天狗の嫁になるということ
二重の印、それは婚姻している事を示している。和々が腕を見ている事に気が付いて、勝信がふっと笑った。
「ああ、これか……私にも妻がいるのでね。あれは、和々どのと違って烏間の縁だ。だから、私の子は人の血が混じっているが、ほとんどが天狗の血だ」
「え……」
「私は烏間の次期当主だ。婚姻相手を選べないのだよ」
そう言って和々に笑顔を向ける。しかし、武家の子は誰であっても、婚姻相手を選べはしない。親が決めた相手と生涯を共にするのだ。
「烏間は婚姻相手を正当な天狗の一族から迎えるのだ。だから、人と結婚した母は異例なのだ。しかも、私を次期当主にせざるを得ない烏間は、かなり不本意であるし不満もあるだろう。血が途絶え、人の血が半分入った私を養子にしたのだから。まあ、跡継ぎがいないのだから仕方がないのだが」
「そうですか……」
他に言葉が見つからない。
しかし……。彰隆同様、勝信も自分を卑下しているように思われた。自分の置かれている環境、立場、そして自分に流れる血さえも呪っているように感じる。卑下する言葉……態度……それを感じる度に、胸が苦しくなる。和々は眉を寄せて、顔を歪めた。
「だからと言って、妻を愛していない訳ではないのだ。最初の儀式の時に彰隆の気を入れただろう?最初は良いが、天狗は相手を想う気持ちが無くなると、その次に口づけた時には拒否反応が起きる。それは、苦痛を伴うものだ。そうなると別れしかないのだが、そうなると、天狗は一生、婚姻することができない。人のように気持ちがないのに何度も婚姻できるわけではないのだ」
そんな……。だったら、私の気持ちは……?彰隆どのをどう思っている?
彰隆を愛するようになるのだろうか。だが、今の和々には分からない。
「すまない、こんな話をして。しかし、和々どのには、早い内に知ってもらいたい事が色々とあるのでね」
勝信は笑顔のままだったが、表情と言葉が合っていない。
「天狗の一族に嫁ぐという覚悟と、これから背負う物を知って欲しいのです」
「背負う物?」
聞き返すと、勝信は大きく頷いた。そして、片膝立ちになる。
「これから見せる物は、彰隆には出来ない事です。これを見て覚悟が決まるかどうか…」
勝信は腕を袖の中で縮めて、襟元から両手を出し、上半身を晒した。
「きゃ!」
いきなり肌を見せられ、悲鳴を上げた。とっさに両手で顔を隠す。
勝信は「ははっ」と笑いながら、腰まで着ていた物をはだけさせた。男というのは…いや、この兄弟は、和々の事を女と思っていないのではないか……そう思えてくる。いくら何でも会ったばかりなのに、肌を露出させるなんて。それを目の当たりにする和々の事を考えていないだろう。
「顔を隠しては、何も見えませんよ」
勝信は平然と言った。恐る恐る手を外す。すると、相変わらず上半身を裸のままでいる勝信がいた。
「目を逸らさず見ていなさい」
その言葉の後に、ひゅうっと勝信の回りで小さな風が起きた。勝信の足元から流れた風は、和々の身体を通り過ぎて消える。
勝信は左手首に視線を向けた。そこには、黒い烏間の石。漆黒の黒い石は、烏間の一族の印。それを見据えて、ゆっくりと瞼を閉じた。
「翼を」
そう言うと、再び風が起きる。
ひゅうう……
風の音が聴こえた。すると、一瞬だった。
ばさっ!
「っ!」
和々は息をのんだ。声なんかでない。あまりの迫力に驚いて、正座をしていた足が崩れ、両手を畳に着けて身体を支えた。
その和々の目には、黒い翼が映っていた。
勝信は顔をゆっくりと上げた。顔色は変わらないが、その瞳は鋭く見える。線が細いと思ったのに、案外鍛えられた筋肉質な身体……男の人の割には色白で、背中の翼の黒が異様に見える。大きくて黒い翼。
「彰隆には無い物、そして天狗の象徴でもある漆黒の翼だ」
室内とあって、器用に小さく動かすと風が起きる。和々の髪を揺らして、部屋の奥へと消えていく。
「何も言葉はないとは……驚きましたか?大丈夫、何も危害を加えたりしません」
勝信の声で我に返る。勝信の瞳は鋭いままだったが、和々の驚きように苦笑いをした。少し、悲しみの色が混じったような表情…きっと、和々が驚いた事で、勝信の心が悲しんでいるのだ。勝信も、彰隆と同じで傷つく事が多かったと想像できた。
しかし、翼を初めて目にして驚かずにはいられない。
「分かっております…」
うわ言のように呟いた。すごいのだ。目が離せない。勝信が動かす度に、光が当たる角度が変わって、艶やかな翼の色が、翡翠のような色から瑠璃色へ変わって輝きを放つ。きれいだ。
「すごい…」
見惚れてため息が出た。すると、驚いたのは勝信の方だった。
「すごいとは?」
「美しいです…」
勝信は、目を細めて微笑んだ。自分で納得したように一つ頷くと、「もう良いか?」と言って翼を仕舞った。すっと音も立てずに、勝信の背の中へ吸い込まれる。そして、脇腹に垂れ下がっていた着物に袖を通し、襟元を整えた。
「そなたのような者だから、術が効かなかったのかもしれない。美しいなど言われた事がなかった……」
勝信は和々と向かいあって座り直す。
「そんな……艶やかで美しい羽ではございませんか」
「人の前では見せたことはないが、天狗は、このような羽を皆、持っている。当たり前過ぎて、美しいという認識もなかった」
勝信は話しながらも、指先で先ほどまで乱れていた襟元を何度もなぞった。そして、ある程度、落ち着いたのか姿勢を正し、膝の上で拳を握った。
「和々どののように、美しいと言ってくれる者ばかりではありません。異形と言って虐げたり、中には排除する者も出てくる。我らが人と暮らしていくには、それなりに能力を隠していなければならない。しかし、戦場では羽を出さずとも、動ける速さや強大な力で活躍する。河野にとってはなくてはならない一族なのです……特に、烏間は……」
「はい」
和々は下を向いてしまった。彰隆や勝信、他の天狗の者たちも少なからず、こんな思いを味わっているのだ。
「そして、天狗の一族の次の長が……私です。人と共存していくため、能力を隠すことや、天狗の中での掟を作って裁くことを決めたのは、烏間だ。その事に反感を持つ者もいる……自分を律して生きていくより、誰だって、ありのままの自分でいたいのは当たり前です。そして、人の血が混じった私が次期当主となれば、更に反感を持つ者が増えるはず」
彰隆と川原で襲おうとした男たちは、烏間に用があると言っていた。多分、勝信たちに対しての怒りだったのだ。
「和々どのも烏間の石を持つ者だと分かれば、身に危険が及ぶかもしれない。烏間を討とうと集まっている輩もいるようです……気を付けられよ」
和々は大きく頷いた。すでに危険な目に遭ってます……とは言えなかった。
彰隆は勝信と違って、それほど詳しくは話さなかった。しかし、天狗の一族、特に烏間と藤堂の事情は、知っておかなければならない事だ。そこに、否応なしに巻き込まれていくのだ。彰隆は、心配させまいとしているのか、明るく振る舞っているが、勝信の話は重く、そして、取り巻く環境が悪い事を感じさせる。和々は不安が顔に出ないように取り繕った。