走り出す想い
和々は、いつものように一人で庭の掃き掃除をしていた。空を見上げると、もう梅雨の季節に入るので、どんよりと灰色の厚い雲が広がっていた。涙がつっと一筋、頬を伝って落ちた。
苦しい。彰隆どのに会えなくて、苦しい。会いに行こうか……。会いに行けばいいじゃないか。何度もそう思った。しかし、彰隆は会いに来ると言っていた。約束したのに、会いに行っていいものか。会いに行って、迷惑をかけたら、どうしよう……。何度も行こうとし、ためらってやめた。
箒を持ったまま、俯く。すると、頬を伝った涙は、顎から地面へと落ちて染みを作った。ぽつり、ぽつりと落ちて行く。耳の奥が膜を張ったようになって、周りの葉擦れの音もくぐもって聴こえた。
風が強くなり、これから雨が降るのだろう。ざわざわと木々が揺れた。びゅうと大きな音がした。池の畔に植えられた菖蒲が目に入り、可哀相なほど大きく揺れていた。和々の袖や髪も大きく揺れ、耐えられなくて目を閉じた。これでは、庭掃除どころではない。
手の甲で頬の涙を拭って、瞼を開けた。そこへ、厩の方から戻って来た兄・清定と行き会った。風で目をすがめて、走ってくる。
「和々、何してる!雨が降るぞ」
「はい。今、中に入ろうと思っていたところです」
清定は立ち止まり、和々の顔をまじまじと見た。涙の跡は拭って消えても、目の赤さは消えていなかった。気が付いて顔を逸らしたが、遅い。兄は眉を寄せて、苦い顔をした。
「泣いていたのか……」
風の音でかき消されそうな声だったが、和々の耳には聞こえてしまった。本当の事を言い当てられて、返事ができない。
「はあ……」
清定は大きなため息を吐いた。きっと、馬鹿馬鹿しくて呆れているに違いない。会えない事など、何だと言うのか。戦が長引けば何か月も会えない事など、よくある話だ。自分の思いは、子供じみて、我がままなだけなのでは……自分だけが辛いのであって、周りから見たら笑われる、取るに足りない事なのでは……そんな事まで考えていた。俯いて涙を堪えた。
「行ってこい」
清定の言葉に、顔を上げた。目を丸くして驚く。
「行ってこいと言ったんだ」
信じられないとばかりの顔をしていたので、清定はもう一度言った。
「藤堂も何か理由があって来られないんだろう。いつまでも待っていないで、自分の目で確かめてこい」
「いや……でもっ……」
行きたい気持ちが顔を覗かせる。だが、先ほど考えていたような事があったら、彰隆の迷惑をかけてしまう……ためらいの言葉が自然と出た。清定は、再びため息を吐く。
「そんな落ち込んだ顔を毎日見せられる私たちの身にもなってみろ。気が滅入る。いいから、藤堂のところへ行ってこい」
清定の言葉で自分で決めかねていた事が、するりと簡単に頭の中で解けた。
行きたい、いや、行く。他の人に言われると、なぜ今まで行かなかったのか不思議になる。背中を押されるというのは、気持ちが一変してしまうものなのか……。そうなると、もう身体が動きたくて仕方がなかった。
「はい。では、行ってまいります!」
持っていた箒を離す。すると、カーンという竹の柄が、地面に当たる音がして倒れた。すると、もう走り出していた。
「おい!今からか!?」
清定が止める声が背中で聴こえた。しかし、もう我慢ができない。何の支度をするわけでもなく、ただ身一つで走り出した。彰隆の元へ向かう、それ以外は何も考えられなかった。
「和々」
庭を走り出した途端に横から呼び止められた。足を止め、声のする方向を窺うと、そこには父が立っていた。後ろを追ってきた兄が少し離れて、立ち止まるのが聴こえたが、和々の目は父しか映していなかった。先ほどまで涙を溜めていた瞳が赤いことに気が付いた父は、眉を寄せた。よりによって、こんな時に父に見つかってしまうとは……和々の心臓は焦りでどくん、どくんと音を立てる。
「和々、彰隆のところへ行くのか?」
「はい」
間を開けず答えた。彰隆に会いたい……その一心しかなかった。反対されようとも彰隆に会いに行くと心に決めて、唇を噛んで父を見据えた。
「大変な思いも、傷つくことが多くても、彰隆のところへ行くのか?」
「はい。彰隆どのと一緒ということを選ぶのは私ですから」
そうは言ったものの、当の彰隆が今、どう思っているのかは分からない。だが、彰隆が受け入れてくれるのならば、天狗の血筋や藤堂家、烏間一族の話など乗り越えられる。彰隆が何者でも良いのだ、彰隆自身のことを好きになったのだから。
「本当に良いのだな?」
「はい」
和々の揺るぎない声を聞いて、父は苦い顔をしながら、ため息を吐いた。
「もうよい。彰隆のところへ行け」
勝手にしろ、とばかりの言い方だったが、父が認めてくれたのだけは理解できた。和々は勢いよく「はい!」と返事をすると走り出した。背中を向けた和々には分からなかったが、父と兄は顔を見合わせ、苦い顔で笑っていた。和々が折れないのだ、父は結婚を認めるしかなかった。
屋敷の塀の横を通り過ぎ、川沿いの道を行く。川の横の道は、遮る物がなく、風がより強く吹き付ける。背中を押され、まとめている髪が、顔に掛かるし、着ている小袖もばたばたとはためいた。時折、道の土煙が舞い上がり、和々の目を襲った。手で覆い、目をすがめて前へ進む。だが、それも彰隆の元へ向かうための物ならば、苦痛ではない。
ぱたぱた……。
道の横に広がる田んぼから音がした。ふと、足を止めると、和々の頬に雫が当たった。少し上を見上げると、大粒の雨が落ちてきていた。頬だけではなく、肩や腕など全身に雨粒が当たる。渇いた道に、大きな染みを次々と作っていく。
ぱたぱたぱた……。
田植えが終わってしばらく経ち、成長した稲を雨が揺らす。水を張った田んぼからは、雨音と蛙の鳴き声が盛大に聴こえた。人の通りはなく、和々一人が雨に打たれてたたずんでいた。
ごろごろ……。
山の端から雷の音も聴こえた。急ごうか……。そう思って、また走り出す。ここまで来て引き返したくない。戻ったら、また、彰隆に会えない日々を悶々として暮らすのだ。たとえ、怒られても、うるさいと言われようと、一目会いたい。
屋敷から少し離れただけで、白金城の天守が見えた。屋敷からは、林の木々が邪魔をして丁度見えないのだ。雨で霞んで見えるが、白く美しい姿が目に入った。あのすぐ傍に、目指す藤堂家の屋敷がある。あそこに行けば……!そう思うと、胸が高鳴った。
和々が藤堂の屋敷の前に着いたのは、雷が頭上で爆音を響かせる頃であった。ズンと身体の奥まで震わせる音に、どきりとさせられる。全身が竦んで、自分に雷が落ちたらと何度も思った。蓑など身に着けてはいなかったので、髪や袖から水が滴る。足は草履の鼻緒が食い込んで、赤くなっているし、裾は泥が撥ねて灰色の染みを作っていた。
今更ながら、気が引ける。ここまで来て……とは思うが、いざ門の前まで来ると、自分の汚れた格好が気になった。こんな格好で会えない……。しかし、彰隆がいる屋敷なのだ、中の様子が見たい。雨が当たらない屋根が付いた門の陰に隠れた。戸は開いている。大きな門構えで、立派な柱の陰に身を隠して、中を窺う。
特に誰もいない。雷と雨の音しかしない。
ほっとしたような、残念なような……。考えなしに勢いだけで来てしまったが……これからどうしよう。辺りを窺っても、皆、どこかで雨宿りをしているのだろう、誰一人通りかかる人もいない。
もう一度、顔だけ覗かせて中の様子を窺う。
「ひっ……!」
蓑を着た男と目が合った。まさか人が近くにいるとは思わなかったのだ。ぱっと柱の陰に隠れたが、遅い。ぴちゃ、ぴちゃと雨に濡れた地面を踏みしめ、近づいてくる足音が聴こえる。
いきなり見つかってしまった!いや、でも、会いにきた訳だから……。動揺していても、待ってはくれない。すぐに男は、和々の前までやって来た。
「雨宿りですか?」
男は、被っていた笠を片手ですっと上げた。和々はどうしたら良いか分からず俯いていたが、恐る恐る男の顔を見た。
ここまで来たのだ、何もしないで帰れない。せめて、彰隆の様子だけでも知りたい。唾を一つ飲み込む。
「和々さま……で、いらっしゃいますか?」
「は?はあ……」
意を決して彰隆について聞こうと思ったのに、勢いを削がれた。なぜ、自分の事を知っているのだ。
「この前、神社でお会いしました」
「そうでしたか。すみません、気が付かなくて」
相手は憶えているのに、自分は分からないとは、相手に失礼だ。申し訳ないので、頭を下げた。ぽたぽた、と髪から雫が落ちる。
「和々さま、どうぞ中へ。濡れたままでは、お風邪を召します」
「え、でも……」
こんな姿で、迷惑だ。ためらってしまう。しかし、男はにっこりと笑って促した。
「御遠慮なさらず、殿も奥方さまもお喜びになられます。ささ、どうぞ、中へ」
あまり断ってばかりでも失礼だし、それに何よりも彰隆に会いたかった。
「では、失礼致します」
和々は男に誘われるままに、遠慮がちに頷いた。




