二人での夜
それから、ほどなくして、和々が泊まる部屋に声を掛ける者がいた。
彰隆だった。
和々は白小袖を着て、髪を梳いているところだった。何もかも歌が泊まる支度をしてくれた上に、夕方には、雨で汚れたため、湯あみまでさせてもらっていた。急な訪問だったのに、ありがたく思う。
彰隆は、小声で和々を呼んでから、戸を開けて入って来た。ゆらりと灯りの火が揺れた。彰隆もまた、白小袖姿だった。
「さっきは悪かった」
戸の前で立ったまま、ぼそりと謝る。いつも結果は同じなのだから、言わなければ良いのに。座ったまま、膨れた顔で見上げると、彰隆は口の端を上げて微笑んだ。
「膨れた顔も可愛いな」
またか!恥ずかしいから、言わないで欲しい。だが、彰隆は嘘は言わない。きっと、愛しいと思ってくれているがゆえの言葉だ。でなければ、自分のように普通の女に可愛いなどという言葉は出ない。
「なあ、和々。せっかくだから、もう少し一緒にいよう」
「え?それは、どういう……?」
一緒にいるとは?もう、夜も深まりつつある。いつもなら、そろそろ床に入る刻限だ。
「だから、もう少し話そうって言ってんだ。会えなかった分が取り戻せるとは思わないが、今夜は少しでも一緒にいたい」
そう言うと、座っていた和々の腕を掴んで立ち上がらせた。左手を掴まれ、烏間の石が揺れた。
「ほら、行くぞ」
ゆらゆらと揺れる火に、ふっと息を吹きかけて灯りを消すと、先ほどまでいた彰隆の部屋へと向かう。まだ、家人達は起きているようだったが、辺りは静かで弟と妹達は寝ているようだった。
月明かりが廊を歩く二人を照らす。彰隆の部屋に近づくにつれて、更に静けさを増し、虫のジーという鳴き声が耳に痛い。
本当にどうしたのか。一緒に過ごすのは嬉しい。だが、いつもより強引ではないか……先ほど、怒ってしまって部屋を出てしまったが、彰隆は、本当は最初から一晩、過ごそうと決めていたのではないか。前を歩く彰隆の背中は、何も語らない。
だったら、最初から怒らせるような事を言わなければ良かったのに。お互い想い合っているのだから、遠慮しないで言うべきだ。しかし、考えてみれば、この手を引かれる状態は遠慮していない証拠か……そう思うと、くすりと笑いが込み上げた。
彰隆の自室の前まで来ると、障子から中の灯りが漏れていた。彰隆は部屋の中に入ってから、ようやく和々の手を離した。とりあえず、二人で腰を下ろす。
「そういえば……彰隆どのは、戦場で兄上を助けて頂いたそうですね。ありがとうございます」
思い出して切り出したのは、和々からだった。
「ああ、そうだった。義兄上を助けたのは良かったんだが……」
彰隆は遠い目をして、思い出している。
「そう、そう……今まで、会いたくなるから、和々の事を考えないようにしてたんだが、義兄上を見て、一気に和々を思い出した」
何だ、それは。会いたくなるって……ひどい、私なんて何も手に付かなくなるほど、彰隆どののことばかり考えていたのに。
「でもなあ……思い出したら、止まらないんだ。和々のことばっか考えてた」
彰隆は、胡坐に肘を乗せて頭をもたげた。
「最初に出会った時の顔やら、怒った顔やら思い出すんだよ……敵を斬りながらでも。それで、ついでに、『ああ、こいつらにも大切な人がいたろうに』って思うんだよ」
そんな事を考えて、戦に臨んでいたのか。確かに、敵にだって家族がいて大事な人がいるのだ。やはり、彰隆は優しいのだ。甘い性格と言ってしまえば、そうなのだろうが。
そして……彰隆が言った大切な人。それは、自分の事なのだ。もちろん家族も大事に決まっているが、自分の事を思い出しながら、大切という言葉が出るのは、自分をとても大切に思ってくれていると受け取って構わないのだろう。しかし―
「彰隆どのは、私のどこを気に入ってくれているのです?」
大きな疑問だった。ただ、術が効かない、婚約した相手だから、そんな理由だけで、こんなに想ってくれるものだろうか。自分は、河野の重臣と言っても、そんな大層な家柄の娘でもない。徳姫のような美しさもない。
しかし、彰隆は目を丸くして驚いた後、くっ、くっと笑い出した。
「好きになるのに理由なんていらないだろ?そうだな、和々が初めて会った時、俺を忘れるのを惜しんでくれたのがきっかけ。後は、俺を励ましてくれるしな。それと、和々は俺といると楽しいだろ?俺も楽しい」
そして、またにやっと人の悪い笑みを浮かべた。
「顔も可愛いしな」
「そんな事ないです!」
とっさに口から出た。自分の顔が可愛いなど、思った事などなかった。大きくなってからは、それほど白金城に上がってはいないが、城に出入りしている者として、華やかな姫などを見てきた。自分は質素でそんな華のある人間ではない。そんな姫達は、国を背負う責任からだろう、威厳や自信が感じられる。
「そんな事ない。可愛いさ。自分で分からないだけだろ。俺が言ってるんだ、夫になるヤツの言葉は信じろ」
「はい……」
勢いに押されて返事をしてしまった。夫……。想いが通じ合った途端に、現実的な響きを持つ。
昼間までの不安が消えていた。会えない不安、彰隆の掴めない気持ち、全てが打ち消されていた。幸せとは、こういう事なのか。つい、嬉しくて下を向いて笑みを漏らした。
「なんだよ、素直で気持ちわりいなあ」
彰隆は可笑しいのか、笑いを含んで和々を窺った。
「嬉しくて……」
「ははっ、俺も嬉しいよ。和々とこうしていられるのが嬉しい」
彰隆が左手を伸ばした。黒い石が揺れた。
「ほら、寒いだろ?おいで」
昼間、雨が降ったせいで気温が低くなっているのもあるが、山国なので朝晩は冷える。彰隆の申し出に、和々は素直に甘える。右肩を寄せて、顔をすり寄せた。すると、背中に腕を回して左肩を抱く。夜の寒さに冷えた肩が、温かくて心地よい。気持ちが良くて瞼を閉じた。
「眠いか?寝てもいいぞ」
「はい……ありがとうございます」
頭が後ろに引っ張られるような感覚。身体が落ちて行く。嫌だ、もっと話していたいのに。眠るのが、もったいない。しかし、緊張がほぐれたことと、昼間の疲れもあって瞼が重い。
「彰た、か……ど……」
呼ぶ声は、途中で途切れた。
彰隆は、寄り掛かる和々の肩を引き寄せる。自分とは違う細い肩。和々の膝の上に揃えてある手に、自分の手を重ねた。瞼を閉じている和々は、触れても何も反応しなかった。重ねた手の中にある和々の手。自分よりも細い指で小さかった。そして、手首には自分と交わした天狗の腕輪。
外す事も可能なのに、和々は外さなかった。自分を受け入れてくれて、好きになってくれた。こんな臆病な自分のために、会いに来てくれた。何とも愛おしくて、頬に触れた。
そうだ、今日は雨に打たれて来てくれたんだった。疲れているに違いなかった。久世の屋敷からは、離れていないと言っても近い訳ではない。聞いた話だと、着ていた物の裾は、かなり上の方まで泥が跳ねていたらしい。走ってきたのだ。自分のために、そこまで一所懸命な事をされると、堪らないほど愛おしい。
「和々」
呼んでも答えない。すうすうと、規則正しい寝息を立てていた。完全に身体の力が抜け、彰隆にもたれている。
「どれ、仕方ないな」
本当はもっと話していたかったが、疲れていたのだから仕方がない。彰隆は、和々を起こさないように、膝裏に手を掛けて背中を抱えた。立ち上がり、和々を隣りの部屋へと運ぶ。襖を開けるのは大変だったが、和々はそれほど重くないので、苦というものではなかった。行儀が悪いが足で上掛けをめくり、そっと和々を床へ寝かせる。これだけ動かしても起きない。彰隆はほっとして、ふうとため息を吐いた。
上掛けを掛けてやり、自分もその隣に身体を横たえた。
相変わらず、ぐっすり眠っている。その寝顔を、結婚前に見る事になるとは思わなかった。本当は、どきどきして眠るどころではない。こんなに無防備で、愛らしくて……。
「意地悪してるのは、和々の方だ」
色々と我慢しているなんて思っていないだろう。頬に掛かる髪を、指で梳いてやる。
「ん……」
和々が反応して、寝返りをうった。思わず手が硬直してしまう。彰隆にすり寄るように寝返りしたため、和々の背に手を回した。理性が崩壊しそうだ。
「くそ!和々のヤツ、俺の気も知らないで」
言っても目覚める気配はない。その寝顔を見て口が緩んだ。可愛い。和々は俺のだ。彰隆は目を閉じて、和々の頭に寄り添う。温かくてすぐに意識が朦朧としてくる。そのまま、眠りに落ちた。
和々は、その日、久しぶりにぐっすりと眠った。




