彰隆の家族
屋敷の中に入ると、男は笠を取り、大きな声で和々が来た事を知らせた。和々はびしょ濡れなので、軒下で小さくなっている。
「殿っ!奥方さまっ!」
そんな大声で……。そんな、こっそりでいいのに。自分の雨に濡れた格好もあって恥ずかしい。
「まあ、何事?」
奥から、侍女と彰隆の母と思われる女性が出てきた。
「あ……」
思わず顔を上げたが、初対面なので慌てて頭を下げた。
「久世清和の娘、和々でございます」
ただでさえ、失礼な格好なのに、これ以上悪い印象を持たれたくない。
「まあまあ、大変!濡れているじゃないの!ほら、そんな所にいないで、早く中に入りなさい!」
「はい、ありがとうございます」
小さくなりながら、返事をした。その後、和々は、泥で汚れた足をたらいで洗い、その後、冷えているだろうと湯あみまでさせてくれた。そして用意された小袖を着た。
「私の物で悪いけど、我慢してね」
彰隆の母は、座敷の傍らで着替えた和々を見上げて言った。彰隆の母は落ち着いた色地の物を着ていたが、和々に貸してくれた物は、少し明るい色の物だ。若い和々を気遣ってくれたのだ。ありがたく思う。
彰隆の母は、どこかのんびりしていて、とても穏やかそうだ。段々と気持ちも落ち着いてきて、周りの様子が見えてくる。まだ、雨音と雷の音が大きい。この座敷に通されるまでに、手の行き届いた庭や置物などが目に入った。彰隆の母も優しそうで、がちがちになっていた身体も緊張が解れてくる。
着替えも終わり、和々は彰隆の母の前に座った。
「お心遣い、ありがとうございました。それから……突然来てしまって申し訳ありません」
手を付いて頭を下げた。
「いいえ、気にしなくていいのよ。私は、彰隆の母・歌。思いがけず、和々どのに会えて嬉しいわ」
にっこりと笑って、こちらまで笑顔になってしまいそうだ。だが、相変わらず、申し訳ない気持ちが消えたわけではないので、苦笑いしか出なかった。
「和々どのは、彰隆に会いに来たのね」
急に本題に入って、和々の顔から苦笑いさえも消えた。
ざあああ……。
外の雨音がやけに大きく聴こえた。
「今は、留守にしているけれど、もうすぐ帰ってくると思うわ」
そうか、いないのか。
何となくほっとしたような、残念だったような。だが、ここまで来て……更には、上り込んでいるのに帰れない。待たせてもらおう、そう言おうと思った時だった。
「ここで、待っていなさい。ゆっくりしていってね。久世家には、知らせておくから」
「あ……、ありがとうございます」
何もかもが、ありがたい。突然の訪問にも嫌な顔一つしないなんて……。
「本当に気にしなくていいのよ。だって義理とはいえ、近いうちに娘になるのだから」
この方が、自分の母になる……。家族になるのだ。早速、びしょ濡れになって迷惑をかけてしまった。しかし、優しそうな人柄にほっとする。
すると、彰隆の母・歌は、和々の様子を見ながら、すっと姿勢を正した。何事かと、身構える。
「殿に聞きました、彰隆が貴女に無理やり婚約をしたこと……」
「あ……いいえ、もう良いのです」
「しかし、勝手にするなんて」
確かに、出会い方は悪かったと思うし、無理やり婚約なんて……と思ったが、今となってはどうでもいい。そんな出会い方でも、和々は彰隆を好きになったのだ。あの出会いが無かったなら、彰隆の事など知らなかった。
そちらの方が嫌だ。だから、もういい。
和々は、優しく一つ頷いた。すると、歌の方も分かったようで、はにかんで頷いた。
「和々どの……。しかし、私が天狗の一族だったためにこんな思いをさせて……それに、天狗の長・烏間の近い縁者になってしまった事で、何度も怖い思いをさせたとか。本当に申し訳なく思っております」
歌は畳に手を付いて、頭を下げた。
焦ったのは、和々の方だ。母親の頭を下げさせるなんて!和々は、慌てて腰を浮かせて、歌を止めようとした。
「おやめ下さい!」
すると、歌はゆっくり頭を上げた。
「もう、良いのです。彰隆どのの妻になれる事は、嬉しく思っております。だから、母上さま……もう気になさらないで下さいませ」
「そう言ってくれると、嬉しいのだけれど……。私は、一族の反対を押し切って、藤堂家に嫁いだものだから、子供達にも嫌な思いを沢山させてね……」
歌は、ぽつりぽつりと自分の事を話し始めた。
「私と殿は、想い合って結婚したのだから良いのだけれど、子供達は烏間の血を引く者として、時には烏間を憎む者から襲われたり、人の血が混じっていることで烏間家から蔑まれたり……あげく、跡取りがいないものだから、彰隆が大好きな上の子を養子に出したり……。人と関わっても、天狗の力を知られた時には、記憶を消さなければならない。本当に可哀相な目に沢山遭わせてしまったわ。そして、今度は、和々どのを……」
彰隆が、天狗を嫌っている理由を想像はしていたが、母の口から聞くと納得する。幼い頃より、そんな目に遭っていたのなら嫌いで当然だろう。それでも受け入れて、和々に天狗の結婚の誓いをし、天狗の力を使って助けてくれたのだ。
彰隆どの……!
和々は目をぎゅっと瞑った。和々が、何度か「彰隆は彰隆だ」と言った時の笑顔が思い浮かんだ。
自分を認めてくれた事が、嬉しかったのだろう。そんな事くらい、彰隆に会えたなら、何度言ってもいい。辛い思いをした分、今度は自分が彰隆を大事にしたい。
「私は彰隆どのが何者でも、彰隆どのの妻になりたいのです。可哀相な事など、何一つありません」
きっぱり言い切って、歌を見据えた。
ふと、気が付くと、外の雨は上がっていた。あんな嵐だったのが嘘のように静かになっている。
歌は、和々の気持ちの据わった顔を見ると、立ち上がり、戸を開けた。外は晴れ渡り、明るい陽射しに目が眩む。木々の緑が鮮やかで、陽射しを受けてきらきらと輝いていた。庭に面した廊の軒先からは、雫が落ちている。そこへ、ぱたぱたと可愛らしい足音が、複数聴こえた。部屋の前でその足音は止まる。
「母上さま?義姉上さまが来ているとは、ほんと?」
覗き込んだのは、彰隆より少し年下の男の子と、まだ幼い女の子が二人。男の子の年齢は十二歳くらいで、女の子は十歳くらい。その子に手を引かれて、先ほど尋ねたのが五歳くらいの女の子だ。
彰隆どのの弟と妹。
和々は、いきなり大勢に囲まれ、呆けていた。その子達は、美津の顔を一度確かめた後、和々の周りにやって来て座る。一番年下の妹など、和々の手を握って離さない。だが、嫌な気はしない。どの子も可愛らしく、握る手など小さくふっくらとしていて笑みが自然と零れる。
「これ、挨拶なさい」
歌が戸の傍で母の顔を見せる。しかし、和々に興味がある子供達には、聴こえていない。戸の方でため息が漏れた。
「義姉上さまになられる、和々さまでしょう?」
まだ声変わりをしていない高い声で、男の子が尋ねた。その面差しは、彰隆や勝信に似ている。
「はい、和々です。皆さん、彰隆どのの弟どのと妹どのでいらっしゃいますか?」
「はい!義姉上さま、これからよろしくお願いします」
男の子は、にっこりと笑って言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
この子達の義姉になると思うと嬉しい。今まで、久世家では、和々が一番年下だった。兄達の子供とは、また違う。あの子達は和々のことを『叔母上さま』と呼ぶ。『あね』という言葉が新鮮だ。そして、どの子達も左手首には、黒く輝く烏間家の印である石が嵌った腕輪。
「義姉上さま、遊ぼうよう」
手を握っている女の子が、和々の手を引っ張って、ねだった。和々は彰隆を待っているのだ。一緒に遊んであげたいとは思うが、今は無理だ。だからと言って、無下に断れない。困って、戸の傍にいる歌に助けを求める。歌は苦笑いだ。
「和々どのは、彰隆に用があるの。今日は泊まっていくから、また夕餉の時にでもお話したら?」
歌は和々の困った顔を見て、助け舟を出してくれた。やんわりと断ってくれて助かる。年下の相手などそれほどした事がない和々にとっては、どう相手して良いか分からない。
いや、ちょっと待って!泊まっていくって…!
だが、期待している子供達に、そんな事を言えるはずもなく頷いた。
「はあい。兄上にご用があるのなら、仕方ないわね。夫婦だもん、色々あるのよ」
そう言ったのは、長女だ。大人ぶっているのだろう、そんな言い回しさえも新鮮だ。自分もこんな風だったのだろうか。思わず下を向いて、口元が緩んだのを隠した。すると、手を握っていた幼い次女と目が合った。その目は、とても残念そうだ。
「ごめんなさい、彰隆どのにお話があって来たの。でも、母上さまの言う通り、夕餉の時には沢山お話しできると思う」
すると、子供達は目を輝かせ、笑った。
「ほんと?お約束よ?」
握られた手にもう片方の手を添えて、力強く頷いて見せた。
「本当です、お約束しましょう」
そう言うと、子供達は和々を解放してくれた。母と和々に手を振ると、またぱたぱたと足音を響かせ去っていく。賑やかな空気が、一気に静かになって寂しく感じる。
「ごめんなさいね、落ち着かない子供達で」
歌が大きなため息を吐きながら言った。
「いいえ、可愛らしいです」
和々が返事をした直後だった。いきなり、歌は障子の戸に手を掛けたまま、目を閉じた。
どうしたのか……具合でも悪いのだろうか。立ち眩み?和々は座ったままだが、後ろから歌の背中を窺う。
すると、歌は少し伏せていた頭を上げて、和々の方へ振り返った。その顔は、微笑んでいて、嬉しそうだった。
「もうすぐ、彰隆が帰ってくるわ」
「え……」
そんな事も分かるのだろうか。しかし、歌は天狗の長・烏間の直系だ。彰隆が詳しく話したがらないため、どんな能力があるかは分からないが、きっと本当なのだろう。いや、ただの母親の直感かもしれない。どちらにせよ、彰隆が帰って来るのだ。
「彰隆が来るまで、少し待っていなさい。帰って来たら、彰隆とよく話をするといいわ」
そう言って、歌は部屋から出て行った。それから、彰隆が屋敷に到着するまで、ほんの僅かな時間だったが、和々は一人で落ち着かなく待たされた。




