3 何故、自分が?
「岡田さんの弟さんは自殺されました」
「えっ」
続けて発せられた土屋の言葉に森が驚く。が、頭の何処かに違和感がある。れは何だ、と森が訝しむ。
「ええと、弟さんの、お名前がまだでした」
と慌てるふうもなく、そのことを思い出した土屋が森に告げる。
「弟さんのお名前は『樹』さんと仰られます。漢字は樹木の樹で、読みがイツキ……」
「イツキ……ですか」
「年齢は二十八歳。元々、ある会社で経理部員をされていましたが、三ヶ月程前にお辞めになられています」
「そうですか」
「その後、失踪されました」
「失踪というと、会社から、いなくなった、と……」
「ええ。しかし会社からだけなく、この世の中からですが……」
「この世の中から……」
「ああ、済みません。つまらない比喩でした。所謂、失踪です。三十代前半の岡田さんでは、ご存じないかもしれませんが、昭和の言葉で言えば『蒸発』です」
「蒸発ですか」
「ええ、現在でも見つかっておりません」
「それで、警察は弟を探しておられるのですか」
「盗難届が出されていますので……」
「盗難届……」
「身内の方にはお伝え難い話ですが、弟さんは会社のお金に手をつけました」
「弟が金を盗んだ、ということですか」
「どうも、そのようです」
「どうも、というのは……」
「遺書が見つかり、そこに記載がありました。弟さんが残した遺書です」
「失踪しているのに遺書ですか」
「会社に郵送されました」
「それならば、弟はまだ生きているでは……」
「もちろん、その可能性はあります。けれども遺書の中で、弟さんは自殺を仄めかしています」
「しかし、死体は見つかっていない」
「現時点では、そうです」
「それで警察は急いで弟を探しているのですね」
「防げるものであれば自殺は防ぎたい。これは自分の本音です」
「だが、弟は見つからない。ああ、それで……」
「どうにか関係が繋がった岡田森さんの許へ、自分が、お邪魔をしたわけです」
「化粧ですか」
素っ頓狂な声を桜は上げる。
もちろん、そんなことは滅多にないらしく、店の客たちの目が瞬時、桜たちのテーブルに集まる。が、すぐに何事もなかったかのような常態に戻る。けれども、ある刹那、ほんの僅かの間だけ、店が静まり返る。
「牧村さん、それ、わたしに言いますか」
思わず頬を赤くし、桜が牧村に問う。
何であれ、牧村からの頼み事は嬉しい。が、自分と化粧はお門違いだろう。確かに今宵、自分は化粧に気合を入れている。けれども日頃の自分に化粧っけがないことを牧村は知っているはずではないか。
スクリプターの荻野原寿実か、スケジューラーの根岸佳苗の方が適任だ。百歩譲って、桜に誰かを指導できるとすれば、それは脚本の書き方くらいだろう。
そう思いつつ、桜は牧村を、そして満を交互に見つめる。ややあって、脱力したように口にする。
「その役ならば、モデルの妹さんの方が適任ではないでしょうか。瑠璃さんがミチルさんのお友だちでもあるのなら……」
桜が牧村に訴えた内容は正当だろう。が、そこで初めて満が言葉を挟む。
「瑠璃ちゃんは、今でこそモデル……の見習いですけど、元々、化粧っけがなくて、自分ではできない……しないんです」
初めて聞く満の声に桜は思わず戸惑ってしまう。何故なら、所謂アニメ声だったからだ。桜はアニメの脚本を書いた経験はないが、幾つかの機会に声優と話した経験がある。だから、生のアニメ声も知っている。
満の声は正にそういった感じのモノだったのだ。
「えっ、そうなの……」
反射的に桜は答えたが、自分の中で満のイメージが混乱する。もっとも世にアニメ声の水泳選手がいても何ら不思議はないのだが……。
「はい。そうなんです」
満が桜に返答する。
「一回、一緒に鏡を見ながら、お化粧にチャレンジしてみたことがあるんですけど、どう考えても子供の落書きで……」
満が困ったような顔をしつつ、ジェスチャーを交え、説明する。すると桜の目の裡に、若い(子供の)女二人がお化粧ごっこをする情景が浮かび上がる。自然と頬の筋肉が緩んでしまう。案外、可愛い女の子なのかもしれないな、と桜は満の評価を変える。
それに……。
(満は牧村さんの妹さんの友だちなのだ。点を稼ぐ相手としては悪くない)
という打算も働くのだ。