第7章 戦いの準備(1)
ヤサの傷は数分後には塞がって跡形もなかった。不思議なものである。彼の体は実体こそあるように思えるが触れることができる幻の様なものらしく、何度傷つこうが、何度致命傷を得ることになろうがその度に傷は消えてしまう。ヤサが十分に動けるようになってから、俺達はこっそりと卵の殻から出た。外は小さな窓の外から見えていたのと同じく美しい景色は消え失せ、代わりに血の様に赤い空と泥の地面が広がっていた。森からは腐臭がして、どれも溶けたようになっている。
「何か策を練らないと。入るのは簡単でも出るのは難しいからね」
周囲を警戒しながら森の中へと入っていく間にヤサがそう言った。
「そういえば、前も出るのは難しいって言ってたよな? それってさ、もしかしてヤサは出ようとして頑張ったんじゃないのか?」
「出るか出ないか迷ってただけだよ」
そっけなく返したヤサに、俺は言葉を変えて尋ねた。
「ってことは、ヤサはもう出られる場所まで来てたのに、それでも見知らぬ俺を助けに戻ってきたってことじゃないか?」
前を歩くヤサは、そうだとも、違うとも言わなかった。足を止め、間を空けて振り返り、ただ
「祐が無事で良かったよ」
とだけ言った。
ヤサは迷っていたのだ。綺麗な空を見たい、でもここから出たら消えてしまうかもしれない。それでも、もう島を脱出できる場所まで来ていた。そんな時に何も知らない俺が島にやってきた。ヤサはそれを見て放っておけなかったのだ。俺のために、目の前にあった可能性を捨てて助けに来てくれた。俺の命を救おうとしてくれた。
「ごめん」
そう言わずにはいられなかった。俺はヤサを厄介者扱いしてひどい言葉をぶつけてしまったのだから。
「ごめんヤサ……」
―お前な、いい加減なことばっかり言うなよ! かまって欲しいにしてもひどすぎるぞ! デタラメなことばっかり言って、言われた人がどう思うかもわからないのかよ! 鬱陶しいんだよそういうの!
―とにかく、二度と俺に近づくな!
ヤサに言ったあの時のことが鮮明に蘇ってくる。
なんでそんなこと言ってしまったんだ。ヤサは俺を救おうとしてくれたのに、俺はなんて事を言ったんだ。あの時の俺に会えるなら殴ってやりたい。バカで分からず屋な自分を怒鳴ってやりたい。あの言葉を消せるのなら、今すぐ消してしまいたかった。
ヤサは傷ついただろう。悲しかっただろう。苦しかっただろう。それでも俺の事を一言も責めたりしなかった。何も知らないみたいに笑顔で俺を救ってくれて、体が弱いのに体を張って助けてくれた。
ここに来るまで俺は全く知らなかった。何も、知らないままで、ヤサを深く傷つけていたのに無事で良かったと言ってくれるのだ。罵ってくれたらいいのに。ふざけんなって怒鳴ってくれたらいいのに、優しすぎて、言葉が暖か過ぎて、涙が止まらなかった。
消えろ。うざい。きもい。いなくなればいいのに。そして、命そのものを捨てろと言わんばかりの心ない言葉を毎日浴びせられてきた俺は、いつしか誰かに頼ることも、歩み寄ることもしなくなった。味方なんていない。誰も助けてなんてくれない。自分で何とかするしかない。そうやって自分を守るしかなかったのだ。
ヤサが掛けてくれる言葉はただ優しくて胸に沁み渡っていくようだった。何度バケツの水を浴びせられてきただろう。何度殴られただろう。そして、何度自分で立ちあがってきただろう。そうしていつしか心も体もボロボロになっていた。
世界に絶望して、生きることを捨てようとした、こんな自分に勿体な過ぎる言葉。こんな俺の身を本気で案じ、自分の危険にさらしてまで助けにきてくれたというこの事実が、今まで欠けていた何かを思い出させてくれたような気がした。
ただ俺は思っていた。
俺って、生きていてもいいんだ。
きっとヤサの言葉に同情が一切入っていなかったからだろう。自然にそう思っていた。張り詰めていた何かが急に切れたみたいだった。いつからだろう。朝が来なければいいと思った。世界なんて無くなってしまえばいいと思った。今すぐにでも消えてしまいたいと思った。これが俺の本心なんだって思ってた。違う。
何度も屋上へ行き、その度縁に立ったのに飛び降りることができなかった。
本当は誰かと一緒に笑いあっていたかった。
自分の事をなんでも話せる仲間が欲しかった。
誰かを大切に思ったり、思われたりしたかった。
そんな紛れもない自分の気持ちからだったのだ。手首を切った時、骨に達するほどまで深く切らなかったのは、それでも自分がどこかで生きたいと思っていたからだ。腕を切った痛みは一時的に俺の気持ちを落ち着かせてくれた。そうやって俺は生きようとしていたのだ。消えたいんじゃない。本当はずっと、自分でも気づかないうちに生きようとしてきたのだ。
何年もかかって今やっと、俺は自分の気持ちを知ったのだ。と同時に、嬉しい時にも涙が出る事を生まれて初めて知った。そう思ったら、ヤサに言わずにはいられなかった。
「ありがとう。ずっと辛かったのに、俺を、こんな俺を助けてくれてありがとう……」
喉の奥が鈍く痛い。目が熱くて、胸が痛くて、しゃくりあげていた。
「辛かったのは僕だけじゃない」
ヤサはそっと俺の腕を手に取ると、まるで大切なものにするように、何十本も並んだ細い傷跡を優しく両手で包みこんでくれた。その優しさに胸が締め付けられるようだった。こんなに優しい人を傷つけたのだ。
「大丈夫。ほら、もう行こう」
そう言われても、次から次へ涙が出てきて何度も腕で目元をこすった。すると、突然ヤサが俺の両頬を掴んで引っ張った。
「泣き虫か、祐は!」
目を合わせると、ヤサはにかっと笑っていた。気にするな、大丈夫だと気持ちが伝わってくる。俺を笑わせようとしてくれるように。
「いだだだだだ。やーめーろー」
そう言いながらも、生まれて初めての人との暖かなやりとりに、自然と笑うことができた。人と関わるって、安心できたり、なぜか笑顔になったりすることなんだな。ただそれだけで心が満たされることなんだな。そう思った。
「ヤサ」
笑いあっていたけれど、俺は真剣にヤサに向き合った。
「絶対に2人でここを出よう」
これが、俺がヤサにできる唯一の事だから。
ヤサはうっすらと目に涙を溜めて頷いた。