誰かここから
意識が朦朧とする。
霞む視界には、一人の女の子……いや、女性か。
この状況で、女の子と呼ぶのは失礼だろう。
頭のてっぺんから足の先まで、雪のように純白の女性。
赤い瞳が近づいてくる。
荒い息づかい、生暖かい風と呼吸の音が景護の耳に届く。
横たわった体の上に、馬乗りになられている。
腹の辺りに、彼女……セツハの体温を感じる。
ゆっくりと倒れかかってきた彼女は、自分以外の存在を求めるように、強く抱きしめる。
「あなたに決めました。私に出会ってくれて、ありがとうございました。今日のこと、あの言葉、本当に嬉しかったです。景護様が、私のことを忘れてしまっても、あなたと私が出会った証があれば大丈夫です。その証を胸に、このセツハ、役目を果たします」
顔に触れたのは、震える小さな手。
体は動かない。
思い当たる点としては、食事に何か入っていた……そのくらいか。
「な、何も、してやれて、……ないのに、感謝される、い、謂れはない」
無理やり言葉を絞り出す。
「ッ!!ま、まだ意識がありましたか。……いいのです。私を助けてくれると言ってくれる人がいた。それだけで、それだけで、十分なのです」
まぶたを下ろすように、顔を撫でられ、何か呟くセツハの声と共に、景護の意識は途絶えてしまった。
「こんな汚らわしい女と、体を重ねることをお許しください。必ず忘れられますので、どうか、どうか一度の過ちに付き合ってください景護様」
深呼吸一つ。
セツハは景護が、動かなくなったことを確認し覚悟を決める。
自分の服を緩めようとした、その時。
眠ったままの男に、手を掴まれる。
『こいつが、いい男なのは保証するが、お嬢さんがそんな暗い顔のままそんなことするのは、見過ごせないな』
「え!?景護様……じゃない?」
『あら、この世界だと力が顕現しやすかったけど、声まで聞こえたのは初めてね』
「こ、今度は女性の声!」
『姐さん、景護はまだ起きないのか?』
『うるさいわね。今やってるわよ……何飲ませたのよ。まったく』
セツハは、自分が眠らせたはずの男が、一人で会話をするのを眺めるしかなかった。
男性の声と女性の声。
どちらも、景護のものとはもちろん違った。
「きゃ」
一晩は動かないはずだった男が、ゆっくり体を起こし、バランスを崩したセツハは、景護にしがみつく。
零距離。
女性の柔らかさと優しい香りを感じる。
「す、すみません!景護様」
慌てて離れようとする彼女を、景護は優しく抱きしめる。
「セツハ、アナタはいったい何を背負っている?」
「……言えません」
「言わないとこのままへし折るぞ」
「この生が終わるのなら喜んで」
「襲うぞ」
「景護様になら喜んで」
「ここに居座り続けてセツハのヒモになるぞ」
「共にいてくれるなら喜んで」
景護はセツハを離し、仰向けに倒れる。
「……ったく、強情だな。説明くらいしてくれよ」
『教えてくれないのなら、当てりゃいいだろ景護』
大将の声に、ビクリとするセツハ。
今まで、体に宿る彼らの声に反応する人なんていなかったから新鮮だ。
『私達の声が聞こえる……彼女は特別な力を持っているのは確実ね。役割……町の人は魔物を封じていると言ってたかしら。そして、景護を何に使おうとしたか……まぁこの状況から、もう分かるわよね景護』
「代々、彼女の血筋が魔物の封印という役割を背負う。……噂は遠からずか。彼女のわずかな自由は、子供をつくる相手を選べる……騎士は黙認というか協力してるんだろうな。こんな決まり、自由なんて言いたくないけどな」
『おいおい、成り立つか?一発で子供できるとは限らんだろ?』
『……はぁ、デリカシーのない男。言葉を選びなさいよ』
黙って俯くセツハを見上げる。
微かに震えているようにも見えた。
「よし」
パンと手を打ち、勢いよく景護は起き上がる。
「その魔物、倒してくるか。ここは広くはない。探せば見つかるだろう」
「やめて……それだけはやめてください」
胸に飛びついてきて、胸の中で小さな声で訴える彼女。
「なぜ?」
上げた顔、その瞳に涙が浮かぶ。
「勝てませんから……。高ランクのギルドの方でも、国で一番と言われた騎士でも、特別な力を持つ宙の祝福でも……。……分かりました、この場所のことを説明しますから、来てください」
殺風景な部屋を出て、廊下を歩く。
古い木製の廊下はどこか懐かしさを感じる。
セツハが持つろうそくだけが、視界を照らす。
「ところで景護様。その、あの……」
「ああ、二人のことか。俺の中に、宿っているというか、憑いているというか……とにかく味方」
「外では、そのような人が普通なのでしょうか?」
「いや、そういうわけではない。なんというか……俺がおかしいだけだ」
「フフッ、そうですか」
微笑む彼女は部屋の前で立ち止まり、障子を開ける。
生き物の気配はしないが、複数の影。
火が灯され、部屋の中心で横たわっている物の姿が明らかになる。
「人形……?」
「はい」
部屋の奥には、乱雑に積み重ねられた人形達。
一体の大きさは、ほぼ人と同じくらい。
目や鼻、大きな凹凸はないが、人に似通ったその姿。
そして、部屋の中心にある一体にセツハは近寄り顔を撫でる。
「これが、私の子供となる予定のものです」
「え?」
「その……景護様にご協力いただいた状態で、この子に私が力を注げば、次の巫女として起動するのです」
「……協力ってかアレだよな」
白い顔が真っ赤に染まる。
「い、言わないでください」
「あっちに積まれた人形は?」
「……あれを、魔物に捧げるのです。封印なんて言われていますが、抑えているだけなのです」
「巫女が起動とは?アナタも同じ原理……いや、失礼。生まれは同じ感じなのか?」
「おそらくそうです」
「おそらく?」
「はい、私が自我を持った頃には先代はもういませんでした。ですが、私達の使命はこの体に術式として刻まれています。人形の製造法、そして次の巫女の作成、最後の役割も」
大きく息を吸い込み、一つ息を吐く。
透き通った白髪が静かに揺れる。
「次の巫女に力の譲渡。そして、この身を捧げ、封印の強化を施し、私の役割は終わりです。最後の役割は、次の巫女が自我を持つまでの時間稼ぎなのです」
「……」
重そうに、人形の一体を背負うセツハ。
見ていられず、代わりに持つ。
担いだそれは、不思議な熱を放っていた。
それはまるで、生きているかのような……。
セツハが暮らしている小さな神社のような建物から外に出る。
周りが暗いのは確かだが、結界に囲まれているからか、空は見えにくい。
二人は、小さな湖の周りを静かに歩く。
急にセツハが、立ち止まり地面を触れば、そこが輝く。
「開け、迷宮への道」
地面が開き、現れた階段を下り、下り、下る。
辿り着くは、明かりの灯された地下空間。
かなり広く、奥行きもある。
目を凝らす。
檻。
十字に組まれた金属は、動物園を思い出させる。
だが、腕。
隙間から伸ばされる屈強な腕。
そして、何より見上げなければならないほど大きなそれは……。
「ミノタウロス……この大きさ、家程度はあるな」
人のような体に、牛の頭。
ただ、大きさが想像以上の怪物だった。
「その線から先には、絶対に入ってはいけませんから」
檻の前には白線。
おそらくあれのリーチがあそこまで届く可能性があるのだろう。
セツハが目で合図をするので、人形を投げつけてみる。
興奮した怪物は、夢中でそれを掴み、肉や骨をかじるような生々しい音をたてながら喰らう。
そしてそれが終われば、セツハを見つめ、ひたすら檻を殴り始める。
「景護様がいるだけで、この暴れよう……人が多く来ればこの守りの結界は、手痛い損害を負うでしょう。だから無理なのです。少人数であれを倒すなど」
セツハは、今までになかった圧のこもった睨みを景護に向ける。
「景護様に覚悟はありますか?やってみなくては分からないといった浅い考えで、今まで封じている状態だったものを不安定に……最悪この怪物を解放してしまう。そんな災害に触れる覚悟が!私のような作られた人形一つで済むのなら、それは賢い選択だと思いませんか!」
景護は胸に手を当てる。
「アナタが助けを求めていたから、助けに参りました」
セツハがカッと目を開く。
嘘でもいいから、誰かに言ってほしかった言葉。
そして、彼なら、彼と結ばれるのならこの生に意味があったと思えた言葉。
「自分の言葉に責任は持つ。二人とも、力を貸して欲しい」
『そうね、牛は嫌いじゃないけど、ここは景護を立てようかしら。やりましょう』
『よっしゃ、全会一致!コイントス不要!景護、やってやろうや!』
「ありがとう。それじゃ、セツハ行ってくる」
「それは、困るよ国坂君。世界を危険に晒すのは」
「ガッ!」
背後から、魔法をくらう。
詠唱はなかったが強力な効果を発揮する。
頭の中を抉られるような感覚に、膝をつく。
「忘却の術式を含んだ刻鏡石。本来は、結界を出た後に使う予定だったのだけど……セツハ様、どうしてこんなことに」
「ク、クロカさん」
「つい、貴重な一番強力なやつを使ってしまった。ところで、なぜ彼に言わなかったのですか?この怪物に人の攻撃は通用しないと。レベルの差とか、相性とかそんな次元ではないのだと」
「そ、それは……」
クロカはわざとらしく、溜め息を吐く。
「期待ですか。……焦らないでくださいよ。大丈夫です。いつも言ってるじゃありませんか。このクロカが必ず、セツハ様をお救いすると」
「……」
「それに、世代交代も焦る必要ありませんよ。まだ時間はあります。この男は、あなたの相手に相応しくなかった。それだけです」
クロカは景護を背負い、俯いたセツハがそれに続く。
地下から、地上へ。
そして、この空間と外の境目、結界の前。
「この男は、僕がちゃんと帰しておくので、安心してください。……しばらくは、セツハ様の依頼は騎士だけで行うかもしれませんね」
「はい」
「では、また。何かあればこのクロカがすぐ駆けつけますので」
セツハは二人を無言で見送る。
自分を救ってくれると言ってくれた男は姿を消した。
彼の記憶も消され、なかったことに。
まるで、都合の良い夢を見ていた気分だった。
「さようなら、景護様。あなたの言葉、ずっと……ずっと忘れません」
首都ガーランサス。
女王の好意により、貸してもらった城内にある一室。
荷物だけ置かれた景護の自室。
男は眠る。
一夜の出来事を忘れ。
あの出会いは夢のように、儚く消えた。
だが、彼は憑かれていた。
『あの牛を狩るなら、牛刀?とかブッチャー?とか準備した方がいいのかね。姐さん!』
『知らないわよ、そもそも戦闘用じゃないでしょ。あと話しかけないで!景護の記憶の修復で忙しいんだから!』
『万能だねぇ。この世界の訳の分からない術式をどうにかできるなんて』
『このままだと、この子が納得しないでしょ』
『……そうだな。記憶が無くとも、心がずっと引きずるだろう』
『私達が教えてもいいけど、それだと彼女がね……』
『ヒュー、姐さん、最高。……幸せな結末、目指しますか』
『ええ』
動けぬ男の体の中が、心が燃えていた。




