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10 噂の向こう側

「樹が大変、お世話になったようで……」

 警察病院の通用門を出たタイミングで、それまで寡黙だった岡田森が矢本啓子に声をかける。土屋刑事はいない。

「いえ、わたしは特に何も……」

 瞬時、森は言葉を失う。が、すぐに、それを紡ぐ。

「ぼくは矢本さんと違って樹のことを何も知りません」

「それでは大層、驚かれたことでしょう」

「驚いた、というよりは当惑ですか」

「そうでしょうね」

「矢本さんは弟とは長く……」

「最初に会ってからだと五年以上になります」

「いったい、どんなふうに……」

「出会いは、いつも偶然ですよ。少なくとも、わたしにとっては……。わたしは市井の市民で、樹ちゃんも同じ市井の市民で、ある公園で……」

「樹ちゃん、ですか」

「ああ、済みません、馴れ馴れしくて……」

「いえ。しかし、それほど親しかった、ということですね」

「森さんは、樹さんの存在はまったく……」

「存じませんでした。土屋刑事に教えられるまで、まったく……。ええと、弟の呼び名は『樹ちゃん』で構いませんよ。その方が、弟も安心するでしょう」

「そうですか。しかし樹ちゃんの方でも、そうだったのかしら……」

「ぼくのことを知っていたかもしれない、と……」

「事情は存じませんが、森さんと樹ちゃんって、似たような、お名前じゃありませんか」

「確かに……」

「だから、どちらも、お母さまが名づけられたのかもしれない、と思って……。それならば、お兄さまの話を、お母さまがされたかもしれない、と……」

「……にしても、母は幸福ではなかったでしょう」

「どうして、そう、思われますか」

「ぼくの父と離婚してまで付いて行った男は籍さえ入れていない」

「事情があったんでしょう」

「それは、事情はあったでしょう。事情がない事柄はありません」

「森さんは、お母さまを恨みますか」

「恨むほどの思い出がありません」

「そうですか」

「父は恨んでいたかもしれません。ですが、ぼくにはわからない」

「お父さまは、お母さまのことを……」

「ぼくが子供の頃、何度も聞いて、父はすごく困った、と思います。短い期間でしたが、母親がいないことで、学校でも虐められましたし……」

「お父さまは、ご再婚は……」

「しませんでした。周囲は――ぼくのこともあるので――かなり勧めたようでしたが……」

「そうですか」

「父が母のことを忘れられなかったのかどうか、ぼくにはわかりません。再婚しなかった、という事実があるだけです」

「お父さまは現在……」

「海外でノンビリしていますよ。何を思ったのか、早期引退して、タイで暮らしています。それもあって、今回のことは、まだ話していません」

「そうですか。お父さま、お元気ですね」

「前に聞いた話では、現地妻がいるようです。だから、この件が片付いても、ぼくは父には話さないかもしれません」

「お父さまは、海外に行かれて吹っ切れたのかしら……」

「さあ……。でも幸せに暮らしているなら、息子としては何も言うことはありませんよ」

「わたしも旅行しようかな、タイまで……」

「どうしたんです、突然……」

「学校の理事長なんかを遣っていると暇がないんです」

「でしょうね」

「だから、この時間も珍しい」

「ぼくの方は会社をサボって来ました」

「学園の方で日本語学校を作る計画があります、だからタイに関わらず、海外に出かける口実はいくらでもあるんです」

「仕事絡みでは、単に羨ましいとは言えませんね」

「もっと早く、樹ちゃんがわたしの近くにいたときに一緒に行けば良かった」

「矢本さんと弟とは本当に仲が良かったんですね」

「森さんの弟さんではなく、樹ちゃん、としてですけど……」

「他人には入り込めない仲だった、と……」

「それを世間は、若い燕だ、と貶める」

「昔の週刊誌のスクープ記事は遅ればせながら読みました」

「世間の人たちは判り易い解釈が好きなんです」

「しかし思った程、学園はダメージを受けなかった」

「噂は噂に過ぎませんから……」

「矢本さんの美貌ならば不思議ではない、と捉える向きもあったと聞きます」

「随分、お金を使いましたよ。それに、樹ちゃんにも身を隠してもらわなければなりませんでした。もう、二年も前のことになります」

「矢本総合学園周辺から弟は完全に消えたようですね」

「そして世間が忘れた頃、平和に勤めていたはずの会社からもいなくなってしまった」

「どうしてでしょう」

「さあ、わたしにはわかりません。それに、誓って言いますが、わたしは今回の樹ちゃんの失踪には関係していません。樹ちゃんとは。もうずっと会っていないんです。連絡もありません。だから、わたしはどうすれば良いのかわかりません。わたしがここまでに選んだ道は、おそらく正しかったと思います。けれども、この先、わたしは同じことをすれば良いのかどうか」

「それは、どういう……」

「刑事さんには明かしませんでしたが、あの遺体は岡田樹のモノではありません」


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