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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
16 告白
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心が痛いね

「本当に、ついさっきまで誰かいたみたいな空気ではあるんですが。そんなに急に必要なものなら、言ってくれれば途中で買って来たんですけど」


 ――買い出しに出て来る


 椿邸の車庫に車を入れてスマホを見たら、聖からメッセージが入っていた。不案内な街中でひとりで大丈夫だろうか、誰かと一緒か? と思いつつ「車出しますか? 歩きならこのまま迎えに行きます」と返信するも「大丈夫」と返ってきただけ。よくわからないと思いつつ、藤崎エレナと一緒に椿邸に向かった。

 鍵はかかっておらず、廊下には灯りがついている。

 左手には使われていない部屋があり、その隣は応接間。廊下を挟んでひろく取られた台所スペースを覗くも、灯りはついているが誰もいない。ガスコンロの上には鍋が並んでいるが、もちろん火は消えている。

 エレナの荷物を持ったまま、伊久磨は廊下を引き返してから別方向に進んで、居間に至る襖を開けた。


 誰もいない。


 居間自体は広くない。大きめの炬燵の下にはブルー系のトルコ絨毯が敷かれ、炬燵布団はオレンジ系。隅に、さほど収納力のない木製の飾り棚が置いてあるくらいだ。


「とりあえず、ここで待ちましょうか。香織は西條さんについていったのかも。スーパーの場所わかってないかもしれないですし。写真家さんと静香は……まだセロ弾きのゴーシュということは無いと思うけど」

 どこまで行ったの? と静香から連絡があったくらいだ。その時点ではすでに椿邸にいて、帰りが遅いと心配しているのだとばかり思っていた。


「荷物、持っていただいてすみません。そんなに重いものでもないのに。自分で」

 伊久磨の後ろから、エレナが手を伸ばす。たしかに返し時だと差し出しながら、伊久磨はなんでもない調子で言った。

「クセみたいなもので。お店でも、大きな荷物を持っている方を見かけるとつい声をかけてしまうんです。藤崎さんも、働いてみたらすぐにわかりますよ」

 エレナは、くすりと笑みをもらす。初めは影があるように見えていたが、笑った顔は明るい。


「蜷川さん、ずっと仕事のお話ばかり。すごく仕事がお好きなんですね」

 指摘されて、伊久磨は「ん?」と視線を明後日に向けて考え込む。

「そうでしたか。うん……、そうかも?」

「そうですよ。ケーキが燃えた話とか。いつもそんなことしているんですか?」

 車の中で、ひとしきり「海の星」の話をしていた。

 思い出したように、エレナがくすくすと笑う。伊久磨もつられて微笑みながら、優しく声をかけた。

「いつも燃えたら困るんですけど。というか、あれはシェフが燃やしたんですよ。たまにそういうこと、どうしてもやってみたくなるみたいで。どうぞ、上着は脱いで座っていてください」


 勝手知ったる家なので、そつなく勧めてから自分もコートを脱ぐ。軽く畳んで隅に置きながら、スマホを取り出した。

(静香……?)

 メッセージは特にない。自分からしてみようかと悩む。一体、どこへ行ってしまったのか。


「あの、差し支えなければなんですけど。蜷川さんの彼女さんのこと、お聞きしても良いですか」

 炬燵に入り込むことなく、そのそばで正座していたエレナに声をかけられ、伊久磨はスマホを取り落としかけた。

 なんとかもう片方の手で受け止めてから、立ったまま威圧感を与えてもと思い直し、廊下側の襖のすぐそばに正座する。

「どうぞ。答えられる範囲でしたら、なんでも。隠すこともありませんので」

 そのとき、どこかでカタン、と物音がした。外で、風が何かを揺らしたのかもしれない。

 エレナも気になったように軽く顔を上げて部屋を見回した。

 が、特に言及することはなく、伊久磨に向き直った。


「蜷川さんはいま、彼女さんと順調ですか?」


 * * *


 挙動不審になり、廊下に面した襖を開けてでも出て行こうという素振りを見せた静香を、香織と聖が掴んで引き留めた。


「ここは聞いておくところでしょ」「逃げんな」

 ひそめた声で、二人がかりで静香の説得にあたる。

 暗がりに慣れているので、ひとまずセーターの袖など、直接的に身体を掴まれたわけではない。静香も、どさくさとはいえ、二人にきちんと気を遣われているのはわかるので暴れたりはしなかった。

 しかし早くも心臓と胃が痛くなり始めていた。

「だって……」

「だっても何もない。一番いいところだろうが」

 ぐずぐず言おうとした静香を聖が叱り飛ばし、引きずるように居間との襖の近くまで連れて行く。


 ――彼女さんと順調ですか?


 そう聞かれた伊久磨は、少し考えてから答えを口にしていた。


「見た目は、たぶん。気持ちの方はまだはっきりわかりません。俺からお願いして付き合ってもらっているので。本当に好きになってもらうまでは、まだ時間がかかると考えています」

 エレナは、間を置いてから、呟くようにもう一度問いかける。


「彼女さんは、蜷川さんのことが好きじゃないけど、付き合ったってことですか?」

 聖に引きずられ、畳に投げ出された状態のまま、静香は顔も畳につっぷした。

(盗み聞き、心が痛いってば)

 ちがう。なんだか違う、と思いながらも口を挟むことができない。

 駄目だと思うのに、伊久磨の声を聞いてしまう。


「彼女には、他に好きな相手がいるんだと思うんです。ただ、その人とはどうしても付き合えない。そこを、吹っ切りたい思いがあったのかなと。あとは、相手もですね。たぶん、静香のことが好きなんだと思います。だけどとにかく、付き合うことはできなくて。膠着状態です。いっそどちらかが恋人を作って、きちんと幸せになれば、相手も諦めがつくかなと。そういう関係みたいで」

 無言のまま。静香は頭を抱えた。

 わかるけど、違う。違うけどわかる、でも、そうじゃない。


(好きじゃないひととは付き合わないよ。あたしはきちんと伊久磨くんのことが好きだってば!)

 今にも飛び出して言おうと、畳に腕をついて身体を起こす。

 もう、盗み聞きで得られる罪の収穫は十分のはず。

 そのとき、耳のごく近くで囁かれた。


「ねえ。伊久磨が勘違いしているのって、もしかして俺のせい?」


 接近に、気が付かなかった。

 一瞬にして、身体が強張る。

(怖い)

 湧き上がってきた震えを抑えようとしているのに

 相手は香織なのだと、自分に言い聞かせ

 怖くなんか


 隠密行動中だとか、音を立ててはいけないとか、全部吹っ飛んだ


 誰が止める間もなく、ガタガタとあちこちにぶつかりながら、居間との境目の襖に背中を張り付ける

 合わせ目からもれていた細い光の中に、香織の顔が浮かび上がった


 かなしい


 溢れ出した感情が、見えたけど、すぐに見えなくなる

 横顔

 ぜんぶ隠そうとしている

 静香を見ないようにしていた、あのときに逆戻り

(だめ。いま香織を拒否したら、今度こそ本当に全部閉ざしてしまう。あたしの前から消えてしまう)


 伊久磨が、襖を開いた。

 暗がりに、コートを身に着けた四人がいるのを、どう思っただろう。

 顔を見ている余裕がない。

 一切、何もかも拒否しようとしている香織の頑なな横顔だけが、胸に迫る。


 助けたいし、守りたい。許したい。受け容れたい。全部ほんとうなのに、

 身体が震えてしまう

 押し倒されたときの記憶が、滅茶苦茶に脳裏で明滅して、何度もフラッシュバックする


「お揃いで。どこから入ってきたんです? 驚かせるつもりだったんです?」

 伊久磨の声が、遠くで聞こえた。


 静香のそばに膝をついていた香織は、素早く立ち上がる。

 伊久磨に向かって、微笑みかけた。


 胸が引き裂かれるような。

 世界から見捨てられて諦めきった後の、

 死を待つだけの安らぎにも似た笑顔。 


「伊久磨ごめんね。悪いのは全部俺だから。静香、あれから変じゃなかった? たぶん、お前に合わせる顔がなかったんだと思う。あの時見たよね。俺が静香に何をしようとしていたか」

 やめて

 香織やめて

 それは言わないで


 だめだと言おうとしているのに「う……あ……」と、ろくな声が出ない。


「あの時……。あの朝のこと?」

 伊久磨の声が、一段低くなった。

 暗いまなざしが、微笑んだままの香織をとらえている。

 その背後に、目を大きく見開いたまま硬直しているエレナの姿があった。


 だめ

 香織

 香織がぜんぶ壊そうとしている


(止めないと)

 震える足に力をこめて、立ち上がる。

 今にも何か言おうとしている香織の腕にすがって、暴れようとした。

 背後から、腕を掴まれた。息を止めて、振り返る。

 聖が、無言のまま、強く掴んでいた。


 どうして


 怒りの視線でひとを殺せるのなら、このとき聖に瞬間的に感じた苛立ちはかなりの殺傷力があったはず。

 だが、まったく動じずに解放はしてくれず。

 香織の一言を止められなかった。

 香織は、淡く微笑んだまま、伊久磨の肩に手を置き、目を瞑って告げた。


 ごめんね。俺、静香のこと襲っちゃったんだ、と。



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