欠けた文面
正面玄関から、鍵を開けて静まり返って冷え切った「海の星」に足を踏み入れる。
「動かないでください、いま電気をつけます。割れるお皿や、壊れやすいアンティークがあります」
エレナに声をかけ、伊久磨は先に立つと、エントランスを通り抜けてカウンターの内側に進む。灯りのスイッチを操作すると、店内がぱっと明るくなった。
ドアに張り付くように立ち尽くしていたエレナは、急に開けた視界に目をしばたく。
「外から見たときも雰囲気良いなと思ったんですけど、綺麗なお店ですね」
感嘆の溜息をつかれて、伊久磨は笑みをこぼした。
「料理も良いんですよ。一度お客様で来て頂いていれば良かった。香織とデートするときはいつも東京だったんですか」
自分でそれを口にしてから、ふっと胸の中に冷たい風が吹き込むのを感じた。
以前、香織は「海の星」を「デート」で利用したことがある。その時の相手は、エレナではなかった。
(言うようなことではない、な)
連れ立って来店した静香は、今では自分の恋人だ。
数歩エントランスを進み、辺りを見回してから、エレナは寂しげに微笑んで言った。
「香織さん、私をこちらに誘うのに迷いがあるみたいで。何もかも気を遣うひとだから。交通費と宿泊費が私の負担になることとか。かといって自分の一人暮らしの家に誘うのも、と思っていたみたい。私も、何て言っていいかわからなくて……。思い切って、クリスマスに休みとって行こうかなって言ったら『ごめん。クリスマスはうちに人が来る予定がある』って言われて、ああ~……もうだめだなぁ、と」
真面目に話を聞いていた伊久磨だったが、エレナが話し終わってから五秒ほど考え込んだ。
それから「うわっ」と声を上げた。エレナがびくっと肩を震わせて見返してくる。
「すみません、それ俺です。面倒な事情があって……。ああ、いや、誤解を招きたくないので言います。俺の家族、クリスマスイブに事故で……。もう何年か前なんですけど。それで、命日はひとりで過ごさない方がいいって香織が気にしていて、仕事が終わってから椿の家に行くことになってました。行きました。申し訳ありません。香織も言えばいいのに……。いや、言わないのが香織なんですけど」
目を見開いて聞いていたエレナであったが、命日、と口の中で繰り返してから「そうだったんですか」とようやくのように呟いた。
「男友達が来る、って言っていたんです。疑ったわけじゃないんですけど……。あの、恋人がいない同士で飲んだりとかあるのかなって。それならそれで良いんですけど、せめて香織さんは彼女がいるんだから私の予定を聞いてからにして欲しかったなって。あ、いいえ、あの、蜷川さんに恋人がいなさそうという話じゃないです、彼女がいるのはわかります。さっきの方ですよね、金髪の、背の高い。駅でお見掛けしました。その、すごく仲良いなって」
慌てて言い募るエレナを見ているうちに、伊久磨は「もしかして」と苦笑を浮かべてしまった。
駅では、周りにひとがいないという油断から静香に近づいてしまった記憶がある。どこかから見られていたに違いない。
「はい。付き合い始めは結構最近で。こっちも遠距離なんですけど。彼女、普段は東京なので」
エレナは伊久磨を見つめて、当然の質問をした。
「うまくいきそうですか、蜷川さんは。遠距離」
「今は……。この先はわかりません。一緒に暮らしたいとか、もしそういうことを考えるようになったら、どちらかが決断しないと。ただ、彼女、実家がこちらなので。そういう意味では、戻って来ることになっても、まったく知らない土地に、というわけではないですね。俺が東京に行くのは……、職業的な意味で言えば、全然無しというわけでもない、かな」
その場合は「海の星」を辞めて、由春とも別れて行くことになる。
ちょうど、「同期」の真田幸尚はその決断をしたばかりだ。
そのことを聞いたときは、はからずも、突きつけられた気がした。「お前はどうする」と。
(岩清水さんには、いずれ言われるかもしれない。静香のことがあるから、余計に)
行きたいなら行けばいい、と。
遠からず。
「素敵なお店ですよね。ここで働けたら……。そういう人生もあるんですね」
エレナは、ホールの方へと足を向ける。
「灯りつけますよ」
「あ、いいえ、大丈夫です。じゅうぶん、見えます」
振り返って、手を振っている。それを見て、伊久磨も気を回すのはやめることにした。エレナと気遣いの消耗戦をしていても仕方ない。「同僚」になる可能性があるのだから。
「接客業はどう思います? 向いているかいないかとか。俺自身は、全然イメージ湧かなかったんですけど、やってみたら意外と合っていた、という感じです。出来ているとはまだ胸を張って言えません。毎日反省することも多いので」
「そうですね。私も、まだイメージは湧かないかな……。いま勤めている会社は、それなりに名前の通ったところなんです。辞めると言ったら親はびっくりしそう」
そう言ってからエレナが告げた会社名は、確かに伊久磨でも知っている一流企業で、軽く目を見開いてしまった。
「そっか、西條シェフと高校が同じって言ってましたけど、進学校ですよね。そのまま地元の国立大。偏差値高い……」
先に会社名を聞いていたら、「辞めたら」とは軽々しく言えなかったように思う。だが、エレナは大げさなくらい手を振った。
「いえいえ、そんなの昔の話で。就職はなんとかなりましたけど、いまの仕事ものすごく好きっていうかそういうわけでもないし。むしろ、一回本気で辞めようとしていたのを、だましだまし続けていて。だから、良い機会かも……。こういう綺麗なお店で働けて、香織さんともふつうの恋人みたいに休日とか、仕事の後に待ち合わせて会ったりできたら」
少し、表情が明るくなった。
いまの仕事にそれほど愛着がないというのは本音かもしれない。
(新しい仕事、知らない土地、恋人との未来……)
いくつかの希望。
「シェフに藤崎さんのことを言ったら、すぐにでもって言いそうです。本当にお仕事辞めるなら有休消化とかもあると思いますし、決まったら連絡ください。住むところは椿邸があるから、引っ越しすることになっても問題ないでしょうし」
何気なく言ったところで、エレナには焦ったように「まさか」と言われた。
「同棲とか、結婚とか。全然そこまでの関係じゃないです。まずはこっちで部屋を借りて、普通にお付き合いして」
段階をね、と切々と言われたが、伊久磨としては率直な意見を言わざるを得ない。
「現実問題として、『海の星』の給料は高くないです。それでいてこの辺、アパート借りたら結構高いんですよね。椿邸は部屋余してますし、香織もだめとは言わないと思います」
椿邸に住んでいたこともある伊久磨としては、香織の生活ぶりもわかっているだけに突拍子もないことを言っているつもりはない。
一方のエレナとしては、どこか困った様子で言った。
「もう、なんなんでしょう、みんなで『部屋余しているから』って。香織さんと一緒に暮らすとか……。別れ話をしにきたのに、なんかとんでもないことになっているような」
自分で言いながら、苦笑してしまっている。
「とりあえず、今日は香織とよく話し合ってみてください。必要とあらば俺も口添えしますから。『藤崎さんは海の星にスカウトして、会社辞めるのも移住するのも決定事項だから』って。そうだ、シェフに連絡しておきます」
そのときはただただ、エレナと香織がうまくいけば良いのに、ということだけを考えていた。
ついでに言えば、エレナのような人材を確保できたら「海の星」も安泰だ、と。何せ年明けに幸尚が抜け、心愛ももう少しで限界がくるはずなのだ。補充は急務だ。
(結果的に良かったかも)
そう思いながら、スマホを取り出す。表示された時計を見ると、思った以上に時間が過ぎていた。
連絡一つ入れずに駅から海の星に来て話し込んでしまっていたので、夕食を作っている西條には怒られそうだ。
ちょうどメッセージが入ってるのを見て西條からかな、とロック画面を解除する。
静香からだった。
――香織の彼女さんと二人で、どこまで行っちゃったの?
遅くなったから当然だな、と思いながら返信する。
――職場を見せたくなったので、海の星に来ていました。東京の会社を辞めて、一緒に働きませんかとお誘いしていたんです。乗り気になってくれて良かったです。遠距離恋愛は難しそうだなと。もう少ししたら椿邸に向かいます。
特に問題のある文面のつもりはなかった。
多少端折ってはいるが、伝わらないとは、その時の伊久磨はまったく思わなかった。
香織とエレナの遠距離恋愛のアシストをしたという、言いたいことはそれだけだった。
受け取った静香が、あらゆる箇所について考え込んでしまうなど、その時は想像もしていなかった。
第15話「新しい季節を迎える前に」ここで終了です。
新しい季節とは書きましたが「夜明け前」のようなニュアンスかもしれません。
明るくなる気配はあるけど、一番冷え込んでいて暗い時間帯。
かみあいそうでかみ合わないひとたち。
ひとのことはよくわかるのに、自分のことは全然見えていない。
自分自身すらごまかしている部分がある。
(一番は静香でしょうか。香織の「未遂」に気持ちの整理がついていないので、ずっとそこに蓋をしたまま。だけど抑えきれずに、感情が不安定になっていることが多いように見えます)
その辺は小説の中で書いていくことなので、この先もお読みいただければ本当にもう幸いにございます!!
ブクマ・評価・感想ありがとうございます!!
たくさんの方に読んで頂く為には現状、数字(※ポイント)が必要なシステムだと思いますが、
感想も偉大すぎます。
お話づくりにこんなに影響があるのかと毎回感謝しきりです。
自分の筆力が全然足りていない部分、伝わっていることと伝わっていないことを感想で振り返る機会を頂くことで、次はもっと書きたい、うまくなりたい、と思うことばかりです。
これまで感想を書いたことないという方も、どうぞお待ちしております☆
それでは引き続き解決編まで。
このこじれは解決するんでしょうか!?