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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
16 告白
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恋人たちの決断

 伊久磨とすれ違った香織は、居間の炬燵のそばに正座をしていたエレナの前に膝をつき、同じように正座をして向かい合った。


 強張った顔のエレナに対し、ゆっくり頭を下げる。

「ごめんなさい。藤崎さん、せっかくここまで来て頂いたんですが、俺はもうあなたとお付き合いする資格がありません。別れてください」

 膝に手を置いたまま、エレナは香織を見つめていた。

 何も言わない。

 やがて、恐ろしく緩慢な仕草で頭を下げた。


「ありがとうございました」


 静香は、ふらふらと歩いて近づき、エレナの横にぺたんと座り込んだ。

 口の中が干上がっていて、声を出すのに難儀しながら、掠れ声で言う。

「違う。ちがうから。ちがいます、誤解しないで……。香織は悪くないんです。あれはあたしが……」

 視線を感じる。

 伊久磨が見ている。

 喉がつかえて、唇が震える。

(言わないと。香織のせいになっちゃう。なんて言うの? 「あたしが誘惑しました」かな? 誘惑……)

 目の前のエレナと自分は全然違う。女らしさのようなものが、敵う気がしない。「あなたが?」なんて言われないだろうか。静香は、体つきだって男と言い張れるような色気のなさで、「誘惑」できる要素が何もない。

 そんなことぐるぐる考えているうちに、目が熱くなってきた。じわっと涙が滲んできた。

 ばか。

 いまは泣いている場合じゃない。わかっているのに。

 涙がぼろりとこぼれてしまう。


「別れないでください……。香織は悪くないので。香織を捨てないでください。お願いします」

 言い訳らしい言い訳が出て来なくて、ただ頭を下げた。

 下を向いた瞬間、涙がぶわっと溢れ出す。もう、顔を上げられない。しゃくりあげそうになるのを、必死に堪える。

「静香、やめて。静香は何も悪くない。悪いのは全部俺だ。本当にごめん。辛い思いをさせた」

 香織の声を、背に聞く。

 俯いたまま、歯を食いしばって嗚咽をやり過ごし、静香はゆるく首を振る。


「あたしは大丈夫。ごめん。香織に何もしてあげられなくて。香織のことが大切なのに、あたしは役に立たない。いつも助けてもらってきたのに、全然、守ってあげられない……」

 近くに、気配は感じるが、香織が触れてくることはない。

 たぶん、きっと、この先も、ずっと。

(香織は二度とあたしに触れない。過ちは、最初で最後。たった一度)


 それなら、二人だけで、死ぬまで背負っていけばよかったのに。他のひとに言う必要なんかなかった。


 そう思う一方で、これしかなかったのもわかる。

 秘密を抱えて素知らぬふりができるほど、二人とも強くない。伊久磨を、エレナを、互いの恋人を引きずり込んで、同じくらい傷つけて、ようやく理解できる。


 分かち難く「特別」な絆で結ばれた関係が、陽の下では認められぬものだということ。

 多くを望んでいなかったとしても、「恋人」を得るならば、その時点で優先順位は下げなければ。

 いつまでも、出会った頃のように、名前のない関係に甘んじて寄り添っているわけにはいかない。


(伊久磨くんや藤崎さんの目には、どう見えるんだろう)

 かばい合いながら墜ちていく。泣きながら謝るしかできない二人の姿は。

 肩に手を置かれた。大きな手。


「気が済みました?」

 咄嗟に。

 何を言われているのか、わからなかった。気が済みました?

 言葉が出ないうちに、足の下に腕を差し込まれ、浮遊感とともに身体を持ち上げられた。

「……!?」

 驚いて、間近な位置にある伊久磨の顔を見つめる。涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔で。

「あとは俺に時間をください。香織、奥の部屋借りるから。近づくなよ」

 静香にはいつも通りの話し方で、けれど断るのは許さないとばかりの断固たる強さで。香織にはさらに、有無を言わせずに告げて、歩き出す。


「ちょ」

「暴れても無駄です。絶対離さない」

 言葉通り、身動きもできないほど抱きすくめられていて、静香は抵抗をやめた。そのまま、暗い廊下を通って、以前来たときに朝まで過ごした部屋へと連れ込まれてしまった。


 * * *


「穂高先生。ホテルってまだキャンセルしていないんですか」

 伊久磨と静香が去った後、エレナは隣室との境目に立っていた紘一郎に声をかけた。


「はい。到着時間がよめない、キャンセルするかもと連絡は入れていますが。すでに宿泊費は決済済みですので、移動するのであれば」

 丁寧な口調で答える紘一郎に対し、エレナは一つ頷いて言った。


「キャンセルでお願いします。私、この家に今日から住ませてもらうつもりなので」

 静まり返った中、聖だけが笑いを堪えるように口元に拳をあてて、横を向いている。

 エレナはそんな聖に明らかに気付いていたが、しれっとした様子で香織に向き直った。

 顔を上げていた香織は、反応しそびれてぼんやりとした顔でエレナを見つめていた。


「下宿……というのでしょうか。仕事を辞めて、こちらに引っ越してくると決めたんですけど。蜷川さんが住むならここが良いって。部屋が余っているとか。家賃や光熱費は入れますので、どうぞよろしくお願いします」

 深々と、頭を下げる。

 エレナが顔を上げた後も、香織は固まったままであった。

 かなり遅れて「えっ」と声を上げる。


「うち!? ここに住むの!?」

「そのつもりなんですけど。それとも家主さんは私を追い出すんですか、この寒空の下」

 エレナは、やや責めるような口調で言ってから、ぼそりと付け足した。

 凍死しちゃうな、と。


「いや、さすがに今日は追い出さないけど!? だってこのうち、普段俺が一人で住んでるよ!? ……ええと、いまの話聞いてた? 別れたよね?」

 ああ~、とエレナは感心したように二、三度頷く。反応としては、かなり軽い。見ていた香織が壮絶に不安を覚えるほどに。

 何も伝わっていないのでは? と。

 果たしてエレナは、どこをとってもそつのない調子でそっけなく言った。


「別れると言っても、ほとんど付き合っていなかったようなものですし。むしろここからだと思うんです。一緒に暮らすというアドバンテージを得て、どれだけ距離を詰められるか」

 思わずのように、香織が身を乗り出した。


「あのね!? 田舎の旧家を舐めないでくれる!? 年頃の男女が二人で一緒に暮らしていたら完全に結婚だよ!? 結婚だからね!! 本人同士がどれだけ否定しても、取り返しがつかないくらい結婚だから!! うちに暮らすって、そういうことだよ!!」

 自分でもどうにもできないくらい、動揺している様子である。一方のエレナといえば、もはや眉ひとつ動かさぬまま、わざとらしく小首を傾げてみせた。

「蜷川さんも暮らしていたんですよね?」

 香織は思いっきり眉をしかめて早口に言う。


「あれ男!! さすがに、あれを嫁にしろというひとはいなかった!! あれよりかはむしろ湛さん……いやいいんだけど。でもとにかく、藤崎さんは完全に嫁!! そういう扱いになるから!!」


 エレナは、腹を抱えて笑い出している聖に顔を向けて口を開く。

「鷹司くん、聞いた?」

「今は西條だよ。結婚式も葬式も来ただろ? で、はい、聞いた」

 旧姓を呼ばれて、しっかりと訂正を入れてから、聖は力強く頷く。

 念押しするように、エレナは続けた。


「結婚とか嫁とか。私、いま一生分のプロポーズされているみたい」

 えっ。

 香織の笑みが、不自然なまでの愛想の良さを漂わせたまま、強張る。


「わかんないんだけど。どうしてそういう話になるんだ……? 別れ話していたような……?」

 口元に手を当て、遥か昔の記憶を掘り起こすように追憶に浸る様子を見せていた。

 エレナは、その香織に構わず、両手で何かを横から横へ移動するような仕草をして見せた。

「それはそれ、これはこれ。私はもう転職も転居も人生設計に入れてしまったので。ついでに住む場所も決めました。たまたま土地建物に夫になるひともセットの物件だったみたいだけど、ま、いいかな、みたいな」

「それは誰がいいの!? 俺は!? 俺はセット販売の食玩的な何か!?」

 売り言葉に買い言葉とばかりに香織は言い募ってはみたものの。


 不意に、エレナの真摯なまなざしに射すくめられて動きを止める。

 止めさせた上で、エレナはきっぱりと言い切った。


「私、香織さんのこと好きなんです。まだ諦める気はありません。ふつつかものですが、どうぞよろしくお願います」

 淑やかに頭を下げる。

 向かい合って正座をしていた香織も、居住まいを正してつられたように頭を下げた。

 それから、「いや、だけど」と顔を上げて何か言おうとしたが、エレナが先手を打った。

 艶やかに微笑みながら。


「逃がすつもりないので、よろしくお願いします。逃げ場ないですけどね。そもそもここ、あなたの家ですし。観念してくださいね」


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