壊れる前に
齋勝静香は、小学生の頃から背が高かった。
中学に入ってからも伸び続けていて、二年生の段階で成人女性の平均を超えていた。
「齋勝、でかくて前が見えない」
席替えの後。窓際、後ろから二番め。結構いい席だと思ったのに、背にした席の男子から無遠慮に投げつけられる言葉に、困る。
出来る限り小さくなればいいのだろうか。それとも、いっそいなくなれば?
ぽんぽんと言い返せればいいのに、咄嗟に言葉が出て来ない。
「顔可愛くてもでかすぎなんだよな」
聞こえているのに、反応を返せないから、言われ続けてしまう。
(顔も身長も……自分ではどうにもできない)
大人になった今なら「あなたには関係ない」と。
たとえ面と向かって言えなくても、自分の心が傷つかないように即座にシャットアウトする。
その頃は、まだそういう知恵がなかった。言われたことに驚き、傷つき、動揺しきりで、どうすればいいのか考えて、くよくよ悩んだ。
俯くことしかできない。
そのとき、凛と澄んだ声が聞こえた。
「そこ、席変えて。俺の席一番前だから、黒板も先生もよく見えるよ」
移動に伴い、教科書類を詰めたカバンを手にして近づいてきたひとりの男子が、後ろの席の相手に話しかけていた。
クラス替えで二年生で初めて一緒になった椿香織。その頃はまだ髪を染めても伸ばしてもいなかったが、目立つので知っていた。話したことはなかったが。
「一番前なんて誰が」
「俺、学年で一番背が高いんだって。この間の身長測定のとき、先生が言ってた。後ろの席じゃないとみんなに迷惑かけるから。どいてくれる?」
話し方は、柔らかく、優し気だ。それでいて、毅然としている。
「もう決まっただろ」
席に番号を振り、同じ数のくじを作って箱に入れて、クラス全員でひいた。そのくじを見せたらしい相手に向かって、香織ははっきりと言った。
「決まった席に文句を言っているのが聞こえたよ。今から先生にかけあってもいい。『清水くん、黒板遠くて見えないみたいです』って。それとも、距離じゃなくて身長の問題なのかな。俺は齋勝さんよりも背が高いから、後ろの席でも全然問題ない。早くどいてほしいんだけど。そこ、俺が座るから」
俯いてしまっただけの静香とは違い、学年で一番背が高いという椿香織は、その高身長をもって、静香に嫌がらせをした男子をやすやすと殴りに行った。
物理的な暴力に訴えるわけではなく、言葉によって。
「オレはここが」
「だめ。前が見えないって言ってるの、聞いた。ぐずぐずするなら先生呼んで、最初からいきさつ全部説明する。言っていいことと悪いことの区別くらいつけようね。清水の身長が伸びないことは齋勝さんには関係ない。早く行って。そこは俺の席だ」
……香織は、静香の知る限り、はじめから「そう」だった。
やわらかい話し方も、物怖じしない毅然とした態度も。
困っている相手や、弱っている誰かに気付いて、躊躇わずに手を差し伸べる姿勢も。
ぜんぶ。
(あたしだけじゃない。そうやって、いつもたくさん助けて、背負って。自分まで一緒に転んでも倒れても、相手を引きずり上げるまで絶対に手を離さない。たぶん、伊久磨くんのこともそうやって助けたんだ……)
恐怖心をおさえつけて乗り込んだ椿邸の居間にて。
部屋の隅の角に膝を抱えて座り、壁に背を預けてぼんやりと物思いに沈む。
静香にとって訪れるのは二度目の家で、決して馴染み深いわけでもないのに、香織とのことを次から次へと思い出す。そこかしこに、香織の暮らしぶりが沁みついているせいだろうか。
自分が押し倒されて、以降消えぬ恐怖心を植え付けられた場所だというのに。
いざそこに来てみたら、胸の中に湧き上がって来るのは香織に助けられたことばかり。
不思議に思う。
香織のあの目には、どういう世界が見えているんだろう、と。
容姿にしても社会的な立ち位置にしても、椿香織は「恵まれて」いると言えるかもしれない。
それでも、家庭環境などは決して「恵まれて」いるとは言い切れない。
他人より「恵まれて」いるから、困っているひとを助けるのは当たり前、だなんて絶対に言えない。
彼には彼の苦しみがあり、昔から今までずっと苦しんでいるはず。
それでも、自分が気付いて手を伸ばせる範囲にある者には、惜しみなく与えてくれる。
静香が目撃した「海の星」の女性スタッフとの一件も、おそらく。
香織に彼女を救う義務も責任もないのだと思う。ただ、そういう理屈や計算を越えたところで、自分ができることはする。それは香織にとって、呼吸するように当たり前のこと。
その香織を、助けようとしてきた相手も、もちろんいる。水沢湛のように。
蜷川伊久磨も、「大恩人」というから、いざというときにはもちろん助けたい気持ちはあるはず。
だけど、決定的な何か。
香織が抱えている何か。
(誰も掴めない。届かない。本当のところ。香織が何を考え、何を見ているのか)
もしかしたら。
それまでの何かがふつっと途切れてしまったように、静香に襲い掛かったあの一瞬に、香織を掴む「何か」そこに至る糸口があったのかもしれない。
思い出すのも嫌で、辛くて、悲しくて、怖い。
なかったことにしたい。完全に忘れてしまいたい。誰にも知られたくない。
そう思う一方で、ここで逃げたら最後という気がする。
(香織に助けられて生きてきた。香織を助けたい。香織を……守りたい)
蒸し返さない方がいいと思ったそばから、本当にそれでいいのかという思いが溢れてきてしまう。
香織が話したく無さそうだから、話さない。この話はここで終わりにしよう。墓まで持って行こう。
それをしたら、結局また、香織を掴む決定的な機会を失うのでは?
迷い。
――伊久磨くんがいて良かった。ほら、あたしがいつまでもふらふらしていると、香織も彼女とまたダメになったかもしれないしね。あたしと伊久磨くんが幸せそうにしていたら、羨ましくて自分の恋愛も真面目にする気になるんじゃないかな。
言いたいことの半分も言えた気はしないが、本音だった。
(香織が幸せになると確信できない限り、そこにあたしの幸せはない。香織のことも見届けないと)
やっぱり話したい。
許したわけじゃないけど、許したいのだ。
謝られて済むとも思っていないが、とにかく二人で納得する地点まで話し合いたい。
なんとかその結論にたどり着いて、ふと視線を感じて顔を向けると、炬燵の前に胡坐をかいて座っていた紘一郎に見られていた。
(写真家さん。ずっと、何か。勘づかれている感じ)
椿邸に上がり込むときに感じた大きな抵抗。香織との空気。様子がおかしいのを、見られている。
焦って、何か言おうとした静香であったが、目が合った紘一郎には穏やかに微笑まれた。
「藤崎さんたち、少し遅いですね」
「あ……、はい。ですね」
落ち着いた声で言われて、難しい内容でもなかったのですぐに同意をする。
香織は、西條が立ち働いている台所に行ってしまって、戻って来る気配はない。
(ぼんやりしていた。どのくらい時間経ったんだろう)
いけない、いけないと思いながら畳の上に置いていたスマホを拾い上げる。
思った以上に時間が過ぎていて、「連絡してみます」と口に出して言ってから、伊久磨にメッセージを送信した。
返事はすぐに返ってきた。
……。
「うわっっ」
一読して。理解できない文面で。
静香は思わずスマホを取り落とした。ほとんど投げ捨てた状態で、紘一郎がびくっと小さく肩を震わせて動揺していた。
――職場を見せたくなったので、海の星に来ていました。東京の会社を辞めて、一緒に働きませんかとお誘いしていたんです。乗り気になってくれて良かったです。遠距離恋愛は難しそうだなと。もう少ししたら椿邸に向かいます。
落ち着いて読めば何を書いているかわかりそうだったが、ひとまずわからない。
わからなかった。
「どうしました?」
紘一郎に声をかけられたが、言葉にならずにぱくぱくと口を動かしてしまう。
落ち着け、落ち着こう。そんなに難しい文面じゃなかった。きちんと読もう。
心臓がばくばく鳴り始めているが、やり過ごそう、と服の上から手でおさえつける。
ちょうどそのとき、居間に香織が姿を見せた。
心配げな紘一郎と、口をぱくぱくさせるだけの静香を見てから、畳に片膝をついて、投げ出されていたスマホを拾い上げる。
返そうと静香に差し出してきたようだが、画面はまだブラックアウトしていなかった。
受け取ろうとしたものの、静香は指先が触れただけでまた落としてしまう。
「どうしたの?」
さすがに眉を寄せた香織が、原因はこれ? とばかりにスマホの画面に目を落とす。
普段なら他人のメッセージを読むような無遠慮な真似をすることはないだろうが、相手が伊久磨だと気付いたせいかやや長い時間目が画面を追った。確実に読まれた。
顔を上げて、もう一度静香にスマホを差し出しながら、困惑し切りの様子でぼそりと言った。
「あいつ何言ってんの?」
あ、香織もそう思うよね? と、声が出ないなりに静香も心の中で同意した。