見えない傷痕
考えないようにして、心の奥底に押し込んでいた記憶が噴き出す。
暗闇の中に佇む椿邸。
朧に橙の光を放つ玄関灯を見上げて、静香は立ち尽くしてしまった。
(大丈夫のつもりだった)
思い出さないように。
香織に掴みかかられたときのこと。畳に背を押し付けられて、身体の上に乗り上げられたこと。
現実感がないのに、ふとした瞬間に手首にあのときの香織の指の感触が甦って、ぞくりとする。
男性の香織と、今までで一番近い距離で向かい合った。
どんな目をしていたのか、思い出せない。それなのに、夢に見る。
金縛りにあったように、目覚めた後もしばらく身動きがとれない。
(香織は本気だった。あの時だけじゃなくて。その気になれば、いつでもああいうことが)
自分が気付かなかっただけで、欲望の対象になっていたのだろうか。気付かなかった? 本当に?
わかっていながら、「安全」を押し付けて「男性」として扱っていなかっただけ?
香織に「女性」として見られていないからと言い訳をして、ダラダラと恋人未満の関係を続けていた。
あの朝、伊久磨が先に出るのを知っていたのに、香織とこの家で二人きりになった。
それが間違いだったのだろうか。
「静香さん?」
硬直している静香を、連れ立って椿邸に来た穂高紘一郎が気遣うように振り返っている。
呼び鈴は鳴らした方がいいかな、とボタンを押そうか押すまいかの位置で指を止めたまま。
「何か、気にかかっています?」
穏やかに聞かれて、大げさなほど、首をぶんぶんと振る。
(今日はたくさん人がいる。伊久磨くんもいる。香織と二人になることはないし、香織の彼女も……)
顔を合わせたくない。可能な限り、会話もしたくない。どんなひとかも知りたくない。
香織が。
恋人がいる身で、静香にキスをして押し倒し、あわやという状態になったなど。何かのきっかけでばれてしまったら。
静香が誘惑したのだと軽蔑されるだけならまだしも(まだしも?)、香織との別れ話は決定的になってしまうように思う。
(もし伊久磨くんが……。身近な女性にそういうことをしていたら、別れるよね。「そういう人」とはいくら好きでも付き合えない……)
静香さえ黙っていれば。もしくは、ばれても「合意があった」ことにすれば。
香織を、守れるのだろうか。
被害者がいなければ加害者もいないことになる。
静香が香織を好きだと信じている伊久磨にとっては。香織との関係に揺れている彼女は。
どちらが受け入れやすいだろう。
香織がレイプ未遂をしたことと、静香が浮気をしたこと。
(どう考えても……、「浮気」なんじゃないかな)
「荷物だけ置いて、もう少し、外を歩いてきますか。なんだか、この家に上がるのを躊躇っているように見えます」
自分のスーツケースを軒先に置いて、紘一郎がしずかで控えめながらも、断固とした調子で言った。
「ああ、いえ。そういうわけでは。もう寒いですし……」
言葉の上では何とでも言えるのに。足が前に出ない。家の周りを埋め尽くした雪から、しんしんとした冷気が漂い、身体の芯まで沁み込んでくる。
そのとき、背後から声がした。
「上がればいいのに。なに遠慮しているの? 鍵はかかってないよ」
店舗から通じる道を辿って、家主が帰って来たところだった。
慣れ親しんだ声。何も変わらないのに、受け止める静香の心だけが今までとは違っている。
(香織)
昼間、「セロ弾きのゴーシュ」で会ったときと同じだ。静香の方を見ているようで見ない。
「穂高先生、お疲れでしょうし、どうぞ。古い家で不便もありますけど、寛いでください。西條なんか、我が物顔ですよ。料理は全部引き受けると言うので願ったり叶ったりですが。明日はお節作るって言ってました」
品よくおっとりと笑う。
澄んだ茶色の瞳で香織を見つめて、紘一郎は「ありがとうございます」と響きの良い声で言った。
それから、戸口からさっと身を引いた。
「家主が先にどうぞ。こんなお屋敷緊張してしまいます。靴の脱ぎ方の作法とかあります?」
冗談めいた口調で言うと、「先生から」と譲ろうとしていた香織に構わず引き戸を引いて振り返る。
寒い中で問答もと思い直したか「作法なんかないですよ」と言いつつ、香織が三和土に踏み入れた。そのついでに、入口にあった紘一郎の荷物をひょいっと持ち上げる。
「あ、ごめんなさい、大丈夫ですよ。持ちます」
「いえいえ、お客様ですから。開けっ放しにするとすぐ冷えるので、どうぞ」
言い合いながら、香織を先に行かせて、紘一郎も玄関に入り込む。
が、すぐに静香を振り返った。
「喧嘩中?」
家主さんと、とごく小さな声で聞かれる。
笑顔を浮かべて応対しようとしていた静香であったが、表情を作り損ねた。
思わず眉間に皺を寄せて「う」と声をもらす。
(この人が鋭いのか、あたしの顔がよっぽどだったか)
傍目にもわかってしまうとは。こんな状態では香織の彼女は誤魔化せないかもしれない。
それはだめだと、自分に言い聞かせる。
「そういうわけではないです。あの……、そう見えました?」
香織は先に入って行ってしまったらしい。気配がないのを確かめてから、静香は素早く尋ねた。
紘一郎は少し考えてから「そうですね」と言った。
「親しそうなのに、苦手そうな感じというのでしょうか。お互いに」
「ああ~、まあ、はい。でも、大人なので。あっちもあんな感じだし。べつに周りの皆さんに迷惑はかけないようにしようと思っています」
言ってから、(いや、香織はそういう感じでいいの? あたしに対して何かないの?)という思いが噴き出しかけたが、胃のあたりに力を込めてやり過ごす。
「あの……、何か無理してませんか。笑顔が不自然ですけど」
特に納得はしていない様子で、紘一郎には再度尋ねられてしまった。
(だめだ。見ず知らずのひとに心配かけている場合じゃない。気合で乗り切ろう。どうせ伊久磨くんもすぐに帰って来るはずだし、それまでのことだから)
「寒いせいで表情筋が動かないだけだと思います。早く中に入りましょう!」
不自然。
自分でもはっきりわかるくらい、調子の外れた明るい声で言いながら、静香は紘一郎の横をすり抜けて玄関に上がり込んだ。
どことなく、鋭さのある紘一郎を誤魔化しきれたとは思えないが、考えないことにした。
うまく騙さなければいけないのは伊久磨と、香織の彼女。
考えるたびに、胸が痛む。
深い部分の叫び声を無視する。
(とりあえず今晩やり過ごせば、喉元過ぎる気がする。香織とは……)
あの態度なら、もう話すつもりはないのかもしれない。お互い墓まで抱えていくだろう、と。
それならそれで構わない。
それで誰も傷つけずに済むのなら、そうしよう。
その時は静香も心の底から思っていた。