、無頼を気取る傾向がありましたが、ステラマリスに関してはこれだけの感想がなくてはここまで書けなかったと本気で思っています。ありがとうございます……(涙)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 「静香のことが好きです。お付き合いをして頂きたい。受けてくれますか」 のセリフにガチで泣きました( ;∀;) なんでだろう? もともと涙腺は弱いんですけど、、、 真摯な言葉と向き合い方に…
[一言] 謎メールは、私も自分で出したり、もらったりした事が何回かあります。 書いた本人としては、なぜか完璧だと思っているのが自分でも恐ろしいです。 というかテレワークになってから、仕事のやりとりで…
[一言] ようやく一つの方向になったと思うような感じもあるのですが、本当にそうかなと首をかしげてしまう。 一番よく理解できないのが香織の心情。 恐らくこうかなと思うものはあるのですが、確証を得られず…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ