第6章 ヤサの願い(2)
卵の殻の中に入ると、ヤサを壁にもたれさせて扉を閉じた。ヤサも言っていたようにこの卵の殻は防音だ。笠野さんもまたそう言っていた。
「ヤサ、大丈夫?」
すぐに胸の状態を見ようとするがヤサは俺を押しのけた。
「なんで、行かなかったんだよ。あのまま走れば出られたのに……。あのまま行けば、祐は」
「何言ってんだよ。見捨てられるわけないだろ。そんなことより、体は……」
ヤサは俺が傷口を見るのを嫌がったが、一瞬それは見えた。ヤサからは一滴も血が流れておらず、傷があったそこは真っ黒でただ何もなかった。
「ど、どうなってるんだ……?」
衝撃的な状態に上手く言葉が出ない俺に、ヤサは悲しげに言った。
「裕、僕は人間じゃないんだ。それどころか、実体もない。これも放っておけばあと数分で跡形もなく消えてしまう」
いや、衝撃的なんて言葉ではとてもじゃないが言い表せない。ただ何も言えなかった。
「僕は、都市伝説なんだよ。祐達外界の人のイメージ、想像そのものなんだ。知ってるだろ? 病弱で、友達になったらその友達をあの世に連れていってしまう少年の都市伝説のこと。僕は、あれそのものなんだ。友達も欲しかった。色々見たり、感じたりしたかった。でも、僕にはできない。僕は、人々が生み出した幻、都市伝説だから。過ごしたことなんてないのに、病室で闘病していた記憶だけがある。こんなに寂しいことがあるかい? 成長することもなく、何に成ることも許されず、僕はただ友達のいない病弱な少年のまま。友達ができたら、僕は伝説通り大切な友達をあの世に連れ去ってしまうんだよ。そんなことは嫌だ。都市伝説は、この島で生まれるんだ。だから、ここは僕の故郷で、僕はここから出たら消えてしまうんだってことをいつのまにか知ってた。でも、僕は一度だけ本当の空を、僕を生み出した人達が生きる世界の空を見てみたかった」
「空、を……?」
殻の中にあった小窓から空を見てみるが、俺が見てきたものとなんら変わりは無い。
「え? だって、この世界だって、綺麗な空じゃ……」
「なぁ、祐。全てを知って、祐を惑わしていた幻は消え去ったはずだよ。何か、景色に変わりはない?」
そう言われて、僕は辺りを見渡した。特に変化は見られない。
「え? 何も変わってないけど」
「タソガレ島は、どういう島なのか、言ってみて」
何がなんだかわからないが、とにかくヤサの問いに答えてみる。
「俺達人間を食べるサトラゲの食事場所、で、いい?」
「そうだよ。それを理解した今、君にはここがどう見える?」
その時、俺の視界が垂れた。まるでロウソクのロウが溶けるように。また、水彩画に水をかけて、絵が流れ落ちていくみたいに。俺が見ていた美しい景色は、視界の上からゆっくりと垂れるように落ちていく。そして、地面に着いたと思った時には見ていた世界は一変していた。
空は快晴から、赤黒い色となり、小窓から見えた樹に生っていた食べ物は、まるで酸を浴びたかのようにどろどろとしていた。地面は泥で覆われており、かつての爽やかで美しい世界の面影すらない。
「そ、そんな……」
今まで、あんな気持ちが悪いものを食べていたっていうのか? こんな場所で幸せを感じていたっていうのか? 衝撃的すぎて、声がうまくでなかった。
「祐が今まで見ていた景色はサトラゲの幻だ」
「ヤサは、まさか、この世界で生きていたのか……」
ヤサは力なく笑った。
「あいつはストレスをより減らしておいしく食べることしか考えてないからね。こんな場所がそのまま見えていたら、きっと笠野さんって人もあんなに太らなかったと思う」
確かに、笠野さんはかなり太っていた。それはこの島を餌場にしているサトラゲの思惑通りということになる。
「やっぱり、笠野さんはあのまま……」
「部屋にサトラゲそのものが来たなら助かることはまずない。残念だけど彼には時間が足りなかった。ここに来る人達には何度も声をかけたけど誰も聞く耳を持たなくて、結局僕は頭がおかしいやつ扱いだった」
何度も誰かを助けようとした。それでも最初の時の俺と同じように邪魔者扱いをされ続けてきたのだろう。
「こんなところ嫌で、どんなに頑張っても、やり方を変えても誰も助けられなくて、定期的に悲鳴が聞こえて、もうどうしても嫌だった。それに、何よりも見てみたかったんだ。綺麗な空を。美しい景色を。家族も、記憶も、命もない僕だけど、それでもたった一度だけでもこの作られた記憶の中にある綺麗な空を、見てみたかった。だから、ここから出ようと思ったんだ。でも、やっぱり、消えてしまうのも怖かった。消えたらどうなるのか、どこに行くのか分からない。それで、迷っている時に祐を見つけたんだ。とにかく考えることを先伸ばしにしたくて、祐を助けたんだよ。それなのに、どんどん祐と一緒にいたくなって、一緒に外界に行きたくなった。でも僕は一緒に行けない。このまま友達になってしまったら、僕は君を連れていく。そういう都市伝説なんだ。それに、2人無事にタソガレ島から出るなんて不可能なんだよ。そんなことありえない。あのサトラゲから、2人とも脱出なんて……」
ヤサは頭を抱えるようにして言った。それは俺がヤサにぶつけたように、ヤサに積もり積もった苦しみそのものだった。
「僕はあとどれだけ無意味にここで存在していればいい? どうしたら人々の記憶から消えて、僕自身が消えることができる? あと何回、誰かの悲鳴を聞けばいい? 僕は都市伝説だ。外界の人達が考え生み出した幻でしかない。それでも、生きて存在してた証が欲しいじゃないか。どうせどちらかがサトラゲにやられるなら、僕は人として、誰かのためになりたい。もう嫌なんだ。誰の記憶にも残らず、延々と何十年もここで生きていくなんて。誰かの命のために役立てたなら、記憶に残れたのなら、僕はその人の記憶の中に生き続ける「人」になれるはずだ。だから、せめて僕を人にしてよ。都市伝説なんかじゃない、人に。 祐を助けたのも、結局自分のためなんだ」