突然の婚約
「そんなこと…言うなよ」
見つめ合ったまま、彰隆の瞳が悲しそうに曇ったのが分かった。和々が呟いた声が聴こえたのだ。このような事が多く経験しているのだろう。それは、自分が覚えていて、関わった人が自分の事を忘れている…和々には分からないが、それは、悲しいことに違いなかった。
彰隆は和々の額に手をかざす。目が離せない。身体が動かない。逃げたくても逃げることが出来ない。額にかざし、掌は触られた時に感じたままの鍛えられた手だった。彰隆は和々の額に指先を当てる。指三本が額に当たっている感触がある。そして、彰隆は瞼を閉じた。
「久世の和々…我を忘れよ」
低い声で呟いて、ゆっくりと瞼を開けた。
「忘れよ」
今度は見つめられて呟く。そして、指先で額を軽くとんと押した。
「や…!」
和々の額から血の気が引くような感覚が全身に伝わる。体の全てが地面に落ちていく感覚だ。ぐらりと目の前が歪んで、暗くなる。足ががくがくとして立っていられない。
和々が気を失いそうに揺れているのを、彰隆は額から指を離して支えた。そして、和々に負担が掛からないよう、地面へと腰を下ろした。和々の肩を抱くとあまりに細く折れてしまいそうだ。彰隆は和々の線の細さに驚きながらも、黙って見つめた。すぐに目が覚める。その時には自分のことを忘れているのだ…いつものことだと分かっているが、やはり寂しく感じる。しかし、自分の素性を知られたからには、忘れてもらうより仕方がない。それは、幼い頃よりこの血を受け継ぐ者として、母や一族から厳しく言われ続けていることだった。人と共に暮らしていくには他に方法がないのだ。
腕の中の和々は、瞼を閉じ、今は呼吸も穏やかだ。そっと頬に掛かった髪を指で後ろへ梳いてやると、微かに瞼を動かした。その可愛らしい仕草に自然と笑みが零れた。
「もう、目を覚ますか…」
和々が起きない内に立ち去らなくてはならない。和々の身体を木の幹にもたれさせようと、腕の中の和々を抱え直した時だった。
「藤堂どの?」
和々の声だった。驚いて腕の中を見ると、和々が目を開け、彰隆を見上げていた。
「え…?」
彰隆は何が起こったのか分からなかった。目を覚ますのが早すぎる。しかも、彰隆の名を呼ぶではないか!驚いて和々から手を離そうとしてしまうが、寸前で気が付き、腕に力を込めて耐えた。
「藤堂どの?私は、一体…何があったのです?」
「覚えているのか。稀に術が効かぬ者もいるとは聞いたことがあるが…」
彰隆は腕の中の和々の顔を見つめた。どう見ても、ただの女だ。特別な何かがあるようには思えなかった。記憶を消さなければいけない、分かってはいるが反面、覚えていてくれたことが嬉しくもあった。
「ふうん、和々が、ね」
彰隆はにやにやと和々を見つめる。和々は意味が分からない。しかし、段々と頭が働いてきて、状況が見えてくる。
「きゃあ!」
和々は彰隆の腕を払いのけ、勢いよく起き上がった。彰隆に抱きかかえられていたのだ!だが、先ほどまで気を失っていたせいか、座っていても身体を動かすとくらりと眩暈がした。頭が誰かに引っ張られているような感覚だった。
「こら、急に動くなよ」
そう言って、彰隆はあまり動じることなく和々に再び腕を回す。和々はそのまま、彰隆の腕の中へと納まってしまった。その腕は、先ほど見た掌同様、固く筋肉質で身体を預けても不安がない。むしろ、心地良い。
いや、いや…そうじゃなくて!
和々は頭の中で否定する。それほど親しい間柄でもないのに、抱き合うなんて。恥ずかしくて顔が熱くなる。耳や首までも火照るのを感じた。
私は何てことを!
顔を見られたくなくて、両手で隠したが…遅い。彰隆は間近で和々のことを見ているのだ。
「何だ、まだ恥ずかしがっているのか」
呆れた顔で言われたが、本当の事なので顔を隠したまま頷いた。だって仕方がない。こんな風に男の人と触れ合うなんて初めてだ。どう反応して良いかすら分からない。
「和々は、俺のことを憶えていてくれた」
彰隆は和々を抱えたまま、片手で顔を覆っていた手を外していく。すると、和々の瞳には微笑んだ彰隆が映った。優しそうな笑顔。その笑顔に、目が釘付けになる。恥ずかしさも忘れ、彰隆に見入った。すると、頬に固い掌が当たった。そっと撫でられる。
「初めてだ、俺のことを憶えていてくれたなんて……嬉しい」
嬉しい?その言葉と表情、仕草から伝わる感情。それは嘘ではない、彰隆の本音に違いなかった。
「私、藤堂どのを忘れていない…なぜ?」
「俺たちは、一部の者を除いては、正体を知った人間の記憶を消す掟がある。しかし、稀に記憶を消す術が効かない奴もいるらしい…それが、和々だ。ま、俺も初めて会ったが」
「そう…忘れていないのね」
和々は彰隆に頬を撫でられながら笑った。自分の過去を自分自身で忘れて、他人が知っているなど嫌だ。それに、彰隆とは些細な出会いかもしれないが、自分が憶えている事で彰隆が嬉しいと思ってくれるなら、自分も嬉しい。自然と笑みが零れた。
突然、彰隆は目を丸くし、頬を撫でていた手を止めた。そのまま、手をゆっくりと離す。
「初めて笑ったな」
「は?」
意味が分からなくて、聞き返した。話が見えない。
「案外、可愛いもんだな」
「な、何を言うの!」
焦って、声が上ずってしまう。
可愛いなんて、可愛いなんて!
どきどきと心臓が早鐘を打つ。心臓の音が耳にまで届きそうだ。この男は、何て事を言い出すのか!それこそ、両親や兄達に「可愛い」などと、まだ幼子のように扱われる事はあっても、彰隆の「可愛い」は違う。これは、明らかに女として言われているのだ。和々には、そんな経験もなく、どう反応して良いか分からない。ただ、恥ずかしい。
「ははっ!また、照れた」
「ひどい!」
意地悪だ。からかって笑っているなんて!
和々は少し目を伏せて、口を尖らせた。面白くなどない。そして、彰隆から離れようと、彰隆の胸を両手で押した。しかし、片手だけで抱えられているだけなのに、びくともしない。相変わらず、彰隆の腕は和々の背中を支え、がっしりと捕えられたままだ。
「離して」
彰隆の目を見て訴える。だが、彰隆の表情は変わることなく、笑顔のままだ。
「離すかよ。和々の事、気に入ったからな…離さない」
「私は行く所があるの、だから離して」
そうだ、こんなことをしている場合ではない。晴明が屋敷に訪れるのだ。
「離さないって。和々には俺の妻になってもらう」
「はあ?妻?」
突拍子もない話に、目を丸くしてしまう。この男は、何を言い出すのだ。和々は余計に彰隆の手から逃れようと、胸を押す。冗談に付き合っていられるか。
「暴れるなよ」
彰隆は動じなかった。鍛えた腕で和々の体を逃さない。彰隆にとって暴れる和々は、腕の中で子犬がもがいているくらいにしか感じないのだろう。押さえつけるように、もう片方の手で和々の腕を掴んだ。だが、その手は和々を押さえるだけで、痛みを伴うものではなかった。あくまで、和々を傷つけないようにしてくれている。
「俺は本気だ。和々、俺の妻になれよ」
真っ直ぐ見つめられ、本気なのだと分かる。真剣な眼差しは、先ほどの獣を思い出させる。だが、彰隆が本気だということが伝わり、どうして良いか分からなくなる。そんな目で訴えられたら、「否」と答えられなくなってしまうではないか。そして、答えた時の彰隆に少なからず、傷をつけるということだ。気が引けてしまう…いや、自分がそこまで考えることはないのだ。彰隆の言っていることは、無謀で一方的だ。晴明のように一国の主ではないのに、そこまで命令される覚えはない。
「嫌です」
きっぱりと言い切った。しかし、彰隆は予想していたのか、だからといって手の力を抜くことはなかった。
「和々が何と言おうが、俺は決めた」
「嫌だと言っているでしょう?分からないの?」
お互い引き下がらない。負けるものか!
「和々のような俺の術が効かない女に、今後出会うとは限らないからな。まあ、運命だとでも思って諦めろ。これから和々には俺との婚約の儀式をさせてもらう」
「儀式?何を言っているの!私は嫌だと言っているでしょう?」
和々は彰隆の胸を叩き始めた。裾が乱れることも構わず、足も使って全身で拒絶する。話が通じない。嫌だと言っているのが分からないのか!
「往生際が悪いな、諦めろと言ってるだろ?俺のモノだっていう儀式だ。俺も親に聴いただけで初めてだから、上手くいくか分からないが…」
「往生際が悪くて結構よ!妻とか、婚約とか、勝手に話を進めないで!」
和々は大声で怒鳴った。両手足をばたばたと暴れさせ抵抗する。さすがに、これだけ暴れると彰隆も押さえられなくなり、ちっと舌打ちをして腕だけを掴んだ。
「決めたんだよ!俺の女には、和々しかいない!」
彰隆も和々につられ、大声を上げた。唇を噛んで、力を込めて両腕を引くと、和々が胸の中に引き寄せられた。和々の頭は、厚い胸板に押し付けられて動けない。そのまま、ぎゅうっと抱きしめられた。
「い…やっ!」
彰隆の心臓の音が、和々と同じ早鐘のように聴こえる。男らしい逞しい腕、微かに香る和々とは違う香。彰隆は腕の中に和々を閉じ込める。抱きかかえ、首元に顔を埋めた。彰隆の吐息が和々の耳に当たり、恥ずかしさと怒りで顔を赤くした。身体中が沸騰しそうだ。
「和々っ!」
彰隆は叫ぶように名を呼ぶと、体を硬くし腕の中で丸くなる和々の顎を強引に上に向かせた。抱きしめられているだけかと思っていた和々は、驚きで固く閉じていた瞼を開けると、彰隆と目が合った。思わず身体中に込めていた力が、一瞬、緩む。その隙を、彰隆は見逃さなかった。
そのまま顔を寄せ、和々の唇に口づけた。
何が起きたか分からない。彰隆に頭を押さえられ、逃れることができない。
「くっ…」
呼吸の仕方が分からない。苦しい。自分の唇に彰隆の唇が重なっている。彰隆の薄くすっとした唇は、思いのほか柔らかく温かい。精悍な顔が目の前にあり、彰隆は瞼を閉じて、尚も唇を押し付ける。驚いて抵抗するのを忘れていた。頭の中は真っ白で、何一つ考えられない。
すると、唇とは関係のない全身が熱くなった。恥ずかしいから全身が火照っている訳ではない。火でも押し当てられているように熱いのだ。
「ん…う…」
あまりの熱さに耐えきれず呻きを漏らした。全身が焼けただれてしまうのではないか、そう思うほど熱い。苦しさに顔を歪め、目の前で口づけている彰隆を見ると、彰隆の顔も苦痛で歪んでいた。あんなに鍛えて強そうなのに、苦しいというのか。
和々の視線に気が付いたのか、彰隆はゆっくりと瞼を開けた。和々と間近で視線を絡ませる。苦痛に耐えているのに、まだ、こんな口づけを続けるのか。和々が訴えかけるように彰隆を見つめると、更に唇を押し付けて口づけを深めた。
「う…」
深まる口づけに伴って、全身の熱さが増す。苦しさに両手で抵抗するが、彰隆も顔を歪めたまま必死で和々を押さえている。お互いに額に汗を掻き、頬を伝って顎から落ちる。
苦しい!熱い!
身が焼かれる。彰隆をいくら睨んでも離してくれない。
すると、頭は押さえられたままだが、彰隆は背中に回していた手で、宥めるようにとんとんと叩いた。落ち着けとでも言いたいのだろうか。彰隆の目を見ると、少し微笑んだように見えた。彰隆は、何回も背中を叩く。
とん、とん、とん…。
和々は不思議と抵抗する気力を削がれ、彰隆の口づけを受け入れ始めた。
これも、彰隆どのの術なのだろうか。
段々と身体の熱さが和らいできた。そして、彰隆が背中を叩くのを止めた時、熱さは完全に消えていた。
彰隆は、瞼を細め、和々の唇を名残惜しいように見つめながら、ゆっくりと唇を離した。柔らかな唇…今まで触れていたものが無くなるのは、少し肌寒くて寂しい気がした。力が抜ける。和々は、だらんと両腕を下げ、放心したように彰隆を見つめた。
「熱かっただろ?よく、耐えたな」
好き勝手にしたくせに、何を。そう思うが、言い返す気力もない。そんな和々の垂れ下がった左手首を掴むと、目の前まで持ってきた。
「後は最後にこれを嵌める」
和々の左手首には、大きくて黒く光る石が付いて紐で編んだ腕輪が嵌っていた。
「何これ…」
唖然とした。これは、一体何だ。宝石のようだ。
「俺の腕飾りだ。で、黒く光るのが、俺の家系の印である石。それは、家によって違う色だ。俺達は、生まれた時にこの飾りを付けられる。それで婚約した者は、それぞれの腕飾りを交換しあう」
彰隆は、和々の腕の飾りを指でなぞった。
「和々は人だからな。腕輪はないから、何か別のもんをいただくか」
彰隆は、和々を上から順にじろりと見ていく。
「ああ、これでいい」
彰隆は和々の腕を離すと、和々の背後に手を回した。また、抱きしめられると思って、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、和々の予想と違って、彰隆は髪に手を伸ばした。艶やかな黒髪が、彰隆の指先に触れる。絹糸の柔らかで滑るような感触だった。そして、和々の髪をまとめていた元結を外した。
はらりと束ねた髪が、広がった。
「何をするの!」
「和々のこれをもらう」
にやっと笑った。そして、和々の手の届かない所へ…懐へと入れてしまう。あっと思っても遅かった。慌てて手を伸ばしたが、彰隆の方が速い。
「儀式は…口づけをして、その後、腕飾りを交換しあう。口づけの時、全身が熱かったのは、和々に俺の気が入ったからだ。天狗同士だとそれほど熱くないらしいが…たぶん、和々の方が熱かったはずだ。安心しろ、次に口づける時は、俺の気が身体に馴染んで熱くない」
「そういう問題じゃない!」
和々が再び大声を出すと、彰隆は驚いて目を丸くした。
「勝手に婚約とか言って、私は武家の娘なのよ…両親の許しもなく、結婚の相手を決めるとかできる訳がないの!私には、彰隆どのが何処の誰かも分からないのよ?勝手に婚約の儀式とかって、どうしてくれるのよ!」
本当にどうしてくれるのだ!両親の顔が頭をよぎり、怒りと焦りが全身を駆け巡る。
「ははっ!もうしちゃったしな。諦めろ」
彰隆は笑って、和々についばむように再び口づけた。ちゅっと音がして離れる。一瞬のことで、抵抗もできなかったが、先ほどの痛みや熱さもなかった。