脅迫とお願いの間
考えてみると。
香織の彼女と話すことなんか、特にない。
完。
* * *
冬の夕暮れは早く、暗くなる前に戻ろうという話になり、夕方。
ひとまず飲まなかったコーヒーの支払いと荷物の受け取りに「セロ弾きのゴーシュ」に向かったら、空気が淀んでいた。
写真展の準備ということで、店内の壁に額に入った写真やパネルを設置している写真家の穂高紘一郎。そのアシスタントをしている女性の顔が、とにかく暗い。
伊久磨と静香が店内に現れると、カウンターの奥で樒梓が明らかにほっとした顔をした。
「静香、今日椿の家に泊まるって、本当?」
カウンターに手招きをしてきた梓に、静香はこそっと耳打ちされる。静香は少し迷ってから「あの、母には……」と言ったが、梓は静香の肩に手をかけて早口に言った。
「香織の彼女。別れ話しに来たんだって」
思わず、静香は梓の顔を見た。
深刻な話の気配でも感じたのか、伊久磨が紘一郎の元へ「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけに行った。そちらでも会話が始まったところで、梓は話を続ける。
「クリスマスも年末年始も香織に予定があって、会う段取りがつけられなくて。元々、東京とこっちで遠距離で無理だと思っていたから、別れるつもりだったんだって。それで、帰省のついでに途中下車しようかしまいか悩んで色々調べていたら、ちょうど知り合いの写真展があるのを見つけて、思い切って降りてここまで来たらしいんだけど。落ち着いてから香織に連絡しようとしていたら、その、会っちゃったじゃない? しかも、弁護士さんとああいう話を始めてしまって」
その辺は、静香も居合わせたので了解している。
視線をさまよわせ、赤々とした炎をガラス窓に閃かせた白い灯油ストーブを見た。店内は、外の寒さが嘘のようにほっとする温かさとコーヒーの香りに満たされている。
「まさか、あの女の人の妊娠のいざこざ、香織絡みだと勘違いしたとか?」
話をよく聞けばわかったはずだが、距離があったから伝わらなかったのかもしれない。それは、香織の名誉の為に訂正してあげたい。
「そうじゃないんだけど。思った以上に深刻な話をしているのを聞いて、今日の今日で別れ話を切り出しにくくなったらしいの。しかも、西條さんが来て『ホテルなんかとれないから、椿邸に来い』なんて言い出すし……。香織は、お店で何かあったらしくて、いなくなるし。結局、藤崎さん、何も話せなくて」
それでぐずぐずとしている間に、時間だけが過ぎて、展覧会の準備を手伝い始めてしまったらしい。
もしよければ、自分のとっていたホテルがあるから、そちらに泊まったら、と紘一郎がすすめていたという。
「そうですね……。とりあえず写真家さんのホテルに滞在して、明日あたり二人で話して……、帰省すればいいのかな?」
香織の彼女は静香の知り合いではないし、それ以上言いようがない。
が、ぐい、と梓に肩を掴まれてしまう。
「静香、冷たい。自分の恋愛がうまく行っているからって、香織はどうでもいいの?」
言われた内容を考えて、静香は動きを止める。
ややしてから、小声で返した。
「香織はどうなのかな。あたしが話を聞いたときは、結構微妙な感じでしたよ。あのひとのこと、本当に好きなのかな……」
(好きじゃなきゃ、付き合っても、意味がないんじゃないかな)
ごく自然に考えてから、「待て」と思い直す。
……嫉妬?
香織の幸せを願ってない? 彼女とうまく行かないことに、ほっとしている?
(さすがに、そこまで狭量じゃないと思いたい。ちゃんと幸せを願える、と思う。だけど、壊れかけている関係なんか、他人にはどうしようもないんじゃ……)
彼女が別れたいなら、早晩破綻するに違いない。少しばかりのその関係を延命することに、意味があるのだろうか。
たまたま今は恋愛しているが、静香は恋愛の機微に疎い自覚がある。一肌脱いでもなんの助けにもならないはず。
言い訳めいたことばかり考えながら、ちょうど伊久磨と話している藤崎という女性を見る。
コートを脱いだ姿は、鮮やかな緑のコーデュロイのワンピース。ベルトで絞った腰は細く、女性らしい体つきをしているのが服の上からでもわかる。
静香には縁のない、OLという職種に違いない、とあたりをつける。綺麗めで品の良いお嬢さんという。
ひきかえ、静香はグリーンの搬入だといっては動きやすい服装で重いものを持ち歩くのが日常であり、可愛い服装には縁がない。血色は悪いが化粧で補う技術もなく、よく食べるわりに肉付きは悪い。
(真逆とまでは言わないけど、香織の好みってああいう……)
伊久磨が言った何かがつぼにはまったのか、女性は明るい声をたてて笑い始めた。
「……」
静香は、そばにあった椅子の背を手で握りしめる。
(これは正当な嫉妬よね? ここは嫉妬していい場面よね?)
170cm近くある静香より、10cmマイナスに見える女性は、背の高い伊久磨と並ぶと小柄で非常に可愛らしい。
笑っている女性を見下ろす伊久磨のまなざしも、控えめながらも優し気で、文句なく紳士的だ。
心の中にどす黒いものが広がっていくのを感じていると、伊久磨が不意に顔を上げて視線を向けてきた。目が合うと、歩いて近づいてくる。
気持ちが通じたようで静香は微笑んでしまった。そうだ、伊久磨は自分の彼氏なのだ、と思う。
その彼氏は、穏やかな口調で言って来た。
「藤崎さん、駅のコインロッカーに荷物置いてきているらしいんです。香織の車を借りて、一緒に取りに行ってきます。静香はついてきても寒いだけですからここで。またあとで椿邸で会いましょう」
「ええと?」
なんで? とは思うものの、言っていることは別におかしくない。
もう暗くなっている中、不案内な街で、タクシー捕まえて駅まで戻って荷物取ってこい、と女性を突き放す性格ではないだろう。わかる。なんで? と思う静香がおかしい。心が狭い。
「あまり遅くなってもいけないですから、行ってきます。お支払いを……」
女性が近づいてきて、梓に声をかけるも、梓は「うううん、いいいのよぅ!!」と不自然なくらい大仰に手を振って断った。
「香織が全部払っていったから。あ、静香のコーヒー代もね。いいって言ったんだけど」
女性の目が、静香に向いた。
なんとなく、会釈してみると向こうも会釈をしてくる。だからといって、会話などない。
「それじゃ、俺と藤崎さんで行ってきます。穂高先生も、きりのいいところで」
「うん、ありがとう。お世話になります。聖の料理、久しぶりだな」
のんびりした会話を交わしてから、伊久磨は藤崎に「道路凍ってましたよ。気を付けてくださいね」と優しく声をかける。「出身は札幌だし、雪道は平気です」と、親し気に笑い合いながら連れ立って出て行ってしまった。
ええと?
笑顔で見送ったものの、硬直がとけずに石化している静香の腕を引っ張り、梓が今一度懇願するように言う。
「良いお嬢さんよ。この辺じゃ見かけない。感じ良いし、美人だし。東京で暮らすときに、親御さんには地元に帰らなくていいって言われているらしいから、どこで結婚してもいいみたいだし。香織、あのひと逃したらまたずっと一人よ。なんとかしてあげてよ」
「なんとかも何も……、あたしにそんな器用さ求められても困るし」
別れるひとたちなんか、別れるでしょ? とまでは言えなかったが、気持ちはほぼ決まっていた。それなのに、梓は「あんたはできる」などといい加減なことを言いながら静香の肩をぽんと叩く。
「頼んだわよ、静香。せっかく椿邸に泊まるっていうなら、絶対彼女と香織をいい感じにしてあげてよ。じゃないと、あんたのお母さんに言っちゃうから。静香、香織の家に泊まっているって」
「それは脅迫だよね!? だいたい、泊っているって言ったって、あたし彼氏いるから。さっきのひと見たよね、蜷川くん。か……」
かっこいいでしょ、と言いかけてさすがに羞恥心を覚えて口をつぐむ。惚気は恥ずかしい、くらいの自覚はかろうじてまだあった。
「うん。見たみた、カッコイイ。もてそうだし、藤崎さんもすぐに打ち解けていたよね。あら~、大丈夫なの? 意外と藤崎さんと良い感じになったりしちゃったりして。香織と別れたらフリーだもんねえ。うかうかしていると、あんたみたいな奥手な女は横から取られちゃったりして。蜷川くん」
「く」
ありえない。
なんてことを言うのか。
思春期の男子だったら思いっきり「クソババア」と言っている場面ではないかと思う。静香はその言葉を日常生活では一度も口にしたことはなかったが、よっぽど今こそ言いたいと思った。
そんな静香の様子を気にすることもなく、梓は「頼んだわよ」と言った。命令だった。