第6章 ヤサの願い(3)
ヤサは、苦しそうに打ち明けてくれた。
「裕は帰れないって言ったよね。居場所なんてないって。確かに、君は持っているものが少なかったかもしれない。苦しい事をたくさん経験してきたかもしれない。その度に立ち止まってもいいんだ。でも、裕、捨ててしまってはダメだ。捨ててしまったら、諦めてしまったら、取り戻したくなっても取り戻せなくなってしまう。取り返しがつかないことになるんだよ。逃げることは罪じゃない。逃げていても、前へ進もうとする人間にタソガレ島は見えない。全てを諦めた人間にしか見えないんだよ。やり直すんだよ裕。諦めちゃダメだ。人生は何度だってやり直せるんだ。だって君には家族がいるじゃないか。友達になれるかもしれない人達がいるじゃないか。自分の命も、時間も、記憶も、それから、裕が生きてもいい世界があるじゃないか。チャンスがたくさんある。学校が辛いなら別の学校に転校できる。通信制の学校だってある。定時制の学校だってある。辛い時に死を見ちゃだめだ。辛い時ほど生きる為の方法を見るんだ。そうやって周りを見渡したら、たくさんやり方はあるんだから。だって、裕の命も、人生も裕自身のものじゃないか」
強く俺にそう言ったヤサは、俺が怒鳴った時に見せたあの悲しい顔で絞り出すように言った。
「僕には、ない……。僕には何もない。命も、記憶も、世界さえも……。僕は空っぽなんだよ。なんにも、ないんだ……」
ヤサの悲しそうな表情の理由がやっと理解できた。どうして友達になることを拒否したのかも、どうして俺にタソガレ島を出るように言ったのかも全て納得できた。自分には命も世界も何もない。だからこそ、それを持っている俺に生きろと言ったのだ。言葉の重みを初めて理解した。なんて俺はバカだったんだ。なんて無神経で能天気で、自己中心的だったんだ。確かに辛かった。苦しかった。でも、他に選択肢はあったのだ。俺はずっと他に生きる方法を見ようとしなかったんじゃないか。
俺は何も持ってないと思っていたけど、そんなことは無かった。生まれてから積み重ねてきた経験や記憶、自分自身に与えられた時間、生きていける世界、見えていなかっただけでたくさんのものを持っていたんじゃないか。
「だから、裕は生きるんだ。ここを出て、綺麗な空の下で自分の人生を歩むんだ」
これから一緒にタソガレ島を出よう。そう俺が言っても、ヤサは出れば消えてしまい、仮に消えなくても、このままの状態で友達になったら俺をあの世に連れていってしまうことになる。ヤサはそういう都市伝説、つまり、そういう運命だから、ということだ。それなら、自分を犠牲にしてでも俺や、他の誰かを救うことが最善の選択なんじゃないか。そう考えたのだ。
「この傷は今も塞がってきてる。気持ち悪いでしょ?」
自嘲するようにヤサは言った。その顔は、既に一緒にいることを諦めていた。嫌われてもいい、そんな投げやりな気持ちと、それでもどこかで俺に否定して欲しい、そんな気持ちが痛いほど伝わってくる。それなら、ヤサにかける言葉はひとつだろう。
「ヤサ、一緒にここを出よう」
その言葉に、ヤサは驚いたように目を見開いて僕を見た。何をいってるの、とでも言いたそうだ。
「ヤサは、空が見たかったんだろ? なら見に行こう。それでいいじゃないか。ヤサは俺を助けてくれた。ヤサがいなかったら、俺は今ここにはいなかったんだよ。何も知らずにサトラゲの思うまま食べられてた。俺を助けたのはヤサだし、俺がここにいることはヤサがいた証そのものだろ。消えるかもしれないなんて、今考えるのはやめよう。せっかく生まれてきたなら、ヤサがやりたいことをしなきゃもったいない」
そう言いながら、これは俺自身にも当てはまると思った。退屈だとなにもせずただ浪費していた時間。誰とも関わらず、関わろうとせずできることをやろうともしなかった。与えられたかけがえのない時間と権利を、俺は今まで捨ててきたのだ。変われるだろうか。ここから出られたら、俺は変われるのだろうか。
「僕は、変われるかな? ここから出たら、何か変わるかな。」
ヤサが訊いた。一瞬心の声が口から出たのかと驚いた。ヤサに答えるように自分にも言い聞かせる。
「変われる。絶対に。俺は、ここに来るまでひどいいじめに遭ってた。助けを求めても誰も助けてくれないって卑屈になって、選択肢を自分で潰してたんだ。自分まで傷つけて生きることに必死で、そのくせにずっと楽になりたくて自分を殺すことばっかり考えてた。もうこんな世界うんざりだってね。でも今は思う。当たり前みたいな時間が、本当にかけがえのない大切な時間だったんだって。選択肢はたくさんあったんだって。選ぶのも立ち上がるのも自分だったんだって。だから行こう。ここを出よう。誰かのために犠牲になるんじゃなくて、自分のために一緒に生きよう。一緒に、前に進もう」
俺も自分のために、大切な誰かのために生きるから。これから、今まで無駄にしてきた時間を一生懸命生きるから。だから、行こう、ヤサ。
「ヤサがここを出て消えるのが怖いって言うなら、今度は俺が手を引くよ。ヤサがそうしてくれたように、今度は俺が、絶対にヤサの手を引く」
それを聞いて、ヤサは涙をこぼした。今までずっと寂しくて、怖くて、辛かった。そんな気持ち全部が溢れだして、ヤサは俺の前で声を出して泣いた。大丈夫。今度は俺が助けるよ。今度は俺がヤサを助ける番なんだ。