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第1章 霧と共に(1)

その島は突然現れる。

あなただけに見える、あなただけの楽園へ行ってみませんか?

 君達はこんなことを考えたことがあるだろうか。


 毎朝同じ時間に起きて、朝食をとり、働きに出てあっという間に1日が終わる。人間関係は意識するほど窮屈で息苦しく、やりたいことも、働く意味も分からず、現実世界に馴染めない。毎日が我慢の連続で、現実逃避する毎日。


 そんな君のためにこんな都市伝説がある。


 誰もが望んでそこへ行き、己の意思で生まれ育った世界を捨て、2度と戻らないという地球とは全く別の世界である楽園の話。生きている世界に失望し、現実世界に居場所を無くした者達の目の前だけに現れる第2の故郷。


 その名も――タソガレ島。





 教科書は読めなかった。制服は何度も濡れた。鞄に入れていた弁当はゴミ箱に捨てられていた。モップを何度も顔に押しつけられた。今日が何回目かはもう覚えていない。そうだ。この世界は地獄だ。


 無能な教師の声が聞こえてくる。堂々と授業をして、悩みがあれば相談して、と言ってくる口だけの連中だ。何もできやしないのに、無責任にそんなことを言う。その言葉に俺は何度期待し、裏切られてきただろう。何度助けを求め、見捨てられてきただろう。結局何もできない偽善者だ。


 今だってそうだ。俺の斜め後ろから悪意に満ちた会話が聞こえてきて、時折大きな声で嗤う。聞こえているはずなのに、聞こえていないフリをする。見て見ぬふりをして、大きな事件になれば決まって言うのだ。「知りませんでした」と。


 もううんざりだった。1人では何もできないくせによってたかって1人をいじめる奴らも、偽善の塊でいざという時保身に走る教師も、「次は自分がやられるかと思うと怖くてできませんでした」とか言う被害者面する他の連中も。この世界の人間はろくなやつがいないのだ。最初は復讐を何度も考えた。けれど、今となっては復讐なんてものはどうでもよかった。この地獄を終わらせられるのなら、なんでも良かった。この世界から逃げ出せるのなら逃げ出したかった。ある日突然涙腺は壊れてしまったらしく、涙はもう出なかった。


 俺が読んでいた小説の中に、ファングフィッシュという魚がいる。宙を水の中のように自在に泳ぎ、ずらりと並んだ鋭い歯で自分よりも遥かに体が大きい相手でさえも仕留めてしまう凶暴な魚。この魚がいてくれたらどんなに良いだろう。すぐにでも俺の周りの奴らを喰い尽くしてくれるに違いない。そんなこともただの妄想でしかなかった。ファングフィッシュなんてこの世界にいやしない。物語の世界での話だ。


 そんなことを考えながら、汚い文字で埋め尽くされた教科書から外の景色に視線を移した。延々と立ち並ぶビル。その間を敷き詰めるコンクリートと走っていく車。ただぼんやりと景色を眺めた。こんな世界から出られたらどんなに幸せだろう。景色を見ながら、俺は1人都市伝説について想いを巡らせた。


 病弱で、ほとんど入院していた不思議な力を持った少年がいて、友達になるとそのままあの世に連れて行かれるとか、誰も覚えていない様な孤独な人間に幻を見せて惑わせ、その人を食べてしまう女の化け物、サトラゲがいるとか。その都市伝説の1つが、この世界に失望した人間にのみ、幸せの島、タソガレ島である。そこにはその人が求める幸せすべてがそろっているのだと。霧と共に現れ、霧と共に消える不思議な島。


 タソガレ島という都市伝説はこの日本に知らない人間がいないというほど有名な話だった。それが本当なら、と何度も何度も島を探したものだが、結局目の前には現れなかった。迷信。そう理解した時の絶望感と言ったら、言葉にできない。それでもどこか諦められないらしく、何気なく外を見ては島の姿を探すのだ。


 ビル。道路。霧。車。人。そこまで見ていて気がついた。霧? 今は正午手前。この時間に霧など出るのだろうか。ビル群の上にまるで雲が下りてきたように霧が立ち込め、目が離せなくなった。霧はみるみるうちに建物から地面へと広がっていく。何が起きているのか分からなかった。


 その霧はあっという間に街を覆い尽くしてしまう。そして、霧の奥から影が見え始めた。影が徐々に大きくなってきたかと思うと、まるで霧が割れるようにして晴れていった。霧が晴れたそこには、見た事もない巨大な島が浮いていた。先ほどまでそこにあったビルは霧のせいで完全に見えなくなっている、というよりも、むしろ霧に包まれる島の写真を街の上に貼り付けたように見えた。


 目を痛いほどにこすり、もう1度島の方を見てみた。島はまだそこにある。都市伝説は本当だったんだ。そう思った瞬間、心臓が暴れ出し、体が熱くなり、そして何より全身で興奮していた。待っていたのだ。何年も何年も、この世界から出られる、そんな日を。


 周囲の目も関係なく、勢いよく立ちあがった。教師が何か言っているがそんなこと今の俺には関係ない。やっとこの時が来たのだ。やっとこの地獄から抜け出せるのだ。


 教室を飛び出して、廊下を全力で駆けた。上履きを履き替えるのも忘れて、夢中で校舎の外に出て島の方を見た。中に入れば目の前が真っ白になりそうな程濃い霧の中に浮かぶ巨大な島は俺の正面の方向に遠く見えている。どれくらいの距離があるのだろう。3キロはあるかもしれない。島が消えてしまう前に、辿り着けるのかが正直不安だった。


 体中が興奮で熱くなり、心臓が痛いほどに暴れまわっているのが分かる。俺は無我夢中で島へと駆け出した。校庭を抜け、校門を出て、道路を走る。浮かぶ島はまだそこだ。


頼む、間に合ってくれ。消えないでくれ。俺は行きたい。タソガレ島に行きたい!


 校門を出て25メートル程走った時、周囲が霧にかすみ始めた。そこから急激に霧が濃くなったかと思った時には、既に隣に立ち並んでいたはずのビルは見えなくなり、足元は土を踏んだように感じられた。さっきまで舗装された道を走っていたし、この大都会で未舗装の道などあるのかと足元を見てみると、信じられないことに俺の立っている一帯が土に変わっていた。それどころか、辺りを見回してもビルは見当たらず、代わりに前方に美しい色の海が見えた。そしてその向こうに砂浜と島が見えるのだ。


 島の方からは暖気が吹きつけてきて、まるで南国にワープしたのかと思うほどだった。肩を上下させながらゆっくりと歩いて近づくと、土は徐々に砂へと変わって浜辺になり、海の水が打ち寄せてきた。その先には遠く島が見えている。


 恐る恐る覗きこんでみると、あまりに透明な水のために何十メートルもある海底でもはっきりと見えていた。それどころか日光は真っ直ぐに海の中に差し込み、底で光が揺らめいていた。こんなものは地球では見たことがなかった。


「す、すごい」


感動しすぎてそれ以上何を言ったらいいか分からないが、その一言に感動が詰まっていた。


 これは現実なのだろうか。夢を見ている気分だった。そっと手を触れてみて、またしても衝撃を受けた。触れたにも関わらず、海の中から手を引くと、一切濡れていないのだ。


「す、すごい。これがタソガレ島なんだ。こんなの、ありえないのに」


体が熱い。本当だったのだ。誰も帰らない夢の島。そして俺は今タソガレ島に来たんだ!


 俺は逸る気持ちを抑えながら海の中へと勢いよく入っていった。海の中は温かくてまるで暖気そのものに包み込まれたような感覚だった。水と言うよりも、水の形をした空気の様な感じだ。


 ここで思い切って顔を突っ込んでみる。確かに水の中と言う感じではない。まさか、と思って鼻から吸い込んでみると、驚いたことに、中で呼吸ができたのだ。不思議と浮力はあり、俺は浮いた状態だった。


 泳ぐように足をばたつかせ、平泳ぎのように水をかけば何の抵抗も無しに体は滑るように前へ進んだ。それはもう感動なんて言葉では言い表せない。今まで見てきた世界、概念が根本から覆され、言葉が出ない。この気持ちに合う言葉が見つからないのだ。


 俺は感動したまま進み続けた。海の底には、見た事もない生き物ばかりが泳いでいた。ピンクの丸いものがたくさん流されていて、小さな手足をヒョコヒョコと動かしている可愛い生き物もいた。


 その中で1番綺麗だったのは、物語の世界でしか知らなかった人魚の存在だった。人魚姫の中に出てくる人魚と違うのは、魚の様な下半身を覆う鱗が、光の当たる具合で虹色に光ることだった。光をくぐると、鱗は順に色を変えていく。今まで生きてきて、これほどまでに美しい生き物を見たことがあっただろうか。上半身は美しい女性で、人魚が動くと髪もなびいた。俺は知らぬ間に歓声をあげていて、人魚はこちらに気がつくと、にっこり微笑んで近寄って来た。


「タソガレ島に行きたいの?」


まるで頭の中に直接、エコーがかかった声が鳴っているような声だった。


「ねぇ、行きたいの?」


いつの間にか聞き惚れて、返事すら忘れていたらしく、慌てて頷いた。人魚はそれを見るなり笑って俺の手を引いて泳ぎ始めた。


「タソガレ島はもうすぐよ」


その手は細くて白い。滑らかでしっとりとした肌。見れば見るほど美しく、手を引かれているだけで心の中は幸福感に満たされていた。


 まだ50メートルも進んでいないくらいだというのに、もう目の前には島があった。海の水はいつしか透明な黄緑色へと変わっていた。普通なら気持ち悪いんだろうが、透き通る緑はとても美しくてずっと眺めていたくなる。人魚は海が浅くなってくると、俺の手をそっと離した。


「ここから先にはいけないわ。浅くて泳げないの。ここから先は1人だけど、心配いらないわ」


心細さを感じかけた時、人魚の手が俺の頬に触れ、なでられた。それだけで不安など吹き飛んでしまう。


「また会いに来て」


色っぽい声にいつの間にかうっとりしていたらしく、人魚が返事を待っていることに気がつくなり慌てて頷いた。


「絶対行きます!」


ちょっと声が裏返って、気持ち悪いと思われたかもしれない。そう思って人魚を見たが、人魚はニコニコ笑っていた。


「じゃあ、またね」


人魚は一気に海に潜り、みたことが無い早さで泳ぎ、去っていった。


 海からあがると、まず俺を出迎えたのはまるで一面ダイヤモンドのような砂浜だった。歩いてみると、美しいオルゴールの様な音が流れ、いつまでも歩いていたくなった。


 一体ここはどうなっているんだろう。少し考えたが、ドーナツの生る樹を見つけると、そんなことどうでもよくなった。音楽の浜辺から出て最初に見えるのは、一見普通の森だ。違うのは、そこに生っている実だ。樹によって実が違っていて、ドーナツ、ケーキを始め、ずらりと食べ物が生っている。中でもヤシの実みたいなものは、中が見えないため、何が入っているのか気になった。


 1つ手にとってみる。近くに落ちていた石に軽くぶつけただけで実は割れたかと思うと、中から暖かいコーンスープが出てきたのだ。中でも驚いたのが、透明な皮の中に何かが渦巻いているような不思議な実。俺が近寄ると、実の色が変化していき、中にチョコレートが現れた。


 もしかして、今1番食べたいと思っているものが出るのかと、俺はラーメンを思い浮かべてみる。すると再び渦巻き始め、待つこと数秒で中身がラーメンに変わった。夢のような話だった。食べたいものがいつでも食べられる。


「お、新しい人かい?」


急に声が聞こえて、顔を向けてみると、そこには電車に乗っていそうな優しそうなおじさんが立っていた。お腹は出産を控えた妊婦さんみたいなビール腹だ。おじさんは嬉しそうに俺に近づいてきた。


「はい、初めてここに来れたんです! 本当に、もう、すごくて!」


この気持ちをどう伝えればいいのか分からず、ただ溢れる喜びを抑えることでいっぱいだった。おじさんは何度も頷いた。


「ここは本当にいい! 私はここにきて明日で1年になるが全く飽きない、いい場所だよ! あの退屈な毎日が嘘みたいだよ! 私は笠野忠文。これからよろしくね」


笠野さんがそう自己紹介して手を差し伸べてくれて、すぐに一礼した。


「あ、俺、田原祐一です」


こうして俺のタソガレ島ライフがスタートした。

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