決断の時は否応なく
椿香織の恋人であるところの、藤崎エレナという女性は。
どことなく影がある。
(もし「海の星」にひとりでご来店されたら、どうするだろう)
香織のアウディの鍵を椿邸から借りてきて、助手席に乗り込んでもらい、駅に向かう途中。
伊久磨は、信号待ちのタイミングでハンドルに手を置いたまま、少しだけ横をうかがう。
女性ひとりなら、ランチである可能性が高い。
途中下車するかもしれない、しないかもしれないと香織に伝えていたくらいだから、予約をしての来店より、新規の飛び込み客だろう。
お腹が空いて、レストランに行きついたけど、入ろうか入るまいか。
店の前でうろうろしているところを、食事を終えた客を見送りのときに見つける。
席は空いていて、客数的にも受け入れ余地があるならば。
(声をかける……かな。あまり押しつけがましくならないように。別の店を探しに行くくらいなら、海の星で休んでいけばいいのにとは思うから)
疲れて見えるのだ。
憂いを含んだ目元。美人だとは思うが、近寄りがたい空気がある。
それでいて、先程「セロ弾きのゴーシュ」で話したときは声を上げて笑ったりもしていた。話してみれば、決して愛想は悪くない。
気を抜くと、素の表情に戻ってしまうのだろうか。
駅に着いて、駅裏の地上駐車場に車を入れたところで「すぐに戻ります」と言ってエレナはひとりで荷物を取りに行った。
一瞬悩んだが、同行してもかえって気詰まりかと車で待つことにする。
五分。十分。さすがに遅いなと思って、エンジンをかけたまま車を降りてみると、少し離れたところで辺りを見回している姿が見えた。
「藤崎さん、こちらです」
声を上げると、はっとしたように振り返って、小さなスーツケースを持って小走りに近寄ってくる。
「すみません、車がわからなくなってしまって」
「そうかな、と思いました。どうぞ乗ってください。荷物はお預かりします」
伊久磨がスーツケースに手をかけると、躊躇う素振りを見せつつ「お願いします」と手を離した。
ひとまず、後部座席に入れてから、運転席に戻る。エレナは助手席に座っていたが、やはり表情は晴れない。
車を出そうとして、エレナの横顔を見つめ、伊久磨は結局ハンドルから手を離した。
「何か悩んでいるように見えます。気がかりでもありますか」
尋ねると、エレナは心底落ち込んだように目を瞑って溜息を吐き出した。それから、眉を寄せて険しい表情で目を開けた。
「すみません。こんな、見ず知らずの相手に心配かけている場合じゃないんですけど。私、気持ちの切り替えがうまくないみたいで」
謝られた。
伊久磨は、どうしたものかと考えながら、なるべく威圧感を与えないように意識して話しかける。
「普段、レストランで働いています。見ず知らずのお客様と接することの多い仕事で、いろんな方にお会いします。中にはおひとりで、何か訳アリだなという雰囲気の方もいらっしゃいます。事情を詮索するわけではありませんが、できる範囲でお声がけして、少しでも楽しい食事の時間を過ごしていたけるように考えています。そういう仕事の、延長でしょうか。今はシェフがいないので料理はご用意できないんですけど。おひとりで気持ちを切り替えられないときも、人間ありますからね。何か少しでもお手伝いできると良いんですが」
他意はなく。たまたま仕事外だが、申し出自体は職業的なものだと。
知人の知人というより、ただのレストランのスタッフと話す程度の気分で話してもらえればと、促してみた。
エレナは固く唇を引き結んでいたが、ややして、息を吐き出した。横顔には諦念が滲んでいた。
「椿さんとお付き合いをしているんですけど。別れようと思って来たんです」
「はい」
雲行きの悪さは感じていたので、伊久磨はしずかに返事だけをした。
エレナは、苦し気に続ける。
「本当は、途中下車をするつもりはありませんでした。真っすぐ札幌に帰るつもりで。でも……、椿さんと最後に会って話したい気持ちもあって。下車する理由を探していたら、知った方の写真展の告知を見つけて。それを理由に下りたんですけど……。いざ椿さんを前にしたら、まだものすごく未練があることに気付いてしまいました。別れたくないんだと思います。お付き合いして頂いていること自体、奇跡だと思っていて……」
フロントガラスを見つめたまま耳を傾けていた伊久磨は、言葉のひとつひとつを受け止めようと努める。
(「付き合ってもらっている」とか、「奇跡」とか)
少しわかる。今まさに、自分が静香に対して抱いている思いに似ている。
「まだ香織に話していないなら、なんとでもなるように思いますが」
控えめに声をかけてみた。エレナは俯いてしまう。ダッシュボードに額をぶつけそうなほどずぶずぶと。
「……だといいなとは思うんですけど、椿さんは勘が良い方なので、気付いているような気がするんです。そしてたぶん、私の負担にならないようにと、一番に考えてくださるので、私が言い出す前に自分から別れ話をしてきそうだなと」
ああ、と伊久磨は納得して頷いてしまった。香織らしい。ものすごくあり得る。
引き留めず、むしろ自分から関係を切るのが温情とばかりに。それがエレナの意を汲んでいると信じて。
「もし香織から別れ話をされたら、どうするんですか」
聞いてみる。「付き合ってもらっている」という感覚のひとが、どういう判断を下すのか。
エレナは落ち込み切った声で言った。
「心にもないことは、言わないと思うんです。たとえ私の為とはいえ、それを言い出すからには、香織さんの中にも私と別れたい気持ちがあるんだと思います。その場合……、私が別れないで欲しいとすがっても、迷惑でしかないですよね」
香織さん、と。
それまで、よそ行きのように「椿さん」と呼んでいたのに。思わずこぼれたその呼び方は。
(まだ未練を残しているというのは、本音っぽいな……?)
「話を聞く限りでは、気を遣い過ぎのように感じます。気を遣うわりに、きちんと向き合って話していないですよね。そして、話し合わないままお互いに『察して』終わりにしようとしている。それで、誰が幸せになるのかなと。少なくとも、香織に『気遣われて』別れを切り出された藤崎さんは、不幸じゃないですか」
強い口調にならないように気を付けたつもりだったが、傷つけたかもしれない。
エレナは、伊久磨に顔を向けて、眉を寄せたまま早口に言い捨てた。
「でも。別れないで欲しいなんて、言えないですよ。私、ただの迷惑な女じゃないですか」
伊久磨もまた、エレナの方を向いて、細心の注意を払って言った。
「どうしてですか。別れたくないという気持ちを伝えることの、何が悪いんですか。『香織の負担になるから』ですか? それは、香織に『迷惑だ』と言われて初めて確定することです。今のは、全部藤崎さんの頭の中の話です。負担になりたくないとか、迷惑になりたくないとか。それならどうして、付き合うことにしたんですか。いえ、『付き合ってもらうことにした』んですか」
言葉は自分に返ってくる。
すべてがすべてとは言わないが、重なる部分があるから。
「どうすればいいのか……わからなくて。会いたいときに会えるわけじゃないし。聞いて欲しい話があっても、電話していいかな、って思っているうちに言いそびれて。『私、彼氏がいてもいなくても、生活に何も変化がないんじゃ』って気付いちゃったというか。だとすると、無意味だと思うんです。お互いを恋人という括りで拘束する意味が無い。たぶん……離れた方が」
おそらく、深く突っ込み過ぎたというのは、伊久磨も自覚がある。
本来、エレナはこんな話をするつもりはなかっただろう。伊久磨だってここまで聞くつもりはなかった。
お節介。
見ず知らずの間柄で話す内容ではない。
だけど、聞いてしまった。
「単純な質問なんですけど。香織のことは好きですか。もう好きじゃないんですか」
長考。
やがて、エレナは絞り出すように言った。
「好きです」
「わかりました」
自分が聞いても仕方ない情報だが、事実関係は了解したという意味で、伊久磨は頷いた。
「香織は旧家の当主で、ここを離れることはできません。もし結婚ということになったら、藤崎さんがこちらに来るしかない。香織は従業員を抱えている会社の社長でもあります。自分の一存でどうにもできないこともあるので、ここはどうにもできません。藤崎さんはどうですか。会社を辞められますか。こっちに引っ越してきて、仕事を見つけるなり、椿屋で働くなり決断できますか。できれば今すぐ」
後から考えても、どうしてそんなことを思いついてしまったのか、伊久磨にもわからない。
エレナは呆然と伊久磨を見ていた。
変なことを言っているというのはわかっていたが、もはや乗りかけた船。
伊久磨は平静を装って告げた。
「結婚が決まったわけではない段階で椿屋で働くのが差しさわりがあるならば、他に仕事を探しましょう。ちょうど、俺の勤め先のレストランもひとの出入りがあります。給料は高くありませんし、現在の職種と比べて藤崎さんに合うかどうかもわかりませんが、もし働いてくれる気があるならシェフに話します。いかがですか」
どう見ても引き気味に伊久磨をうかがっていたエレナは「いかがですか……?」と呆気にとられたように繰り返した。
畳みかけるように、伊久磨は矢継ぎ早に言った。
「遠距離向いていないんだと思います。もしどうしても別れたくないなら、選ぶしかないです。仕事か恋愛か。賢い生き方じゃなくて、自分が本当にしたいこと、一生に一度の決断だと思って考えてみてください。今本当に捨てられないのは、どちらか考えてください」
おそらく、自分が静香と交際していなければこんなことは絶対に言わなかったに違いない。
仕事か恋愛か、など。
その問いかけは自分にも降りかかると、口にした瞬間に気付きながらも、言わずにはいられなかったのだ。
選ぶ時なのでは、と。