ショートショート029 現実
精神科医であるエル氏の部屋に、一人の青年が入ってきた。
「どうぞ、おかけください」
エル氏にすすめられ、青年は不安そうにしつつも腰を下ろした。
「では診療を始める前に、何点か必要事項を確認させていただきますね」
いくつかの質問に青年は答え、エル氏はそれをカルテに書きとって、さっそく問診にうつった。
「それで、今日はどうされました」
「何と言うか、その、とても奇妙な話で、信じてもらえるか分からないんですが」
「奇妙というと」
「はい。実は、僕の部屋に幽霊が出るんです」
「ほほう、幽霊」
「そうです。若くてきれいな、女の幽霊です。みごとな黒髪は腰まであり、顔は芸能人顔負けに整っている。スタイルも抜群。どことなく品さえ感じる。まさにこれこそ女性のあるべき姿だ、というような幽霊なんです」
ふむ。若い男のところに現れる、理想的な美人の幽霊か。よくあるパターンだ。心の中でそう思いながら、エル氏は続きを促した。
「最初から、詳しくお聞かせください」
「ある日、僕が勤め先から帰ってみると、部屋にその女がいたんです。ですが、僕には恋人なんていないし女友達もいない。そんな僕の家に、あんな美人がいるわけがない。いや、それ以前に、鍵をかけていたはずの家に知らない人間がいたのですから、僕は驚きました」
「それはそうでしょうね」
「それで、驚きのあまり大声を出してしまったんですが、どうにも妙でして」
「妙、ですか」
「いっさい反応しないんですよ。僕が大声をあげても、気づかないふりをする。誰だと聞いても無視される。警察を呼ぼうかと思いましたが、痴話喧嘩と思われるのも嫌なのでそれはやめました」
「まあ、それがいいでしょうね」
「それで、きっとこいつは幽霊なんだろうなと思ったわけです」
「なるほど。それから」
「それからは、ずっと奇妙な共同生活を送っていますよ。生活と言っても、会話があるわけではないんですがね。おかしな話でしょう」
エル氏は、やはりな、と思った。察するに、この青年は女にもてないのだろう。ならば、外ではいつも女に目をやり、また女からの視線を強く気にしているに違いない。
「大丈夫ですよ。よくある話です」
「よくあるんですか」
「ええ。それはいわゆる幻覚というやつです。気のせいですよ」
「僕だって、最初はそう思いました。ですが、いやにはっきりしているし、普通に暮らしているようにも感じる。とても幻覚とは思えない」
「しかし、その幽霊は、あなたと会話をしたことがないんですよね」
「そうです」
「そして、あなたにとって理想的な美人でもある」
「そのとおりです」
「ならば幻覚です」
「どうしてそう言えるんですか」
青年は少し強い口調でエル氏にたずねた。見てもいないのになぜ断言できるのかと、不信感を抱いたのだ。
「あなたは常日頃から、異性に関心を抱いているでしょう」
「それはまあ、僕も男なので、そういうことはもちろんありますが」
「しかし、なかなか異性に振り向いてはもらえない」
「そう言われるとつらいですが、そうですね」
「現実は厳しい。自分は異性に興味を持っているのに、向こうには興味を持ってもらえない。しかし、世の中にはそうでない人もいる。特に何をしているわけでもないのに、やたらと女にもてる男がいる。そうした理不尽に対する不満や、満たされない欲求不満がつのると、やがて美人の幽霊という幻覚を作り出し、不満を解消しようとすることがあるのです」
「それは、いくらなんでも」
「あなただけではありませんよ。同じような症状をお持ちの方は、ときどきいらっしゃいます」
「そうなんですか」
「ええ。その美人の幽霊は、あなたと会話をしないと言いましたね。幽霊とは、誰かにその存在を認めてほしいものだ。つまり、本物ならば会話をしようとする。だが、その美人はそうしない。それこそが、幽霊ではない証拠ですよ」
「しかし、私の不満が生み出した幻覚だというのであれば、むしろ会話をしないとおかしい気もしますが」
「いえ、それでいいんですよ。あなたのその幻覚は、崩れた心のバランスが生み出したものです。あなたには、美人の女性と親しくなりたいという願望があった。しかし同時に、そんなことができるわけがないと思い込んでもいる。この二つの作用が拮抗し、話すことができない美人の幻覚が現れたというわけです」
「そういうものですか」
「ええ。幻覚症状を抑える薬もありますが、おすすめはしません。費用もかかりますし、薬に頼り続けるのもよろしくない。何より、それでは根本的な解決にはなりません。しっかりと現実を見て、どうすればいいのかを考えるしかありません」
「なるほど。おっしゃるとおりです。なんだかすっきりした気分ですよ。ありがとうございます。頑張ってみます」
青年は納得し、また幽霊ではないと分かって安心したのか、来たときとはうって変わった晴れやかな表情になって、部屋をあとにした。
エル氏はしばらくカルテに問診の内容を書いてから、ドアの外に声をかけた。
「次の方、どうぞ」
青年の次に入ってきたのは中年にさしかかったくらいの主婦だった。エル氏はさっきと同じように必要事項を聞き、カルテに記入して、問診を開始した。
「それで、今日はどうされましたか」
「先生、わたし近ごろ、声が聞こえるんです」
「声というと」
「子供の声です。家でゆっくりしているだけなのに、赤ちゃんの笑い声や泣き声が聞こえるんです。テレビやラジオじゃありません。近所に幼い子がいる家もありません。一時的によその子を預かっているという話も聞きません。うちには子供はいないんですよ。それなのに、そんな声が毎日聞こえるんです。これはもしかしたら、座敷わらしみたいな妖怪のたぐいじゃないかと思うんです」
女は一気に吐き出した。エル氏はそれを聞いて、ははあ、なるほどと納得した。
「大丈夫ですよ、奥さん。それはただの幻聴です」
「しかし、あんなにはっきりと聞こえるんですよ。幻聴のはずがありません」
「人間の脳とは不思議なものです。心のバランスが崩れていると、そのバランスを戻そうとして、見えないはずのものが見えたり、聞こえないはずのものが聞こえたりする」
「わたし、そんな不安定な気持ちになっているつもりはないんですけれど」
「失礼ながら、奥さんのご家庭には子供はいらっしゃらないんですよね」
「ええ。前々から欲しいとは思っているんですが、なかなか」
「それが原因です。あなたはご自身で思っている以上に、お子さんを欲しているんです。しかし、現実は厳しいものだ。なかなかうまくいかない。そういうとき、心のバランスを保つため、脳が幻を見せたり聞かせたりすることがあるのです」
「それは、そういうこともあるかもしれませんが」
女が不安そうな表情をしたので、エル氏はすかさず付け加えた。
「不安がる必要はありません。こういうことは、よくあることなのです。他にも、同じような事情で幻聴が聞こえるという方は、多くいらっしゃいます。奥さんだけが例外ではないのですよ」
「そうなんですか」
「ええ。世の中には、さまざまな悩みをお持ちの方がおられます。理想と現実のギャップが生じたときには、それを是正するような幻聴などが聞こえるというのは、昔からよくある話なんですよ」
女はほっとした表情になったが、すぐにまた不安な顔つきになって言った。
「では、どうすればいいんでしょうか」
「焦らないことです。焦りは、人をだめにします。心の健康の、最大の敵なのです。薬をお出しすることもできますが、おすすめできません。難しいことですが、現実をきちんと受け止め、それでも焦らないようにすることです。そうすることでしか、根本的な解決は図れません」
「そうですわね。たしかに、おっしゃるとおりです。わたし、自分で思っていた以上に、焦っていたのかもしれません」
「そうです。古来より、子供は天からの授かりものと言います。ひょっとすると、子供が欲しいと焦る心をしずめるために、そのように考えたのかもしれません。昔の人は、偉いものです。これこそ、人間がすこやかに生きる知恵なのですよ」
「そう言われると、そんな気がしてきましたわ。先生、ありがとうございました」
女はそう言って、初めよりも安らかな顔つきで部屋をあとにした。
その後も、エル氏の部屋を患者が次々に訪ねてきた。エル氏はそのたびにカルテを取り、事情を聞き、それは幻です、現実を認識することこそが唯一の解決策なのですと言って患者を送り出した。エル氏の下した診断結果と、患者に提示した解決策はすべて同じなのだが、それで患者はみな、悩みからすっかり解放されたという顔になって帰っていくのだった。
しばらくして、ようやく患者が途切れた。そこへ、エル氏と提携している病院に勤めている職員の男がやってきた。
「先生、失礼しますよ」
「や、これはどうも」
「今日も盛況だったようですね」
「はい、おかげさまで。多くの患者さんの力になれたようです」
「それは良かった。それで、今週分のカルテはどちらでしょうか」
「これです。どうぞ」
エル氏はそう言って一週間分の患者のカルテの束を男に渡した。
「たしかに受け取りました。ところで、特に何か、変わったことはありませんでしたか」
「ええ、いつもどおりでした。みなさん、やはり多くのストレスを抱えているようでしたが、現実をしっかり認識するようにと言うと、納得していただけました」
「再来の患者さんもありませんでしたか」
「ありません。これまでも、一度だってありませんでしたからね。きっとみなさん、現実をきちんと受け止めることができたのでしょう」
「実にいいことですね。先生のおっしゃるように、現実は厳しいものです。幻を生みだしてしまうのも、分からないではない。それを乗り越え、ちゃんと生きていけるというのは素晴らしいことです」
「まったく同感です」
「私たちも患者さんへのお力添えができるよう、このカルテをせいいっぱい活用させていただきますよ。うちの病院の精神科は、ここにくらべるとまだまだなのでね。ではまた来週、同じ時間に伺いますので」
「ごくろうさまでした」
エル氏は部屋の外に出ていく男を見送り、今日もよく働いたなあと大きく伸びをして、ベッドに潜り込み眠りについた。
一週間後。
いつものようにエル氏とのやりとりを終えて病室から出てきた職員の男に、精神病院の院長が話しかけた。
「先週分の調査は終わったか」
「はい」
男は、一週間前にエル氏から受け取ったカルテとその調査結果を取り出し、院長に渡した。院長はそれをぱらぱらとめくりながら言った。
「ほう、先週は百名超か。よくもまあ続くものだ。自分を精神科医だと思い込み、毎晩毎晩、幻を相手に幻の診療。まったく、おそれいるよ」
「私は、話を合わせるだけで一苦労ですが」
「それはごくろうだったな」
院長は笑いながら部下の男をねぎらった。男も、いえ、と軽く笑ったが、すぐに真顔になって言った。
「それにしても分からないのは、このカルテです」
「そこに書かれていることは、今回も事実に合致していたんだな」
「そうです。たとえば、この青年についてですが」
そう言って、部下はあの青年に関するデータを院長に見せた。
「調査の結果、この青年は数か月前に死亡していることが分かりました。恋人が全然できなくて、それでずっと悩み続け、ついに線路に身を投げたそうです」
「ふむ。そんなことで自殺してしまうとはな。私にはまったく理解できんよ」
「それで、その青年が住んでいた部屋には、いまは女が暮らしています。遠目に見ましたが、腰まで届くきれいな黒髪をした、すごい美人でしたよ。そこらの芸能人など、くらべものにならないほどの。スタイルもいいし、品もある。カルテの内容と完全に一致しています」
「どれどれ。ほう、こっちの主婦は、数年前に事故死か。子供はなし。旦那は妻の死後引っ越すこともなく、二年前に再婚して、その後子供が一人生まれたと」
「ええ。家からは、赤ん坊の楽しそうな声が聞こえてきました」
「これもまた、正しかったわけだ」
「しかし分かりません。あの病室にはテレビやラジオは置いていません。完全に隔離しているので、他の患者との接触もできません。情報を得られるわけがないのですが」
「本当に幽霊と話しているんじゃないのか」
「そんな、まさか」
「ここまで一致していると、そうとしか思えんだろう」
「しかしそれでは、青年は女の存在を、主婦は赤ん坊の泣き声を、幻だと思った理由が分かりません」
「青年も主婦も、死んで幽霊となった。しばらくはそれに気づかず、毎日を今までと同じように過ごしていた。だがある日、青年の家に新しい住人が引っ越してきた。旦那は再婚して子供ができた。青年も主婦も、それを認めたくないから、見ないふりをした。現実を受け止めず、しかし現実にはあらがいきれず、しかたなく幻として処理した。そんなところじゃないか」
「では、再来患者が一人もいないのはどういうことなんです。本当にあの男が幽霊の相手をしていたとして、幽霊が現実を認識してしまったら、怒り狂ってやって来そうなものですが」
「そこだよ。現実を認識するというのは、つまり自分が置かれている状態を正しく理解するということだ。幽霊だとどうなる。成仏するに決まっている。再来するわけがない。どうだ、筋は通るだろう」
「それはそうかもしれませんが……」
部下は、まだ納得がいかないという表情をしている。
「まあ、いいじゃないか。幽霊に現実を認識させ、成仏させている。トラブルも特に起こっていない。何もかもうまくいっているんだ。そのバランスをわざわざ崩す必要はないさ。それに本当に幽霊なら、あの男はそこだけは狂っていないことになるが、幽霊が見えるなど、信じてもらえるはずもない。頭がおかしいと笑い者にされるだけだ。ここにいるのが一番幸せだろう」
院長は少し言葉を切ってから、皮肉な口調で、こう続けた。
「そう、ここにいるのが幸せだ。なにせ、現実は厳しいものだからな」