第5章 サトラゲとの攻防(1)
とにかく、タソガレ島を出よう。そう思った時、ふと思い出した。すぐにポケットに手を突っ込むと、それは落としていなかった。
「まだ落としてなかったんだ」
取りだしたのは笠野さんが連れていかれてから部屋に残されていた彼のカードケース。開いてみると、そこには笠野さんの免許証があった。名前はやはり「浅野太一」ではあるが。
「それは何?」
免許証に気がついて、ヤサが覗きこんでくる。
「俺と一緒にいた笠野さんが連れて行かれた時に残ってたカードケース。ここの名前、浅野太一って書いてあるだろ? でも、俺には笠野忠文って名乗ったんだ。どうしてそんなことをしたんだろう」
ヤサはそっと免許証を手に取って眺めた。免許証をじっくりと見る。やがて、眉間にしわをよせて悲しそうな顔をした。
「気づいてなかったんだ。外界との関係がなくなって、自分の名前さえわからなくなっていたんだ。彼の本当の名前はここに書かれているものだよ。……これがタソガレ島に来た人間の最終段階だ。自分の名前すら分からなくなって、本当に全てを失う。だから、早くこんなところから逃げなくちゃいけない」
「あ、あのさ、1つだけ訊いていい?」
ヤサが俺の方を見てから、思い切って訊いてみた。
「どうしてヤサはここのこと、そんなに色々知ってるんだ?」
ヤサの顔に影がさし、目をそらすのを見て、両手をヤサに向けた。思い出したくないことまで思い出させてしまったんだろうか。
「あ、いや、話したくなければいいんだ」
そうは言ったものの、気になってないと言えば嘘になる。でも、これ以上訊けない、いや、訊いてはいけない気がして、それ以上は追究しなかった。
「ありがとう」
小さく礼を言い、ヤサは一歩前に進んだ。
「さぁ、もう行こう。サトラゲは賢い。同じ所にいたらすぐに見つかって」
その瞬間、ヤサが目を見開いて言った。
「裕、走れ!」
何事か理解する前に俺はヤサを追って走っていた。遠くで樹がなぎ倒されていくのが聞こえて、走りながら後方を見た。サトラゲが咆哮しながら走ってくるのが見えて、体を恐怖が駆け抜けて足がすくみそうになる。
「裕、こっちだ!」
その声が俺を引き戻した。ヤサが直角に曲がって樹がさらに立ち並ぶ場所へと入っていくのを見て、必死で走った。追いつかれたら食べられてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
ヤサの後を追って走ったはずが既に姿は無く、心細くなって泣きそうになる。
「ヤサ!」
急に腕を引っ張られて悲鳴を上げそうになったが、樹の中に引っ張り込んだのがヤサだと分かって口を閉じた。笠野さんと泊まった時の様な樹のホテル。その中にヤサは隠れ、俺を引っ張りいれてくれたのだ。既に入口は閉じており、サトラゲからしてみたら、俺達は急に消えたように見えるだろう。
「静かに」
そう言われて俺はすぐに口を閉じた。物音一つたてればサトラゲに見つかってしまう。それだけはどうしても避けたい。ヤサは壁に耳をつけて外の様子を窺っている。俺は部屋の隅でヤサの様子を恐る恐る見ていることしかできずにいた。5秒、10秒と時間が過ぎていく。
突然壁からヤサがはじかれるように飛び退くのと同時に樹が揺れた。笠野さんと一緒にいた時に体験した地震のようなものと全く同じもので、サトラゲが体当たりしている揺れだったのだと理解した。あの時襲ってきたのはサトラゲだったのだ。
ヤサはすぐに入口の横の壁を左右とも手で触れた。その瞬間木の壁から何本もの弦が伸び、入口に張り巡らされた。何をしたのか分からず立ちつくしている俺に、ヤサは鋭く声を発した。
「裕! ここから出るよ!」
ヤサは既にここから出るために動き始めていた。
「あいつは賢いんだ。一筋縄じゃいかない! 簡単な相手なら葉っぱに乗ったまま出口まで飛んでるよ!」
そう言いながらもヤサは部屋中の壁に触れて回り、その壁からも次々に頑丈な太い弦が伸びた。家具を巻きこんで絡みあって入口を覆い尽くしていき、それはもう立派なバリケードだった。
「これで時間が稼げる」
ヤサはすぐに俺の隣にやってきてもう一度壁に手を触れたが何も起こらない。
「ダメだ。ここからは出口を作れない」
それだけ言うと、ヤサは壁を数回叩いた。壁からは押し出されるように手斧が出てきた。
「裕も手伝って。あんなバリケードじゃすぐに突破されてしまう。その前に裏口から逃げて撒くんだよ!」
ヤサと同じように壁を叩くと同じ手斧が出てきた。まさか、こんなシステムがあったなんて……。笠野さんも知らなかった事をヤサは知っている。でも、今はそんなこと考えていられない。
既にヤサは壁を斧で殴りつけており、俺も夢中で加勢した。その壁は穴こそできなかったものの、薄くはなっているようだった。何度も斧が食い込んで、必死で引っ張り、また振り上げては下ろす。木の壁は少しずつえぐれ始めるが、壁を破壊できるにはまだ程遠い。その時、急に樹が揺れた。
「裕、急げ!」
ヤサがさっきよりも思い切り斧を振り下ろしている。何度も樹が揺れ、入口がミシッと嫌な音を立て始め、サトラゲが中に入ってこようとしているのが分かった。何度も何度も斧を振り下ろすと、小さな穴ができた。外が見えている。
「アケテ。アケテ。ナカニイル。アケテ」
脳に直接響くような声に手が震えた。息をする速度も速くなり、必死で壁に斧を振り下ろす。早く逃げないと。早く逃げないと。焦って斧を振っては何度も別の場所に突き刺さってしまう。ヤサが的確に斧を振りおろして少しずつ穴を広げ、なんとか1人通れるほどの穴ができた。




